上山姉妹の事情
「うっわ。あっさりすっぽり出ちゃったよ」
煤けた空。背後には固く閉じた銀色の門。
私はただ玄武さんの後ろをついていった。そしたら突然森が開けた。そして出た住宅街。見上げた空から、街並みへ視線を落とした私は首を傾げた。あんなに騒がしかった住民の声がしたのに、外を歩いている人は人一人いなかった。
「……皆、どこいっちゃったんだろう」
取り敢えず、場所を確認しなくっちゃ。
私は地図があるであろう掲示板を求めた歩き出した。傍にいる玄武さんも並んで歩き出す。そして、私の腕を掴む誰かが背後から現れた。
「――馬鹿姉ッ!!」
息を切らした妹が私の腕を強く掴む。制服姿の彼女は左手に水の入ったペットボトルを掴んでいた。視線を揺らした妹はすぐに私を見る。
「ま、…真理!よかった、あのね私家に忘れ物しちゃったの!家の鍵――貸してくんない?」
へらりと笑って背に玄武さんを隠す。妹は息を整えるといつもの剣幕で睨んで来た。どきりと軋む胸は私の表情に悪影響を及ぼさないだろうか。それも考慮しながら私は再度笑った。
――私と、妹との仲は良いと呼べるものではなかった。
悪い、と言えばそれは否定する。良くも悪くもお互いに境界線を引いて接していた。まるでごっこ遊びのような姉妹関係。真理は私を姉と呼び朝起こすけれど、その声にいつも妙な違和感を滲ませる。義務的な行為をすませて、その後はお互いがお互いを視えない者の様に扱う。ぶつかれば認識して、また顔を背けた。
昔は、そうじゃなかったと思うんだけど。
だから私は、この妹がこんな声で私を呼ぶことがにわかに信じられなくて、動揺した。
「取り敢えず……家、いこ」
妹はそう言い放って私から背を向けた。すたすたと一人でに歩いていく。私は玄武さんに手招きして、その後を追った。
「玄……武は真理に見えてるんですよね?」
「普通は見えぬ、はずだがな」
「ふうん……」
妹の背を追っていくのは楽だ。足音が響くから常に視線をそちらに投げ続ける必要もない。私は歩きながら風景を見渡した。
「ここって、こんなに人いないっけ?」
反応を期待して零した言葉ではなかったけれど、真理は僅かに顔をこちらに向けて口を開いた。
「この番地は一人も見てないよ。少なくとも、うちの周りはいつも通りだった」
信号が赤になっても止まる必要を感じないほどの閑散とした道路。ただ赤と青を上下するのが空しいとさえ感じてしまう程の――静寂。
「そしてやっぱり……。誰も、いないね」
塀に張られた住所を知らせる板。それは確かに私の住所を記してあった。真理は言った、少なくともうちの周りはいつも通りだと。でも……、
「これ、おかしいでしょ……コンビニに定員もいないじゃん」
「いたよ。行くときはね」
恐れもせずに進みだした妹の手を慌てて取ってしまう。まるで大きな口を開けた怪物の中に進んでいくような気がしてしまった私の無意識だった。
何?という様な凄みを眼鏡から発する真理は、空いた手でずれた眼鏡の位置を調整した。
「――何?痛いんだけど」
「危ない……から、あんまり離れないで」
「そういうことは、隣の少年に言った方がいーんじゃない?お姉ちゃん」
思わず見開いた隙を突かれて手を離された。妹はふん、と鼻をならすと髪を靡かせながらまた帰宅の道を早める。私は玄武さんを見下ろして唾を呑んだ。
玄武さんは、真理を見つめていた。
**
「はい。君にはオレンジジュースね」
「有難い」
「普通に馴染んでる……っ!」
家に辿りついた私達は、リビングで机を囲んでいた。すぐに自分の部屋に上がろうとした私を真理が引き留めたのだ。
……そういえば、こちらに帰ってきてからというものの、我が妹は変な行動ばかりしている。私を心配したり、庇ってくれたり。春休みに何か心変わりする事でもあったのかなあ……。
「……?真理、私のは?」
「は?自分で取りなよ」
うわあ、やっぱり前言撤回。
私は冷蔵庫に入っていたお茶をコップに注ぎ、玄武さんの隣に座った。同じようにお茶を啜る妹は制服のまま何時もの自分の席に座っていた。
「――で、真理。あんた何で学校行ってないのさ」
誰も口を開こうとしなかった空間だった。問いかけたい事は唯一つなのに、それに誰も触れようとしない空間だった。私は思考を右往左往した挙句、触れやすい話題に触れた。
