1 魚を飼う
一月前、魚を飼うことにした。小さな鰯のような姿をした魚で、昼間は半透明の姿をしている。日の光を浴び銀色の鱗が反射して、透明で見えにくい魚が動くたびにその居場所を知らせてくれる。夜になるとその小さな身体をはっきり見せるのだ。
私は自分の指を切った。すると、まだ小魚の『銀』がスルスルと飛んできた。そして、指から落ちようとしていた血をうまそうになめた。なめるとすぐに影しか見えなかった『銀』がぼんやりと薄い色を見せ始める。
腹を空かせると『銀』は半透明どころか全く見えなくなってしまう。しかし、餌を与えると薄い墨色と銀色の鱗がうっすらと現れ、元の半透明に戻る。
魚は普段は飛んでいる羽虫を勝手に捕まえてくるので餌をやる必要はないのだけれど、ときどき餌を自分で調達出来ずに影だけになってしまう。そんなときは私の血を与えるのだ。
ゆるゆると腹を満たして満足そうに部屋の中を『銀』は泳いでいた。窓から射しこむ日に当たって、鱗がきらきらと目にまぶしく光る。
もう一月経っているが、まだまだ小さいままだ。一応大きくはなっているのだろうが、それでも目を凝らして自分の記憶と照らし合わせて見てみなければその変化に気付かない。
『鉄輪の森』で夜釣りをしていたときに釣った魚で、あまりにも小さかったので逃がしてやろうとしたら何故か自分に懐いて、家までついてきてしまったのだ。それで仕方なく飼うことになり、せっかく一緒に暮らすのだからと名前をつけてやった。名前は日に当たると鱗が銀色に輝くので『銀』とつけた。すると、大変に魚が喜んだので、もう少し考えてやれば良かったと私は思ったのだった。
私はその日、所属する大学のサークルの笹野木先輩が魚を飼っているということを知った。先輩の家には魚の為の部屋があり、何匹もの大きな古代魚を飼っているそうなのだ。その他にも珍しい四季の魚、布の魚、月の魚を飼っていて、先輩は非常に魚好きで、魚愛好家の間では有名なのだそうだ。
今まで魚釣りはしても食べるより他にしたことがなく、一月が経った今でも魚の正しい飼い方がわからない。餌や環境などの飼うのに最低でも必要なことは本やインターネットで調べた。けれど、一番大切な魚を「喜ばせる方法」を知らないのだ。
目の前に立つ巨大な正門に私は圧倒された。首を痛めるほどに見上げて、鉄の門と空の境界を見つめた。表札には『笹野木』と太い達筆な字で書かれている。インターホンを押して、私の名を言うとすぐにゆっくりと門が開いていった。私はハッと息をのんで開かれる門の先に広がる光景を見ていた。私の隣で尾びれをせわしなく動かす『銀』も、私同様興奮しているようだった。
広大な敷地を遠くに見ながら私は門が開くと共にやってきた者に案内されて、しばらく素晴らしい景色を眺めながら歩いた。門から続く白い道の左右に美しく整えられた西洋風な庭があり、その庭を悠々と泳ぐ黄色や赤、緑などといった色鮮やかな魚たちが見ることが出来た。『銀』はその四季の魚たちにつられて一緒に庭を泳ごうとして、何度も私を困らせた。
庭の中心にはみずかめを肩に担いだ女性の彫刻があり、その甕から水が噴き出ている。そして、その噴水に群がる布魚たちの平べったい身体が水にぬれて、ひんやりとした冷気が、横を歩く私たちにまで運ばれてきた。
私が魚を飼うようになったと知った先輩は私を家に招待したいと言った。自分の自慢の魚たちをぜひとも見せたいのだと頬を赤くさせて語ったのだ。私に魚の飼い方も教えてくれるとも言うので、私はそれでは参りますと答えて行くことにした。
案内人の男が立ち止まったのは予想外に小さく、思わず「かわいらしい」と声に出してしまいそうな家の前だった。赤い煉瓦屋根に薄い橙色の壁に煙突が一つ。その見かけはまるで物語の中から出てきたかのような建物だった。腰までの白い柵と赤いポスト、それに家の周りを覆う雑草が、余計にそう思わせる。
彼は私と『銀』をここまで連れてくると、もうすぐ『かずや様』がいらっしゃいますと言って去っていった。私と魚はぽつんと家の前で残され、すぐ来るはずの『かずや様』、つまり笹野木先輩を心細く思いながら待っていた。
しばらくしてちりんちりんと金属同士がぶつかる音がしたと思うと、家を囲む雑木林から自転車に乗って先輩がやってきた。私たちを待たせたことに先輩が申し訳なさそうに謝ると、私の横で魚がくるりと翻った。
