わたしとあなた
「どうした!何だ!?」
更に飛び入る二つの影。友禅さんはその目に誰かを捉えると、一瞬の間に襲われて声を上げた。「――菫!」叫んだ声に呼応して、――実花が叫ぶ。
「湊くん!泉を護って!!」
私へと視線を移す友禅さんは、私の異変に眉を動かした。しかしそれ以上動けず、口を開くことさえ躊躇ってしまった友禅さんを見た実花が、唇を噛んでスーツの人を投げ飛ばした。呆気に取られる数人、実花は人とは思えない速度で低姿勢から私をかすめとった。
嗚呼、――ああ、実花。
やっと、助けに来てくれた。
「無事でよかった……泉……」
唇の動きで言葉を読み取れるわけない。
二度目の難聴に、さすがの私を心の奥底で呆れ笑った。私の薄く開いた目に浮かぶ雫のせいで、実花の姿が歪む。もっとよく見せて欲しい、もっとよく聞かせてほしい。やっと腕の中に帰ってきた、一人を。実花、あなたに謝りたいことがある――。でも、でもその前に。私は、
「実花、――無事?」
と笑った。
頬に冷たいものが落ちる。落ちる、落ちて、落ちる。浮き上がった身体は、きっと抱きかかえられたのだ。
「あたしは泉を守るよ。……そう昔、約束し合ったんだから。……湊くん」
「違う!菫!まて!」
そう言い捨てて、片手で椅子を持ちガラスを割って外に飛び出た。人間業じゃない。端から結界が張られるのを脚力だけで抜ける。そのまま森へ入り、実花は教会から遠ざかっていた――。
パイプオルガンが奏でるメロディーが途切れ途切れになっていく、その間に滑り込みだした声。その引っ掛かりを得ようと目を開けた私は、目の前を掠める緑を視界に映した。駆けて行く森に、実花の跳ねる息が届く。そして、もう一つ――、背後から追ってくるその気配は、私を捕まえた。
"上山泉!聞こえるか!"
「……きこえる」
声に出せた気がしない。だから、目を閉じて心の中でもう一度強く言い放った。
"無茶苦茶だ!俺のプランが一気にパーになった!ああ!一から説明する暇はねぇ!約束は守って貰うぞ!――あっ、いや守ってください!もう時間が無い!お前も見えてるだろ、安藤実花の姿が!"
目を開けて、私を抱えて無我夢中で駆ける実花の顔を下から覗き見た。僅かな夢が遠ざかる。胸を巣くうじわりとした熱いものが、私の思考を再び正常へ修正する。
"泉、お前は本物だと仮定出来たとしても、そいつは本物の実花じゃねぇ!そいつは、菫なんだ!約束を、誓いを守ってくれ!"
"――何を、すればいい?"
"ああ、ああ!言う、今から言う!あああちくしょう……本当はもっと前準備に時間を掛けたかった!いくぞ、言うからな!聞き逃すな!泉、お前には今から俺達と逆の事をしてもらう。至って簡単だ、椿に成りすませ――おっと安心しろ。椿の情報は追って渡す。いいか、お前は椿になりすまして菫を安藤実花から引き剥してお願い!"
"泉さん。大丈夫、わたしが遠方から支援するから心配しなくて大丈夫だ。ほら、続きを"
"よし、順序を説明するぞ。いいか、物事には成り行きがあるんだ。泉は徐々に上山泉から椿へと成り代わる必要がある。始めに、実花との本物の思い出話をして欲しい。今、すげー速度で逃げてるだろうけど多分……目的地があるはずだ。いくら人間の身体じゃないからってその速さはくそ疲れるしな。止まったら、切り出せ!衝撃的な思い出話がいいな。何か、……ほら!心をガツンガツン行くような!"
"――そして?"
"飲み込みはええ!……んで、雰囲気が和んだ時点で、菫と呼びかけて欲しい。緊張している時は駄目だ、あいつが笑ったら言え。この際笑わなくていい、俺達から菫の意識が離れた時、ぶっこんでほしい。その時、アスティン様がお前に術を掛けてくれる。その時、絶対に動揺するな。わかったな!じゃ、じゃあ……椿の情報を渡すぞ――"
教会から遠ざかるとピアノの音が遠ざかった。私が再び薄ら目をあけると、息を上げた実花が私を膝に抱いて「よかった……!」と言った。零れた雫は相変わらず私の頬を濡らした。それに反応した様にまつげを揺らしたら、雫の中に陽が反射して咄嗟に目を逸らした。
――丘だ。
赤い夕陽を溶かした丘だ。
「ここ、は……」
知っている。――ああ、覚えている。
何度時代が変わり、何度目を覚ましても、何度見飽きたと言っても……好きだったこの景色。
私が零した言葉に息を切らした実花も顔を上げた。
「……わかんない。夢中で走ってたら……気づいたら……ここに……」
思わず乾いた笑いが出てしまった。私は実花の膝から降りて、力が入らず立ち上がれないまま陽を差し、実花を振り返る。
「小さい頃、あの太陽に向かって約束したよね」
――やくそく!いずみっ、みかとやくそく、して!