「言うと思った。行ったよ。で、多分今日は創立記念日だったっぽい。お休みだから帰った。それだけ――悪い?」
「……真理、嘘つくならもうちょいマシな嘘つこうか……?」
「何で嘘って決めつけんの」
「うちの中学に創立記念日なんつー有難い記念日はないの!」
「チッ……」
私は溜息を吐いて浮かせたお尻を再び座らせた。不可解だった。真理は確かに私への態度は悪いけれど、学校を平然とサボるような子ではない。
「お姉ちゃん」
「……ん?」
「鍵……探しに来たんだよね。残念だけど、お姉ちゃんの鍵は家には無いと思うよ。だから……はい、貸したげる」
妹はキーホルダーの付いた自分が使っている鍵を私の前に差し出した。私は受け取りながら、妹を見た。
「私の鍵が無いって……どういうこと?私、かばんは家に置いてたはずだよ……?」
「馬鹿姉。――まだ熱、あるんじゃない?だから今日のこと覚えてないんでしょ。あほらし」
「えっ?えっとそれは……」
不意に出た話題にドキリとして、私は玄武さんを見た。ストローでジュースを飲む少年は、私の姿をちろりと見上げその唇を離す。
「――昇った。出るぞ」
妹がいきなり席を立って私を見た。私は急な事に付いていけず息を呑む。妹は素早い動きで首をあちらこちらに動かしていた。
「お姉ちゃんは二階のカーテン全部閉まってるか見てきて。早く!」
「えっ、あっ、うん!」
――どうやら、リビングの窓を見ていたようだ。少し外を見て、すぐにカーテンを閉める妹の様子に私は頭が痛くなった。
身を這いあがる悪い空気。リビングを出た私は、玄関に吸いつけられるように顔を動かした。
「うっ……」
悪寒。悪気。僅かな風が、私へ渡す。
それから逃げるように私は二階へ上がった。階段の踊り場の窓ガラス。そこに、カーテンは無い。差し込んだ光が私の目を通過した。その色に、私は顎を上げた――。
「まだ、昼にもなってないのに――」
煌々と輝く、赤い月。
あはは、と声を出して笑って私は月明かりの真下から移動した。逃げるように二階へ上がる。目に入った自室の扉を開けた。窓はベッドの方にある。だからベッドに膝立ちに昇って、私は目を向けたのだ。下へ。カーテンを少し開けて、下を見て――勢いよく窓ガラスから離れた。
何だあれは何だあれは何だあれは何だあれは!?
顔の無い影が、無数に揺らめていて、その影は何かを探す様に俯いていて、それはな、な、な――。
『 亜阿唖吾蛙ぁア…… 』
外は暗い。赤い光が唯一の光だった。手が震えた。足が震えた。喉が震えた。教室での、あの恐怖がフラッシュバックした。
「嘘だ……」
私は気持ち悪さにお腹を押さえながら立ち上がる。膝の震えから立ちくらんだまま、私は壁へ肩をぶつけた。ずるずると肩を引きずりながらドアノブへ手を伸ばす。すぐに私は妹の部屋に手を伸ばした。
おぼつかない足元に、揺れる視界を定めた。船が揺れる様に頭をもたげる度に、濃い瘴気は私の鼻を掠める。カーテンを見る。閉まっていた、――仕舞った。
『――止められないの』
背後で鈴が鳴る。その声は、尚も鳴る。
『――止まらないの』
腹を括って振り返るその先に、姿が描き消えた。霧の様に霧散した残り画に、噛み締めた唇を霞ませる。
「娘。確認は済んだか?それならば、疾く下へ」
「……わかった」
玄武さんの横をすり抜けて私は階段を下った。リビングの扉を開ければ、部屋の真ん中に佇んでいた妹が視線を寄越す。
「外、見たんでしょ?」
その言葉に、こくりと頷いた。
「変なのが、……うじゃうじゃいた。隣の家にも、いた。けど……よかった。家には居ないみたい。よかった……」
私は胸を撫で下ろしてソファに座った。すると妹が私の腕を掴んでこの腰を引き上げた。
「何言ってんのお姉ちゃん?ここもその内他と同じになるよ」
「……何?確かにそうかもしれないけど、まだここは可笑しくないよ」
「時間の問題って話。早く出よう。あと数分もしたら、私達も……消えるかもしんない」
ぴくり、と私は眉を上げた。
「――出る!?家を!?真理、あんた正気!?」
「うるさい。だったら何」
真理は私の手を離して近くにあった鞄を手に取った。
「駄目だよそんなの!危ない……危ないよ!もう外は……いっぱい……」
「お姉ちゃんは、このまま家に引きこもってろって言う訳?それでこの状況、どうすんの」
