叡智を司る者
安藤実花を担当していた職員、菫さんは――今眠りについている。
あの後、私の胸元に倒れた菫さんは姿を完全に変えてしまった。いや、元に戻ったと言うべきなのだろう。
けれど、私にとっては無意味な喪失感が大きく胸中を占めてしまった。……失望したのだ。そう、望みを失った。
しかし、僅かな希望を得た友禅さんは先ほどから忙しなく動き回っている。どうやら、椿さんの居場所もわかったらしい。優しい手に引き寄せられ、その肩に頭を預けていた私は、その様子を傍観していた。
「ピアノ……」
私の呟きに、先生の右手が私の右耳へ触れた。まだ、聞こえるのかい?という優しい声が降ってくる。私はそれに首を緩やかに振る形で答えた。
「友禅さんのピアノを聞いてるときに……実花が、見えたんです」
先生の手が、肩に落ちた。
「……実花は、私に言いました。僕を置いていくのかって……そして、愛、って……。実花はそもそも、僕とか言わないし、愛なんて……よくわかりません。でも、あれは……あれはたしかに、実花だったんです」
酷く悲しい目をしていた。酷く、悲しい目をさせてしまった。
あの顔は――酷く、心を抉る。
**
「上山泉、聞く気がないのならその意識、おとしてあげてもいいのですが?」
「物騒だよ、鏡子ちゃん……。大丈夫、ちゃんと聞ける」
「そう……ならいいのです」
私の隣は鏡子ちゃんになり、鏡子ちゃんの隣にアスティン先生が座って居る。その私達の目の前に座るのは友禅さんで、やっと一折の区切りがついたのか、少し疲れた目を解しながら息を長く吐いた。
「……有言実行とは正しくこの事だと思った――ありがとう……ございます。その誠意に、卑しい我が身ですが、誠意を以て応えさせてもらうぜ」
「惜しいね、君」
豆鉄砲をくらった鳩のような顔した友禅さんを見て、言葉をかけた先生は笑った。先生は紅茶を口に一杯含むと、寄りかかる鏡子ちゃんに一言入れて、その身を僅かに乗り出した。
「……わたしは、本当は今、話すべきじゃないと思ってるんだ。泉さん」
向けられた視線は――私だ。私は頼んでおいたコーヒーの匂いを嗅いで、先生の方へ言葉を発した。振動で、コーヒーの水面が揺れている。
「構いません。お願いします」
握り締める手に、痛みが走ればこの意識は落ちない。だから、強く握りしめる。
「なあ、上山泉。眠いなら素直に眠いって言っていいぜ?ほら、夜更かしは美容に――」
「――構いません」
「……ご、ごめんなさい……」
急に顎を掴まれて向きを変えられた。否応なしに目の前に入った顔が、訝し気に目を細めている。
「体の気も衰えて、身に混ざる瘴気の色が濃く、肉体は疲労に困憊し、意識は今にも眠りの淵へ――……何をそんなに意固地にさせているのです?」
「まだ瘴気、濃いの?」
私の問いに鏡子ちゃんは自信気に鼻を鳴らしながら笑う。
「――いいえ!この鏡子の祓いに、無駄が、あるはずがないのですわ!」
「ならいいじゃん。友禅さん、話って?」
「はいはいはいはいはいお、ま、ち、を!それとこれとは話は別なのですこの茄子。アスティン様のご心配を無下になさるのですか?この胡瓜。寝ろと言われたのですから素直にお休みになられては?この児子」
「嫌」
右手で鏡子ちゃんの私の顎を捉えた手を引きずり離した。そして視線を逸らす。
「この我儘――ッ」
「怖いの!」
また、コーヒーの水面が揺れている。
「このまま寝てしまったら……また、何かわからなくなるかもしれない。あの実花を忘れちゃうかもしれない……ねえ、アスティン先生、そうでしょ……?」
紅茶を飲んでいた先生の目が、伏せられた。その行為に胸が打たれたようだ。
「嫌な風に、残ってしまったね。あの世界の記憶」
「な、なんだなんだ……!?」
「――わたしを、疑っているのかい?」
今度は私が目を伏せる番だった。嗚呼、少しでも瞳を覆う面積を増やしたら、実花がフラッシュバックしてしまう。近すぎた、今日は――実花、あなたに近かったの。だから、怖いのよ。忘れちゃう、私は何かを忘れてしまう様な予感がするの!
