バベルの塔
大古の獣、にて挿絵を追加しております。勇ましい鏡子ちゃんがみれるので、是非~!
鏡子は、泉が眠る部屋の前で一度立ち止まった。深く、息を吸って、吐く。そして小さく、且少ない動作で部屋へ滑り込んだ。
薄いカーテンが掛けられ、僅かに部屋の中に灯が入る。奥のベッドに寝かされている上山泉の下へと、安倍鏡子は静かに歩み寄った。
「……陛下……?」
幾度となく零される言葉。位の至高の者へと、付けられる敬称。
それを、この異質な少女が冠するというのだろうか……?
安倍鏡子は納得できなかった。納得できる素材が揃っていないから。
「本当に……、上山さん。上山さんは、何だと言うのですか」
何が起こっているというのですか。何処から来たのですか。
――安倍鏡子は一度、大きく息を吸って目を閉じた。息を止めて、目を強く閉じる。ぐぐぐぐ、ぐぐぐぐぐ、と頭の中で音を浮かべながら苦しさに捩ってバルコニーへと続く扉を開いて外に出た。
夜風に誘われて吐き出した息と、月明かりに安倍鏡子は思いっきり声を上げた。
「お――ば―――か――――ッ!!」
不意に首筋を掠めた存在の発見。長い髪を振って、部屋を見落とした鏡子の目に見覚えのない少女の姿が映る。その少女の全貌は確認できなかった。ただ、上山泉が眠るベッドの縁に腰かけて、上山泉の髪を撫でるような手つきで――、此方へ振り返った。
咄嗟に護符を背に隠した手で握る。しかし、その少女は鏡子を見るや微笑んで、人差し指を立てた。
静かに。
しぃー、と。
初めて会う怪奇に鏡子は力強く足を踏ん張った。手の先さえ動かさない、まだ、目が合ってる内は。
その少女は動かない鏡子を見て満足したのか、その視線を再び上山泉へ降ろした――、
例えばそれは、音が追いかけるのを忘れたような。
例えばそれは、音を置き去りにしたような――一瞬の出来事で。
鏡子はその一瞬でバルコニーから部屋へ駆け入り護符を握っている腕を月光を遮るように掲げた。少女の顔面に影が落ちる。ついてこれはしないだろう、だって鏡子は完全に隙を付いたのだから!
しかし、振り下ろし、発動させようとした護符は静かに重力へ導かれた。空気抵抗を受けて、ひらりひらりと床に落ちていく。鏡子も例外では無かった。
「……えっ……!?」
慣性のついた体を上手く翻して床に最小限の物音だけで着地する。立ち上がると周囲を見渡すために死角になった影と言う影を立ち回り見る。
いない。消えた、何処に!?
嗚呼いう類の怪奇は、一度出現したら己の欲求を満たさない限り消えはしない。当たり前だ、姿を現すというのはそのためなのだから。神出鬼没は効率が悪い、――鏡子は息を呑んだ。
気配が、まったくしないなんて……。
鏡子の頭の中に、自分の声が響く。疑問を投げ続ける鏡子の本音に応える声もないのだから。だから、鏡子は声を上げてその不満を解消する他に短絡的な方法が思いつかなかった。苦い顔をして、右手を頭を掻くように乗せて、声を荒げようとして――。
歳の変わらない女が瞳に昏い色を落して鏡子の目前に姿を現した。全く気配を感じられなかった鏡子は驚きの余り声を呑む。女の緩やかなカールを描いた髪が揺れて、
「貴様一体……!」
黙れと凄む様に、上山泉の傍へと消えた。
鏡子は唇を一度強く噛み締めると、強い一歩を踏み出しながら大きく、口を開いた――。
**
「ったく……末恐ろしいぜ、びびっちまった……」
ガシガシと音が聞こえても友禅は満足するまで頭を掻いた。不意に手を止めると、その手が僅かに痙攣している。その事実から目を背けたくて、否、その恐怖を感じていることを少しでも感じたくなくて友禅は乱暴に頭を掻いた。
アスティンが出て行った後、呆然とした。緩やかに且恐ろしくスムーズに威嚇された、あの表情。少しでも目を閉じれば、暗幕に綺麗に映る――言葉、と、顔。
「くっっっそ!おい!おい!誰か居るんだろ!」
「――はい」
見えない影から出て来たスーツ姿の男が、膝を付いた。友禅は鼻先を指先で擦りながら、言葉を捲し立てる。
「アスティン様から直々のご依頼だ!嬉しいね、あぁ全くもって嬉しい限りだクッッソ!」
スーツの男は友禅が何が言いたいのかわからなかったが、敢えてその意味を聞くことはしない。ただ黙って見上げ続けていた。
友禅は胸の内の恐怖を吐露する様に言葉を吐き続けた。黙って聞く自分の従者が居ることを良い事に、あんなの怖くねえ、くそ何時か痛い目に合わせてやる――……と。するとふと、友禅の言葉が止まる。それにやっとか、と思ったスーツの男が落としかけた顔を再びしっかりとあげた。