「……大丈夫」
「何が!」
「信じられないかもだけど、大丈夫なの。友達にね、安倍鏡子って子が居るんだけど、その子がきっとすぐに駆けつけてくれるから――」
だから、下手に動く方が危ない。
その言葉を言うより先に、少年が言を叩きつけた。
「無理だ」
「……え?」
「――鏡子は、助けには来ぬ」
肌が粟立った。引き起こされていた腰が沈んだ。自分の考えの甘さに――、頬が引き攣った。
「嘘、でしょ……?こんな時に変な冗談言わないでよ、玄武っ!」
きつく言葉を放つ。その先に、予想して。
ほら、早く笑って。ほら、早く目を逸らして。――ばれたか、って顔してよ!わかってるんだから。玄武さんの性格くらい。わかってきたんだから、私にだって!
きっと、遊ばれたんだ。きっと、彼は少しこの状況を面白くしたいんだ。そうだ、きっと、そうに違いないから――、
早く、言ってッ!!
「……、……ここの護りが暴かれるのもあと数刻。疾くせよ。相手様は、もう余裕が無いみたいだからなぁ……」
そう言い残して、玄武は宙へ消えた。その様子を別段驚く様子も無く見送ったのは、妹だった。
そして訪れた沈黙。音を立てたのはやはり我が妹。
「お姉ちゃん。異常事態なんだよ、冷静になって」
私は目を覆って、こくりと頷いた。
この二人の中で、私が一番冷静でなくちゃいけない。鏡子ちゃんや、先生が居ないなら恐らく……私が変異に対抗できる唯一だから。そして、私が妹を守らなくちゃいけない。
……ふふ、怖いや。怖いけど、私はお姉ちゃんなんだから。
「――行こう。……ああ、ほんとだ。視界が酷くなってきた……。ここ、も時間の問題みたいだね」
「だから言ってんじゃん。ほんと、馬鹿姉!」
「うるさいなあ!」
外にそろりと出る前に、私は制服に忍ばせておいた護符を取り出して二つに裂いた。せめてもの御守りだ。それを真理に渡す。真理は怪訝そうに初めはいらないと捨てたけど、頬を引き延ばして持たせてやった。私だってやる時はやるんだぜ。
まずそろりと玄関を出る。お隣さんの敷地内にはたき火の残り火のように揺れていたモノたちが、家の敷地内にはまだ一つもいなかった。けれど、確かに人型のようなモノ達は徐々にこちらに顔らしきものを向け始めていた。
「きっも……。って、何先頭仕切ろうとしてんのお姉ちゃん」
「当たり前でしょ真理!……良いから、私に付いてきて」
良いけどさあ、どこ行くの。
その問いにはぐぬ、と押し黙る。「取り敢えず行くの!」と後ろに投げてそろりそろりと門を出た。
息をするのも憚られる位の汚い空気と、視界を穢す塵の粉。手で振り払っても、すぐに空気の渦に戻されてしまって一向に先は見えない。私は取り敢えず何か私達の姿を隠せるような場所を見つけ、そこへ小走りで潜りこんだ。
木陰に身を潜めた私達の呼吸音がうるさい。私と妹は、互いが互いに消し合う様に息を潜めた。
「……あのね」
そう、話しだした私に真理は顔を向けた。まだ、息は若干荒い。
「真理に、家で言われてから考えたんだけど……。確かにあの家で怯えてるのは駄目だった。今の外の空気……来た時とね、だいぶ違うの」
真理は髪を掻き上げている。
「なんであの家だけ無事だったかはわかんないんだけど――」
「違うお姉ちゃん。それ、逆だから」
「――え?」
「……で?続きはやく言ってよ時間がないよ」
垂れる汗の原因は何か。
一度、固く目を閉じた。気を抜けば震えだす手を真理の目から隠さなければ。
「う、うん。だからね、思ったんだ。……ただ隠れてるだけじゃ駄目。根本から変えなくちゃ駄目なの」
「……うん。お姉ちゃん聞いて。私ね本当に今日の朝、学校へ出たよ。皆学校に行ってた。行ってたんだけど――、校内に入った瞬間に曇ったの。そして、誰も居なくなった」
淡々と語る妹の瞳を、唾を呑んで覗き込んだ。
「鞄はあった。筆箱だって。でもね、人がいない。友達がいない、先生がいない……。しょうがないでしょ、これじゃあ。だからね帰ったんだ。そしたら……人の声がする方へ行ったらお姉ちゃんに会った」
「人の声……私と、同じだ」
「今朝お姉ちゃんが出た方向とは真逆の所でね、見つけたから少しまあ、安心した……よ」
「今朝――――?」
言葉が引っかかった。今朝、私が出た方向って何?