「馬鹿、ですわね。上山泉」
私は思わず顔を上げた。そして感情が湧き上がる。そのまま、感情に任せて言葉を吐きつけようとしたその瞬間を、鏡子ちゃんは見事に打ち抜いた。
「大馬鹿者ッ!!人を、自分を何だと思っているのですか⁉」
私は息を呑んで浮き上がった身体が再びソファに沈んだ。反対に鏡子ちゃんは立ち上がり私に言葉を吐き続けている。
「上山泉、貴様は先日の鵺との戦いにその身を一時的とは言え神に――鵺との戦いに、傷つけているのです!普通ならば、その身は今日一日を使って休めさせるべきもの。再び戦う?馬鹿、そう馬鹿だったのですわ!それも全部っ、この、佐倉湊のせい!」
「いや、俺は佐倉湊じゃ――」
「だまらっしゃい!良いですか⁉上山泉は、更に自分の身に私が教えてた護符を発動させたのです!負担が、負担が大きいのですよご自愛ください!……ふっ、ご安心を。忘れることが怖い?ならば、ならばこの鏡子が覚えてあげましょう。教えてあげましょう。誰よりも恐ろしい教鞭でね!」
「きょ、鏡子ちゃん……」
鏡子ちゃんは肩で息をしながら、最後に――笑った。
「見縊らないでください安倍家を。ええ、何たってこの鏡子は晴明が実の子孫――なのですから。何者も、この鏡子に忘却の術など使えません。ふっふ、当たり前です、私は……――神さえも、式神とした家の当主なのです!」
神さえも、式神とした……家。
「ふふ、次期当主、でしょ……っ」
暗転した。嗚呼、これは強制だ。これは――……。
自分が眠るのだとわかる。そして、安心した。闇の中に私が立つと、絶対に――、
太陽が、照らしてくれるのだから。
「お待たせ。泉さんはよく眠っているよ……これで一安心だ」
残り二人が待つ部屋にアスティンは戻る。上山泉、ただ一人だけを別の部屋に移して。
「上山泉の容体は如何ですか?」
「うん……」
その言葉にアスティンはソファに腰を沈めながら頷いた。対して友禅は、罰の悪そうに顔を曇らす。前髪を弄るような動きで目前を覆うと、己の犯したことに苦虫を噛み締めたように表情を密かに変えていた。
「良い、とは言い難い。……無理もない。元々あの身体は鵺との戦いで疲れ切っていたんだ……無理もない。加えて――今回だからね。他者修正機関、君を責めたい気持ちは山々だけどこればかりはお門違いってやつだよね。我ながら、修羅に意識を落としたい気分だ」
アスティンは盗み見た友禅の表情を見て、ふと茶化す様に声色を和ませる。その変化に目を追った鏡子は、多少むっとしながらも溜息でそれを了解した。
「……上山、泉のことなんだが……よ」
恐る恐る、友禅は顔を上げた。
「本当に……陛下じゃ、ないんだな?」
「――何度言わせれば君の気は済むの?是非、わたしに其れを教えてくれるかい?」
アスティンの膝を組みながら笑みを零す姿に友禅は上げた顔を下してしまった。鏡子は初めて見るアスティンの一面に表情を崩さず紅茶を口に運んだ。鏡子が寄せた眉の意味は、嗚呼緑茶が良かったくらいの意味でしかないのだろう。
不快だ。
不快だ。
わたしの心を我が物顔で侵していくこの感情が――不快だ。
身体でさえ、精神でさえ、彼女を守れない己が――不快だ。
わかっている。わたしは、そういう役割を与えられていないことくらい。だが、だからと言ってそれに甘んじられる程わたしは無知ではない。そういう風に役割を与えられたのだから、仕方がない。
仕方がないと言葉を零して――、眠る彼女の頬に手を這わせた。暖かい、それが生きているという証拠になる。人も、――わたし達も。
" アスティン。エリーシア様の身体は、核が無くとも機能しているのでしょうか "
" いや、魂は既に此方には無いから…… "
" 嗚呼、そうだった。なら、――ならば。今この手でエリーシア様の身を抱いても、僕には感じられないのですね……はやく、見つけなければ……エリーシア……様 "
「泉さん……ごめん、ごめんね……」
落とされた魂。数多の人の中に隠れた有り触れた魂を装った異質なモノ。裏切りに絶望し、人間界に逃げ込んだとされる哀れな魂。……あの日、目さえ合わなければ、魂の本質さえ見抜かれなければ、いま泉さんが抱え込んだ苦痛は全て存在しえなかったことがわかる。数年伸びていた、いいや――可能性の中には今世一度も見つけられない道があった。
グリームニルの悲願。それを知らないわけではない。
だけど、ね、スワード。君は、この少女が少女であることをわかっているのかい?