すると先輩は『銀』の動きに
「おっ! ははは、そうか。早く俺の魚たちに会いたいんだな!」
と上機嫌に声を上げて笑った。つられて私も笑ってしまったが、本当は『銀』が先輩の遅刻を「気にしていないよ」とおどけて見せたのだと私は彼に言わないでおいた。魚愛好家の先輩が魚の気持ちを分かっていないのだと初心者の私が言えるはずがない。
私たちは先輩に目前の家にやっと招き入れてもらった。家の玄関からすぐに魚たちの出迎えがあり、私と『銀』は少したじろいだ。魚は庭を遊泳していたものたちよりもずいぶんと大きな姿だった。
「実はね、ここ俺の家じゃないんだ。だから家の主にあいさつしないといけないの」
そう言って先輩は家の奥まで案内してくれた。
短い廊下を二回左に曲がって通されたのは白地に黒い丸が描かれた襖。その襖の前に立つと「入ります」と一声かけてから彼はスッと開けて先に入っていく。私も先輩のあとに続き、『銀』もおずおずと入った。
四畳半ほどの広さの中いっぱいに、ゆらりとその魚は泳いでいた。私は思わず声をあげそうになった。先輩と共に座る私の顔の近くまできて、鼻をかすかにひくつかせていたからだ。それはまるで目の悪いライオンが鼻をしきりに動かし、匂いをかいで食べものか食べられないものかを調べているかのようにも思える。そして自分の想像を真実にさせるかのごとく、この大魚には目がなかった。目のあるはずのところは暗い空洞があった。
「かがり様、今日は私の友人の瀬名恵と魚の『銀』をお連れしました。紹介することをお許しください」
丁寧に頭を下げる先輩の言葉に少し私も緊張してしまう。
彼はしばらく『かがり様』の反応をじっと伺うと、懐から手のひらサイズの酒樽を取り出した。
「ありがとうございます。これはお礼の印です。お受け取りください」
酒樽の蓋を開けると、ふわりと日本酒の甘くて強く鼻を刺激するものが香った。そして彼は再び頭を下げる。
『かがり様』は興奮したように酒樽の真上を何度も行ったり来たりを繰り返す。
すると、『かがり様』の横切るたびにごくりごくりと喉の音が鳴っては、透明な酒が減っていく。部屋の主が動くたびに障子越しに入る日光が鱗に当って、赤銅と紺の色を光らせていた。
樽から酒がすっかりなくなると先輩は唐突に「行くか」と呟いて立ち上がった。
「え? 先輩?」
私は『銀』とお互い顔を見合せながら、首をかしげて『かがり様』の部屋を出て行った。
「じゃ、俺の魚たちを紹介するよ。ついてきて」
先輩がくるりと振り返り、私に笑顔を向ける。
廊下の壁の窓はまるく、その窓は間隔をあけて一つ一つ薄暗い家に丸い形の明かりを入れている。その丸い自然の照明が床にスポットライトのごとく浮かび、二人と一匹はそれを踏んでいく。
角を二つ曲がって、また玄関近くに戻ってきた。
先輩が玄関そばの階段に足をかけたとき、先程からずっと気になっていたことを聞かずにはいられなくなって、私はたまらず尋ねていた。
「先輩、あの『かがり様』というのは……その、神様とか神の使いとか、そういった魚なんじゃないんですか?」
私は『かがり様』の部屋に入った時の先輩の丁寧な態度と出て行く時の彼のぞんざいな態度の違いに驚いていた。初めは、まるで信仰の対象のような態度で接していたので、この魚を神様か仏様か、それとももっと崇めねばならない他のものなのだと、私は感じていた。
「ん? ああ、あれは神様なんかじゃないさ」
私の言葉に一瞬呆けた顔をしたかと思うと、先輩はにやりと口の端をあげた。
「あの魚はもともと篝火の森の奥に建つ祠を漂う月の魚だったんだ。その祠には毎日誰かが酒をお供えしてて、その供えてある酒目当てにあの魚は漂ってたみたいでさ。で、俺がもっと酒をやるからついて来いって誘ったら、喜んでついてきたってことさ」
楽しげに『かがり様』との出会いを話す先輩は、私と『銀』を従えて二階にあがると短い廊下を歩く。目的の部屋に向かいながら、彼は大きなこの家の月の魚について喜んで話していた。