「――そら、繋がるぞ」
「玄武!」
急に私達との間を縫って入った玄武さんに驚いた私と真理は少し身を引かせた。その後に笑った玄武さんは姿を滲ませた後で――、
「わあ!おねえちゃんたち、こんなところでなにしてるのー?」
「わああっ!?」
入れ替わる様に見知らぬ子どもが顔を出した。驚きの声を上げた私達に驚いたのか、小さな肩をふるふると震わせている。
「え、えと……!?君、だ、大丈夫!?」
「……!?えと、その……!?」
妹はたじろいでいる。そうだ、真理は子供が苦手だった。
私は取り敢えず子供を落ち着かせようと、精一杯笑って話しかける。
「ごめんね。お姉ちゃん達、ちょっと驚いたんだ。どぅわー、やーらーれーたー!……君、中々センスあるね!凄いよ!」
「……ほんと?」
HIT!この調子だ!
「ほんとほんと!だってね、お姉ちゃん達いまかくれんぼ……してたの。よく見つけたね、どこから見つけたの?」
「ぼく?うーんと……ぼくね、ここにいたよ。でもー、おねえちゃんたち、きづいたらいたー」
「おう……?」
「餓鬼のいうことはわけわかんものでしょ」
「――真理は黙ってなさい」
小声でぴしゃりと言いつける。子供は一度泣いたら中々泣き止まないのだ。
「えっとね。んー……ねえ、ぼく。君はいつから、此処に居るの?」
「ぼくね、いまみーくんまってるの!もうすぐくるよ、ママたちのおはなし、きこえたもん!」
「ママと一緒に来たの?ママは今どこ?」
「えっとね、あそこだよ――」
子供の小さな指が差す方向へ目を凝らした。そこは、空気が澄んだ青い空と一緒に大人の女の人が二人談笑をしている光景があった。妹は声を洩らした。私は、小さな喜びを胸に沁みこませた。
「ぼく!ありがとう!真理おいで、あっちよ!」
真理は先に道へ出て、曲げていた膝を伸ばし立ち上がった。私もそれに続こうとして、でも後ろを振り返る。
「……君は、此処に居るの?お姉ちゃん達といかない?」
「ううーん。ぼくはここでいまから、あそぶー」
「そう。……気を付けてね」
「うんー!」
小さな少年に、小さく手を振り私も脱出した。服に付いた木の葉を振り払い、立ち上がる。入り込んだ道とは違うまだけもの道だ。取り敢えず、先程の幼子が示した道へ私達は走り出した。
声の喧騒だ。光景の誘いだ。私達はただ、青へ向かって走った。
その先で――、光に呑まれた。
目を開けばいつもの風景があった。道行く人は、見慣れた行動をなぞっている。懐かしいとさえ感じるこの温もりに、私は真理を笑顔で振り返った。
「――真理!逃げてっ!!!」
振り返ったその先。真理を越した、獣道。奥へ目を凝らせば凝らす程、薄暗さはただの黒へ一点する。その奥から、迫りくるものを私は見つけた。一つの呼吸、その躊躇が、ためらいが、間合いを短縮してしまった。
何と例えたら良いのだろうか?何と形容したらいいのだろうか?煙……のような、黒いまがまがしいもの。かすった硝煙が、脳裏に激しい頭痛を催すからこれは――私の知っている、モノ。
作用だ。頭に、言葉が浮かぶ。
「お姉ちゃん!……っ、お姉ちゃん!!」
「うっ……、真理……これ、は……」
突き飛ばした真理が、急いで私の下へ戻ってきた。私は真理を突き飛ばしたまま道端に転がり込んでいた。擦りむいた傷から、何かが入り込む感覚がある。普通の視力では確認できないソレを、確認する勇気は未だ、無い。