「……俺、お前にアレ言ったっけ?」
「アレ、ですか?」
「あれ?どこまで言った?」
「アスティン様からのご依頼が来た、という所まで」
「ああ!?ぜんっぜん言ってねぇ――じゃ――ん!」
はぁあああああああんんん……と顔をげっそりとさせた友禅は倒れ込む様にソファに座り込んだ。スーツの男は動かない。
「そうなんだよ……あのさぁ……みんな、もう寝てるよね?」
「は?」
言葉が響いてからスーツの男は軽く動揺した。すぐさま訂正する「申し訳ありません、ええと……?」吃驚した。吃驚して友禅に対して雑な聞き返しを行ってしまった。
「どうなんだよ、寝てんの?」
「ああ……ええ、まあ……」
「じゃあ何でお前起きてんの?暇なの?」
「は?」
スーツの男はまたもや動揺した。すぐさま訂正する「申し訳ありません!えっと……」吃驚した。同じ過ちを二回も短時間で犯してしまった。
「答えろよ。暇なの?」
「――いえ。自分が、本日の友禅様のお傍付きです」
「ああ……律儀だねえ、ほんっと律儀だよちっくしょう……。おれさ、おれさ……そういうのが嫌で、上を逃げ出したっつーか、上の規範から敢えて外れたんだよね」
「はあ……」
友禅は手を伸ばした先にあったカップに口付けた。幸い、まだ中身は残っていた。おや、自分は先程全て飲み干さなかっただろうか……?
「荒れたよ?荒れたわ。しょーがねーじゃん。嫌だったんだ、嫌だったんだ!なんかさ、なんか作り物!みたいな?綺麗だね!はい!終わり!みたいな?はい畏まりましたかしこ!みたいな?……だからさ、俺、少しだけ、世界の仕組みをいじれねーかな、って思ったんだよね。自由っていうの?思考の。思想の。自分の信じるモノは俺が決める!みたいな?上手く行けば、それがお前達にも伝わって、ぜってーこの世界も気持ち悪くなくなるって思ったんだよ」
スーツの男は察した。長くなる、な。この話。
「昔はさーっつってもかなり大昔。お前のかーちゃんが生まれるよりももっと昔だぜ?お前も長寿の類だけど、俺よりかは短命だろ?俺が若かった時代の話しな」
「今も随分お若いです」
「アラヤダー!……外見はなぁ。んで、昔のこの世界ってさ。俺からしたらほんと気持ち悪かったのよ。神々が普通にこの地面に立ってて、人間は人形みてぇに働いてた。俺だってそいつらと同じさ!ただ上の世界の住人ってだけで、人間界では陛下のような事が出来た!でも、俺だってそいつらと同じだったんだ。だから、だから!態々外れたっつーのに!また顎で使われるのか!俺は!畜生!逆らえねぇ!もう逆らえねぇ!酒だー!酒を持ってこい!」
カップの中の紅茶は空になった。叩きつけられたカップに、傍にあった紅茶を並々と注ぐ。湯気がうまく上がらないので中身の温度は知れるが、まあ、この状態じゃ逆にこの位が丁度良いだろう。
「――ってことだ。早朝に会議を行うから、皆を叩き起こせ。んじゃお前も早く寝ろ」
「はっ。――ってちょいちょいちょい待ってください!」
あっ、スーツの男は動揺した――が、今にも自室にふらふらと戻りそうな友禅だ。ここは強引にでも止めなければならない。
「何故皆を集めるのですか!友禅様!」
「あれ?俺また言ってない?」
「い、言っておりません!!」
友禅は首を鳴らすような仕草と一緒に傾げた。パキッと乾いた音がする。
「……アスティン様直々のご依頼だ。上山泉、安倍鏡子、アスティン先生の――成り代わりを超速攻で作る」
スーツの男の目が僅かに開いた。動揺が冷たくなって、呼び止めるために上げた手が下がる。
その顔を横目見た友禅が、苦笑した。眠たそうな表情と、困った表情が混ざり合う。
「――だろ?無茶苦茶だよなあ?」
成り代わりは、そんなインスタントラーメンのようなお手軽なものじゃない。お手軽なものじゃないからこそ、他者修正機関は――、裁かれた者が流れつく場所として存在しているのだ。
部屋を出た友禅は歩みを早めた。その瞳に、僅かに過去を起こしながら。
『お前は、地獄には堕とさない』
頭上に見えた光。水に濡れた身体が冷えていて、その光がとても暖かった。自分と同じ地平に立つ紫の瞳の女は、冷徹な表情を崩さずに、友禅と同じように頭上の光を浴びていた。
「地獄か、人間界か……」
『――いいえ。人間に転生させることはしないわ。お前は、そのまま人間界へ堕ちなさい。そうね、他者修正機関。そこを、お前の罪の償いが終わるまでの居場所とする』