『かがり様』という名前は彼が篝火の森のなぞらえてつけたのだそうだ。この家の主として崇めているのは、『かがり様』のあの不思議な酒の飲み方とその大きさ、眼がなく暗い穴だけしかない目が、どことなく不気味で、また神々しくも思えるということでこの家の主にしたのだという。つまり先輩が言うには、魚の姿と特徴的な飲み方が面白いから崇め奉ってしまおうという遊びみたいなものだった。
「遊びですか?」
「ん。そうそう、遊び遊び。だから、気分出すためにやってんの」
「入るときは仰々しく入ったのに、出るときは結構いい加減な感じじゃなかったですか?」
「まぁ、気分が向いたらやってるから適当適当。それに、お前ああやって俺が急に態度変えたから『かがり様』が何か分からないけどすごい魚じゃないかって思ったろ?」
「……ええ、まぁ、そうですね。思いましたよ」
先輩の楽しげな表情に私は何か騙されたような気持ちになった。
室内をひらりひらりと泳ぐ魚たちに向けて指を鳴らす。その彼のしぐさに魚たちはすぐさま反応して、近寄ってきた。先輩は一番早くにやってきた魚をことさら可愛がるように、魚の口元に触れるか触れないかの近さで上下に指先を動かした。そして、愛でる人差し指の反対の手に持つ小さな瓶の封を破った。
「どうだ? いいか?」
先輩の瓶からはふわりと雨上がりの濃い緑の匂いが香ってくる。その匂いに酔ったのか、左右に揺れる魚たちの尾びれが時折止まった。
これが、この魚の喜び。私は透明な瞳の魚が徐々に湧き上がる喜びを感じた。先輩は、魚への一番大切な歓喜を呼び起こす方法を知っている。
先輩が私に紹介するために入った部屋には、色鮮やかな魚たちの群れが天井から畳すれすれを游海していた。時折早く旋回して泳ぐので、私の髪が揺れる。風を切って泳ぐ魚たち。
「俺の飼う魚の中で一番のお気に入りの葉葉の魚だ」そう言って、先輩は指を鳴らしたのだ。それから見せたのが、私が今一番悩んでいる魚たちを「喜ばせる方法」。
「先輩、この魚たちにも名前を付けてるんですか?」
「ああ、付けてるよ。でも、このリーダーの魚にしかつけてない。この魚たちは同じ群れだから一匹でいいんだ」
彼は呼び寄せた群れの中から、黄色い鱗に赤い斑点がある魚を指して言った。
「どういう意味ですか? 群れとしての名前ってことですか?」
「いやいや群れとしてじゃなく、リーダー魚だけの名前だよ。この種類は大体リーダーと同じ思考で動くから、一匹でいいんだ」
「え? 同じ思考だから一匹って何です?」
「ん?」
先輩とはどうやらお互いに齟齬があるようで、私の聞きたいことがうまく伝わっていない。
「そういえばその子は何て名前なんだ?」
「『銀』って言います」
『銀』が誇らしげに胸びれを動かす。
「ふーん、良い名前じゃないか。短くて呼びやすい。……もしかして体が銀色だからか?」
「そうですけど……」
「ぷっ!」
眉間に皺を寄せて口元を押さえていた彼は、たまらずといった感じに吹き出していた。それから顔中ニヤニヤとした表情になったかと思うと、それを隠すように私から顔を背けた。
「何ですか! 単純だって言いたいんですか!?」
「ああ、いや、そのまんまだと思ってよ」
と先輩は喉の奥でくっと堪えきれずに声をもらした。
「……自分でも見たまんまで付けちゃってこの子にはかわいそうなことしたかなって思いましたよ。でも、初めはここまで真剣に飼うつもりなんてなかったんで」
「で、適当につけたってわけだ」
先輩に私の言葉の続きを言われ、途端に『銀』と名付けた日の罪悪感が蘇る。
「やっぱり、ひどいですよね」
「そんなことねぇよ。別に名前なんて魚の気持ち知るために付けるんだし、魚に愛情持って接してやればどんなんだって構わないんじゃないか。俺の魚たちだって、そこまで深く考えた名でもねぇし。『かがり様』なんて篝火の森の祠から連れてきたって付けたんだから」
先輩は気落ちした私を励ますためか、少し饒舌に話す。
彼の言葉に『銀』への罪悪感が軽くなる。そして、気になることを先輩は言った。
「先輩、魚の気持ちを知るためって?」
「ん? ああ、お前そこから知らなかったのか。だからか、何か言葉が通じてないなぁって思ったのは」
私も通じていないと思ったが、それは先輩の説明不足のせいでもあると感じた。私はまだまだ魚を飼いたての素人である。
「魚ってのは名づけて初めて気持ちが分かるんだが、名づけた人にしかその知りたい魚の心は分からないんだ。だからまぁ、この魚たちの気持ちが知りたかったから、群れ単位で考えて行動するこいつらには、初めに動くリーダー魚の気持ちが分かってればいいってことで、一匹なんだ」