それよりも。私が気にすべき事は今の状況であった。
嗚呼、空はまた覆われた。空気は既に淀みを含んで重く、沈ませる。視界が霞んで行った。いいや、これは――。
視界が霞んでいるのではない、世界が霞んでいる。
鮮やかな風景と、荒廃した風景が混ざり合い、反発し、溶けている。一方では婦人の談笑が、一方では有象無象に囁く声が反響している。そして、後者は……私が聞いていた声だった。
二分割されたような光景だった。……恐らくされているんだろう。今まさに、どちらも争っている。しかし、純粋なものは穢れていくものだ。悲しいけれど――私の心が、それを悟ってしまった。
「……真理、聞いて。その札がある限り、私達は恐らくあまり認識されないから――」
「駄目っぽい。見て、これ。黒ずんできてる」
「……――そうか……」
私も二分割にした札を見た。嗚呼、真理が言った通り――もう、白は失われていた。
落ち着かなきゃ。落ち着かなきゃ。
ドクドクと鼓動を早めていく心臓を押さえるように、私は真理の視界から手を隠す。唇を強く噛んで、周りを見渡した。
「まだ……まだ。この札の効力は、あると思うの。二つ合わせれば……まだいける。良い?これを持って、あそこの切れ目。そう、そこに突っ走って。私が時間を稼ぐから、振り返らないで。わかった?」
「――わかった。けど、お姉ちゃんはどうするの?これが無いと見つかるんでしょ」
「大丈夫。……お姉ちゃん、ちょっと異世界行ってきたから、慣れてる」
冗談めかして笑ったのに、真理の反応は想像していたものとは違っていた。其れは、どこか納得したような。其れは、どこか寂しそうな――。
いけない。別のことに頭をもっていかれるわけには。頭を振って、真理の手に札を持たせる。大丈夫だから、そう最後の念を押す。
真理から手を離せば、私は今度こそ一人で怪奇に立ち向かわなくちゃいけない。怖いのに、逃げ出せない。辛いのに、泣いてしまえば――死ぬ。でも、真理を巻き込むわけにはいけない。
アンス――、ねえ、また力貸してくれるよね?喋れないけれど、意志の疎通は図れないけれどまた私を護ってくれるよね?
……結局、自力だけの解決は不可能に近いのだ。誰かの様に在ろうとも、それは遠い憧れに過ぎないよ。
「真理」
自力の解決は不可能。それならば、私は私らしく立ち向かおうじゃないか。
「この空間を無事脱出出来たら、桜ノ下教会へ向かって。そこに多分、……湊がいる」
「湊さんが、協会に……?あんな胡散臭い所、一番行かなそうなのに……」
「あはは。真理は凄いね。でも、いるから。お願い、湊に伝えて。『――ピンチ!』って!さあ、行け真理!」
力一杯真理の背を押した。温もりが離れていく。真理は驚きながら体制を立て直して、一瞬私を振り返った。その同タイミングで、人ならざるモノから視線を集める私を見て真理は固まる。私は恐怖で震える表情筋を両の手で叩いた。私は本気だよ、と真理に示すためにも必要な行為だった。
私と真理は逆方向に走り出す。後ろを振り返らずに私は前へ前へ進んだ。後ろの光景を見れば驚くほど圧巻だろう。……ふふ、もしかして死んじゃうくらいな?
けれど、私が此処で倒れては何もかも無駄になる。死ねない、死ぬわけにはいけない。もう一度、あの世界へ戻り目的を果たすまでは。
必ず、わたしは、私は――彼を。
彼を?