身体の奥、その魂の奥に確かにエリーシア様は存在している。既にその瞳は開かれていて、今現在に至る泉さんの意識の半分をもうすぐ乗っ取るだろう。ここ最近の泉さんの言動はおかしなものが続くからそれに間違いはないと断言出来る。
だが――、それに比例するように月は赤く満ちていく。立て続けに起こる怪奇は、明らかに泉さんを狙っている。そして、挙句の果てに今回の様なイレギュラーが起こってしまった。遠まわしに、泉さんを確実に傷つける。
ごめんね……。
君を助けたいと願いながら、君を傷つける方へ誘うわたしは酷く滑稽な道化だ。
嗚呼、泉さん。君は――、
「――諦めを、知ったんだね」
「言葉を返す様で恐縮だけどよ、これはどう説明すんだよッ!!」
友禅は一冊の書を机に叩きつけた。勇猛なる行為、振える指先がそれを示した。アスティンは眉間を押さえると、頭痛を押さえるように息を吐く。
「い、勢いで流そうたってそ、そうはいかねーぞ……!」
「全て此方の言うとおりに動くのではなかったの?」
「俺はなあ、信頼ある協力関係がイイんだよ!」
「はあ……。下らない、鏡子お先に失礼させて頂きます。よろしいですか?アスティン様?」
その問い掛けにアスティンは鏡子の方に顔を向け頷いた。それに笑顔で答えた鏡子は、扉の前に立つとくるりと振り返り「それでは――さらば。お部屋は上山泉の部屋をお借りします」と述べ、静かに扉を閉め出て行った。
「ちょ――!」
と友禅は中途半端に浮き上がらせた身体を、苦い顔を浮かべながら沈める。重い沈黙がじわじわと襲い来る。己が招いたことだと知っていたが、ここで鏡子を失ったのは失策だった。
純粋に、アスティンと二人きりは嫌だ。
「……良く出来た子だろう?彼女」
「えっ」
不意に掛けられた穏やかな声に上手く反応することが出来ない。反射的に上げた顔は、先程までの剣幕が嘘のように穏やかに緩んだ頬を見せるアスティンを見つめることが出来た。
「わざとだ。安倍さんは、わざとこの部屋を出て行ったんだ。……わたしと、君の為にね」
「……ただ眠たかっただけだろ」
「ふふ、そうかもしれない」
今なら――切り出せる。
アスティンの笑みに失った勇気を取り戻した友禅は、机に叩きつけた一冊の書を持ち、或るページを開くとそれをアスティン側に回して置いた。
「この書は、純粋に上山泉に関するデータ。生まれてから――消えるまでのデータが記入されている。事細やかに、どんな歴史書よりも正確に。ま、これを基に――」
「他者修正機関は動くからね。……友禅、と言ったかな。君はこの機関での最後の一人だろう?」
友禅の眉が、一度僅かに動いた。本人さえも気づかない程の僅かな変化だったが、それにアスティンは目聡く気づく。
「……最後?うん、どーゆー意味の?」
「ふふ、無駄な隠し事はわたしの前では無駄というものさ。流石の記憶も薄れるだろうから、わたしの事を覚えてない……もしくは所々忘れていても問題はないけれど」
「んなら答えなくてもいいじゃねぇか。……どうせ、テメェの書には俺のことが載ってんだろ。ああ、罪人ってページにさ」
投げやりに放り出された言葉をアスティンは笑い飛ばした。一つの呼吸で。
「……この、泉さんの本に、先程のエリーシア様の記録が載ってないのは説明した通りだ。別に可笑しなことじゃないだろう?」
ページをなぞるアスティンの指。一つ捲って、幼い記録に目をとおす。突然、上山泉の書の横にもう二つ、分厚い書が置かれた。随分重い音だ、その一つの固い表紙を開き、慣れた動作で友禅はページをあるところまで捲っていった。
「これが――、つい最近、書き足された個人の書。このイギリス人、名はアンナ・ハスラー。……ここを見てくれ。『14世紀、アンナ・ハスラー、天界へ渡ったことを確認済。適切な補完の元、期限内に存在の有無が確認できなかった場合、これを死亡とする』……んで、三年後。当時のヤードに遺体を発見されてる……だけどよ……」
友禅は指を右のページをスライドさせた。そのページは、古い書物には似合わない綺麗な紙が続けられている。
「『追記。アンナ・ハスラーの帰還を確認済。よって、これ以下よりアンナ・ハスラー本人の死までを記録する』……なあ、グリームニル卿。これ、変か?」
「……」
「他者修正機関のシステムが、バグったってのか?」
「……正常だね」
「だろ。じゃあ、こっち。こっちもイギリス人、名はミズナ・ハスラー。……アンナ・ハスラーと全く一緒だ」
アスティンは、ミズナ・ハスラーの顔写真と記入事項を流し読みして内容を把握した。あの子達で間違いはない。……思わず出てしまう、溜息。
「それに対して……上山泉は……」
友禅はアスティンを一瞥した。
笑っていた――。
アスティンは、困った様な、嬉しそうに、はたまた――……。
「知識とは、在って然るべきものだ。そこにある、確かにある。だけどね、全ての人が持つ必要はない。知られない事柄は数多に存在し、周知の事実もまた然り。君たちは、わたしたちが零す知識を受けている。……あれ?おかしいな……」
アスティンは、頬を照れたように掻きながら首を傾げた。
「君は――バベルの塔を、知らないのかな?」
友禅は、声が出なかった。張り詰めた声帯が、震えすら恐怖する。
「それでは、今日は失礼しようかな。随分夜も更けて来たし、幸いここは他者修正機関。……ねえ、友禅くん。手配、頼むね」
「――えっ?あ?な、なんの?」
「それは勿論、わたし達の代わりさ!泉さんを休ませたいんだ、よろしく頼むよ!」
「はっ!?え、え"――⁉」
お話フェイズ