つまり群れ単位で思考する魚の気持ちを知るには、群れを率いる魚に名付けるだけで群れ全体に名前を付けたことになるのだ。
やっと理解した私はそういえばと思い出す。『銀』の行動の意味が私には分かり、先輩には分からなかった。それが私には不思議なことだった。彼は魚の気持ちなら熟知していると私に会うたびに話していたのだから。
「私は、もうすでに『銀』と心を通わせていたのか……」
「そうそう。だから恵が分からないって言っていた『喜ばせる方法』だってもう知っているんじゃないか? まだ知らないんだったら、聞けばいいのさ。一番嬉しいことは何ですか?って」
『銀』を飼い始めてから時々、私は魚を気持ちが分かるのではないかと思うときがあった。先輩が言うように魚を、『銀』を、「喜ばせる方法」を私は知っていたのではないかと次第に確信していった。しかし、すでに知っていたことを私は気づかなかった。ならば、きちんと『銀』に話を聞けばいい。
『銀』を見つめて『銀』の心を知りたいと心の中で強く思った。そして、目の前の銀色に輝く魚に訴えた。
――――――『銀』のいちばんうれしかったことはなに?
ふーっと私の胸に吹きかけられた『銀』の感情と記憶。
夜の月。ちろちろと動く虫をくちにした途端、ぐっと持ち上がる体。薄暗い部屋に差し込む光と指先から落ちる赤い水滴。そして、『銀』と初めて呼ばれた日。
「『銀』、お前名前を付けられた日が一番嬉しかったのだな」
私の言葉に肯定するように『銀』はひゅるりと横に円を描いた。
「そして、お前の好物は血だな」
彼の記憶の中で最も感じるていた喜び、そして、好物をこの小さく可愛い私の魚に確認するように問いかける。すると、先輩が驚きの声を上げた。
「へぇ、吸血魚なんて聞いたことない。珍しい種類なのかもしれないな」
先輩が口を開けて『銀』の姿を見つめて、驚きを表していた。笹野木先輩にも知らない魚が存在するのかと私は驚きを感じた。
「先輩、『銀』の本当の楽しみが分かりません。こうすると楽しいとかそういうのが伝わってきませんでした。この子の頭の中は名前のことばかりで」
この小魚は普段何を楽しみ生きているのだろうか? そう疑問に感じても『銀』の記憶で印象の残るものといえば名前と血液だけだ。しかし、名前は別として私の血は餌みたいなものだ。私が知りたい「喜ばせる方法」とは魚の遊びのようなもの、もしくは餌以外で好ましく思うものが知りたいのだ。
「好物も楽しみの一つだろ? 俺はこいつらの喜ぶことと言ったら。好物の匂いをあげることだと思っている。お前もそんなに気負って魚の喜ぶこと探さなくていいって」
「でも、ネットや本で調べた時には育成に最も大切なことは魚を「喜ばせる方法」とありましたし、先輩だって初めに教えてくれたとき楽しませることは大事だと言っていたと思うのですが」
「うん、そうは言ったけど、あんまり真剣にずっとそればっかり考えていても『銀』の気持ちなんて『銀』にしか分からないんだから、気長にこの魚を見ていくしかないだろう? 毎日話しかけていくんだよ。今何を感じているのかをさ」
「……そうですね。『銀』もずっと同じことばかり考えているとは限りませんよね。常に話しかければ『銀』の遊びたいことや喜ぶこともわかりますね。うーん、どうやら初めて飼う魚に気を遣いすぎてちょっとどうしたらいいか戸惑っていたようです」
「ふぅ、わかるぜその気持ち。俺も初めて魚を飼ったときは、大いに戸惑ったものさ。それに初めての魚は特別だからな、張り切るのもわけないさ。しかし、恵がここまではまってくれて嬉しいぞ。釣っても食べるだけって言っていた恵がここまでこいつらに思いやれるようになるなんてな」
彼の指摘に今までの自分を思い返してみる。確かに振り返ると私は魚を食料である以上には感じていなかった。
「そう言われれば食べ物としてしか見てなかったのに『銀』といると彼らが自分と同じ思考する生き物なのだって思えてきて……もう水族館で泳ぐ魚をおいしそうだとは思えなくなりましたよ」
「そ、そうか。そりゃあ、良かった」
先輩はなぜか顔を引きつらせて乾いた笑い声を上げたのだった。