ふと、違和感を感じて私は立ち止まる。止まれば騒ぎ出す心臓を押さえて、前よりも早く落ち着くようになった呼吸を整えて先程曲がった角にぴたりと沿うように立った。そろりそろりと身体を出して、一気に見るだけ。見たらすぐ逃げる。じゃないと、駄目。見たらすぐ、すぐに、ここを発ち去らなきゃ――。
「……え?」
がらんどう。その言葉がふさわしい。
曇った景色に立つのは私だけ。
「あ、あ……ああ真理!!」
なんだ――どうして――いったい――。
考える先に、答えを出す前に動き出した足。奮った心を容赦なく踏み潰していく最悪の想定。悔しさが、私の視界を覆っていく。自分を責め立てる声を上げる暇も無く感情だけが心の中で暴れた。その感情は言葉で形取る前に粉々に崩れていく。
「ここから先は、行かせることは出来ぬ」
荒い呼吸を吐き出す私の前に立ち塞がった――玄武。
「ふ、あはは!やはり、世界は――娘、汝の味方だな」
ま、り、が――。
少年の身体とは思えない程の力で私は行く手を阻まれる。振り解こうにも振り解けない。思考が、追いつかない――。
「落ち着かせる時間は無い。諦めよ、事態は一刻を争う」
「……どう、して――」
玄武の服を掴む。見上げる瞳に、瞳を見下した。
「教えて、くれなかったの。どうして、隠れるの。ねえ、どうして、――どうしてよッ!!私は鏡子ちゃんみたいに強くないの、何の力も無いのに!傍に居たんでしょ!?姿を消して、都合の良い時だけ現れて!お前は一体何の為に傍に居るの!」
どうして、助けてくれないの?
「――私は良い、まだいい。私は経験してるから、多少は慣れてるから!でも、でも真理は違うの!あの子は、何もわからない!」
「……娘」
目つきが、穏やかに移り変わった。鋭く――。
「自惚れるな」
「……は……?」
服を掴んでいた手を、強く掴み返される。
「娘よ、汝は我の何だ?護るべきものであろうか?頭を垂れるべき者であろうか?それとも何だ、――助けられるのが当たり前とでも言いたい面よの」
何故だろうか。強い既視感が、襲う。
「――自惚れるな」
嗚呼、
「我は鏡子の命のみ従う。忘れるな、忘れていたのならもう一度その魂に刻むと良い。――十二神将は、もう二度と娘の命には従わぬ。我らが無条件に守るべきは――鏡子、唯一だ」
真理……。
「わかりました。……傲慢な、態度を取ってしまってごめんなさい。もう、――何も聞きません」
早く、真理の所へ行かなければ。こうしている間にもあの子に危険が――。
「……離して」
「しかし、汝の意見を尊重する、と言った」
「……?」
玄武はまるで悪者の様にその顔を歪めた。
「妹のことを助けたいのだろう?それは諦めよ、既に手遅れだ」
絶句した。
「もう塵一つ残ってはいまい。確認するだけ無駄だ、確認するだけ汝の心が淀む」
足が、ふるえ、る。
私の――妹――は、もう……?
「あれを見てみよ」
差される方向をただ、仰ぎ見た。
見えるのは一筋の光。淀んだ空に穿つような、光。
「この事態、根本から変えなくてはならないと思ったな?正解だ、それで良い」
手を掴まれてぐるりと回転させられた。妹に、背を向ける私。
私は、また……。
「諦めよ。――この事態を選択したのは娘自身だろう?」
「……ああ、はい。そう、です……!」
朝。選んだ言葉。選んだ意志。ここから、出る事。
心の中でもう一人の私が何でを叫び続けている。どうして選んだどうして思ったどうして外へ出たかったどうして――。
答えが出ない。答えが見えない。答えが探せない。
解の無い問い掛けは無意味だ。知っている。私はそれを、遥か昔から既に知っている。
起こってしまった事象は諦めるしかない。
起こってしまった事は無かったことに出来ない。
進みだした針はもう止まられない。
あ、ああ。誰であろう。その針を回したのは、他の誰であろう――。
「……私が、望んだ……!」
「あそこへ行く。そう遠くはない。しかし、鏡子の介入が許されない以上我等だけで怪奇に立ち向かうにはあそこに行く事が必要最低限だと断言しておこうぞ」
「――行きましょう」
答えが出ない事を問いかけるのは、もうやめよう。
そう決めていたはずだ。そう、流されたはずだ。
キリがない。問いかけて入れば、いずれその問いで私は私を潰す。そうなれば――、誰が救うんだ。