友禅はその言葉に高らかに笑った――、息は吸うたびに震えていく。呼吸音は、喋るたびに増していく。そのすべてを見透かされていることを、自分に伝えないために。大きく、愚かに。
『はあ……。わかった、わかったわ愚か者!その意気良し、ならば今すぐ堕ちるがいい!そして時の流れを知るがいい!もう逃れられない、逃れることは出来ない!足枷を、手枷をくれてやろう!ユースティティア!』
「やめ、やめだ」
頭を叩いて、目の前から幻影を消した。首を振って、声を払った。
少し視線を上げれば、もう自室が見えた。冷たいドアノブを握り、扉を開いて――、
「――あ。忘れた」
記録帳をあの部屋に置いてきてしまった。取りに行かねば、あれに万が一があってはいけない……。
「友禅様!」
停止していた背に、掛った声が一つ。その声に友禅は振り向くと、それは先程のスーツの男だった。手に持っていた書物に目が良く。ああ、よかった。
「わり、サンキュ」
「いいえ。では、お休みなさいませ」
「ああ」
重みを受け取って、友禅は消える従者を見送った。よいせ、と重さを分散させるために持ち直すと肘を使い扉を再び開ける。部屋の電気を付ける腕は無い、だから友禅は扉に寄りかかったまま部屋の中に差した影を眺めた。
――よし。
友禅は扉から素早く身を離すと、奥の机へ駆けこんだ。部屋の中の光は徐々に消えていくその中で、滑り込みながら書物を少しばかり乱雑に宙に浮かせる。流れに乗った書物は一段二段三段と擦れる音を響かせながら停止する。まあ、そのことを確認する間もなく友禅は後方へ身を翻し一気に駆け出した。手を伸ばす―――部屋の灯を付ける!スイッチ!オ――――ン!!
「――ふう、酷い戦いだったぜ。ああ、まったく……」
疲れた。今のでどっと疲れが押し寄せて来た。だが……、今此処で眠るわけにはいかない。
「上山泉のは……これか。……さて、アスティン様にも聞きそびれちまったし、俺だけで考えるのはなあ……俺頭良い方じゃねぇし……」
一冊の書を持ち上げてベッドに腰を降ろした。固い表紙を捲れば、その人物の物語が始まる。つらつらと書かれた個人の歴史書、一ページ目は勿論、出生で――、
「……なんだよ、これ……」
人々の生涯を本という形にした機関のシステムは、誰かの手によって書かれているわけではない。書事態が一個の概念として存在し、時の流れに準じて形成されていく。時の流れは一方通行だ、書は増えることはあっても減ることは無い。稀に例外が発生するが、そんなことはもう例外として普通になっている。抜け落ちた真白のページは必ず何らかの形で埋められる。しかしながら、その例外が中間のページを指すのであって……。
まさか、初めのページが増えていようとは。
友禅は呼吸を忘れたまま、アスティンとの対話の材料にしようとしていた中間のページを探した。
「――あった!……やっぱり、ここは何も書き込まれてねぇ……のに……」
目を落とした紙は、明らかに色が違う。そして、またもやこの書の異常に気付いていく。
ページを捲る。空白。ページを捲る。空白。空白空白空白―――――、追記再開。捲る、捲る、捲る、そして訪れる空白――――。
記憶の回想だろうか?これは。何の書だ、これは。
頭の中で過去を回想するとは訳が違うんだぞ。なんで、所々抜け落ちている。否、抜け落ちている量の方が圧倒的に多いじゃねぇか。何だ、これ、は……!?
友禅は何かを感じ取り衝動的に書を閉じた。見てはいけない気がした。理解してはいけない気がした。何かから――、咎められるような、気がした。いや、咎められるだけではすまないのではないか?何だ、この、感覚は――!
上山泉、あいつは……何だ……!?
「エリーシア様……上山泉……シリウス……」
喉を鳴らす。この書を開けば、何かが繋がるかもしれない。けれど――、
友禅の脳裏に焼き付くは、アスティンの目。
アスティンは知恵の権化、叡智を司る者。友禅よりはるか高位に座する者。友禅が知れば、それはアスティンが知る。琴線に、触れるだろう。
「落ち着け……落ち着け俺……関わるな、踏み込むんじゃねぇぞ、……俺は……人間界にいる……!」
友禅は書を机の上に再び戻した。深く息を吸って、吐く。
沈むのだ。深い眠りの底へ。そうすれば、今は抜け出せる。
――そうやって、己を騙した友禅には知る由もない。
書を開けば、対価の代わりに知り得ただろう。
今、この瞬間に、書き加えられている事項を。
穢れたバベルの塔じゃないです。