辞めよう。私が壊れてはいけない。それが、せめてもの証明になると信じて。それが、せめてもの餞だと信じて。
「……腹は決まったか」
「はい」
「……泣いても、いいんだがな」
「泣きません」
いつかの日、誰かに守ると約束した。私を庇い血塗れに樹木に張り付けられた光景を微かに想起出来た。あの日から一体……幾日が経ったのだろう。あの日の誓いを、いくつの犠牲の上に私は……。
「泣いても、真理は――戻ってこない。戻ってこない事に執着するのは無駄なこと」
心が梳き通っていく。目の前が晴れていく。
「怪奇を打破します」
「承知した。それでは着いて来い。一刻を争う、少し荒々しく行かせてもらおう」
私は今度こそ、この手に剣を取ろう。――もう、問い掛けはしない。
**
私は少し走って……すぐに、走るのを止めた。振り返ると……やっぱりね。馬鹿姉、これだよ、これ。これに化け物は寄ってくるんだ。
「安全と思って渡したんだろ―な……」
走り去る姉の背中を見つめた。
満足だから、別に恨みはしない。何だろうね、どうしてかこれでいいかなってさえ思えてくる。
あんなに嫌いだったのに。あんなに悔しかったのに。
お姉ちゃんのこと。
「――ほら、化け物。かかってこい!あんた等が欲しいのは、これか、生身の人間でしょ!」
私は札を宙に放り投げた。淡い光を放っていたそれは、空に飛んだ瞬間に真っ黒に黒ずんで散った。そして、身を護る物を無くした人間に手を伸ばしてくる――。
喰われるんだ、そうわかった。
次々に身体へ飛び込んでくる衝撃を越して姉を見る。
ねえ、お姉ちゃん。家に此奴らが入ってこれなかったのはね実花さんの所為なんだよ。――わかんなかったよね、お姉ちゃん馬鹿だもん。
でもあれ、実花さんって呼んでいいのかなあ……。半分地縛霊みたいに、意志の無い感じに漂ってた。お姉ちゃんにぴたりとくっついて。でも……家を守ってくれてたし……。
それに、いまお姉ちゃんに此奴らが吸い寄せられないのも実花さんの所為。お姉ちゃんの気配、ここと一緒なんだもん。同じ位、黒くて……汚いよ。全く、馬鹿馬鹿しい程の清い気があんなに黒ずんで一体何やらかしたの?って感じ。
あーあ。結局私ってば、自分のこと、何にもわからずに死んじゃう、んだ――。
「……?」
ん?
「……」
『 亜吾阿ぁ 』
いや、いるわ。隣に居るわ。目を開けなくてもわかるわ、うんやっぱりこれ死ぬ――……。
あーあ、こんなことになるならこの間出来たケーキ屋さんいっとけばよかったなあ…。
「……ん?」
あれ?私死なないんですけど!?
「……え?何……?」
確かに、私の身体はゆらゆら揺らめく此奴らに覆い尽くされていた。……のに、私はぴんぴんしてる。ほら、ここでジャンプしても身体の感覚、何も変わってない。
「何何何……?」
そろり、そろりと後ろへ下がる。まだ空間の接合点が存在している。それならば、ここからの離脱だって図れる。
やばい!私通り抜けてるキモーイ!!
「ちょっと意味わかんないんですけど……」
でも後ろ歩きでもさもさゆらゆらしている此奴らの間の摺りぬけながら……ながら……脱出……出来て……出来て……、
「抜け出せた……」
出来てしまった……。
「――おい化け物!真理様はこっちよ!!」
大きな声を出して煽っても、まるで私が此処に居ないみたいに振る舞う。……チョップしてみた。当たんない。あれ、もしかして……。
私、本当に見えてないんじゃ……?
「――ふ、ふふふふふふふふあははははは!ほんっと馬鹿!知能低レベルー!」
愉快壮快らんらんるー!気分晴れるー!ぶち負かせる―!!
高笑いを浮かべても、何も誰も此方を見ない。うふふ、後でお姉ちゃん馬鹿にしてやろ!
――まっ、でもまずは……桜ノ下教会で湊さん呼んでこよっ。
んー、でもあの実花さん少しおかしかったんだよなー。お姉ちゃんも警戒してたし……んー。何か面倒くさい気配感知。
さっさとお姉ちゃん助けてもらって、お姉ちゃんに慰謝料請求しよ――!
妹ちゃんが言っている、あの実花さんは少しおかしかった…のあの実花さんは、泉がこちらの世界に戻ってきて初めにあった実花さんですね。一緒に学校に行こう、っておうちに来た実花さんです。
にしても長いよ、この章。そろそろ終わりたいね。