――なにを?それより、どうやってかえるの……?うっ、うう……っ。
――ふええっ、だいじょうぶ、だいじょーぶ!みなとくんもくる、くるよお!だから、やくそく!
ぐずってしまった私に向かって、幼い実花は涙をぽろぽろ落としながら約束をせがんだ。赤い太陽を一心に差して、過去の実花は約束を私にさせた。
――こわいときは、みかがたすけてあげる!ぜったい!助けてあげる!だから、……だから!ひとりはだめだよっ、みかといっしょにずっと、ずっといて!
――もし、ひとりになっちゃったら……?
「迷子になったら太陽の下。そしたら、実花は私を見つけて飛んできてくれる」
目の前の実花の手が不意に動く。その手には、一冊の書物がいつのまにか握られていた。本人は気づいていないだろう。私の言葉に、ただ戸惑う様に首を振るだけだったのだから。
私は一瞬の瞬きの間に、友禅さんの言葉を反芻した。……遠くで、ピアノの音がする。
「実花によると、私は太陽で、実花は月らしいね。でも、私が迷子になったら、私が一人になったら実花は……太陽になって湊よりも先に見つけてくれるんだっけ?」
目の前の実花はただ、私の話を聞いている。姿形を模した本人にとっては、忘れている記憶として認識されているだろう。だから、言葉の端々を聞き取って記憶を思い出すための引き金を必死に探している。私と、想いを共有するために。
――みかがお日さまになって、いずみをみつけるっ!ぜーったい、すぐみつけて!すぐ、いくから!だから……
「……そうだ、そうだね。約束、約束だった……実花……ごめんね……」
「泉……」
黄昏は、茜色。
黄昏は、金色。
夕焼けは、赤と青を溶かした色。
「――ずっと、一緒にいようね」
嗚呼、思い出した。そうか、忘れていたのは私の方。
太陽に向かって呟いた言葉に、誰か反応しただろうか。太陽の下に出た私を照らしも、照らす範囲が大きすぎてきっと私は見えていない。
「……なんの、こと?」
あたし――、忘れてる?
実花は自分が零した言葉にぞっとしたのか、勢いよく手に持つ本を捲り始めた。それを後押しする様に加速するメロディー。森に響くページを捲る音。始めのページから始まった、途中から真っ白になる書物。
爪を掛けることは出来た。
さあ、後は一気に引き剥すだけだ。
**
「……泉」
「学校!……学校で実花に当たっちゃってごめん。結構、キツかったよね。本当ごめん」
話を元に戻そう。
私は実花の言葉を無理やり塗りつぶした。私の語り始めた言葉の内容に一瞬怯んだ実花は、少し安堵したかの様に息を吐いて、胸に本を抱きながら笑った。それはもう、嬉しそうに。
「――ううん!大丈夫、大丈夫だよ……っ!あたし、泉が苦しそうなのわかってた。わかってたのに、こうなっちゃうまで何もしてあげられなかったの……!」
今にも涙は零れ落ちそうなその顔は、確かにどうみても実花にしか見えないのに私の心は妙に冷静さを保ち続けていた。
「実花が、実花だったから本当の私を、ぶつけられたんだよ」
「……あたしが、あたしだったから……?」
「そう。上山泉の心を全部まるごと受け止めてくれるのは、安藤実花――でしょ?」
音もなく零れ落ちる涙。認められなかったことに悔しがって、認めてほしいが故にがむしゃらに走った末の――結果。その結果を認めてもらえた時、何人が涙以外の方法で喜びを表すのだろう。
――悲しい事だけで泣いてるんじゃない。
ねえ、そうだとするなら私がいま見ている涙が本当にその例に当たるの?
「……さあ、実花。帰ろう。湊が心配してる」
「で、でも……!」
「……ほら、泣かないで。泣いちゃったら、あなたを探している人を間違えてしまう」
そっと手を引いて、その席から降ろそう。一人の為だけに用意された椅子に、正しい一人を座らせるために。その為には、席を空けておく必要がある。
私は引いた手から本を優しく奪い取った。実花はその本にようやく気付いた様に目を僅かに開く。
「それ、は――」
「涙は、光を反射させちゃうから……間違える前にほら、行きましょう。帰りましょう――菫!」
大きな声で呼びかけた。呑んだ息と、私を映す瞳が――変わる。瞳の中に映る私が、変わる。
彼女が実花から離れても、私の姿が上山泉だったら意味がない。なぜなら、彼女は元々私を戻すために此処までのめり込んでしまったのだから。今の彼女は、ただ、盲目的に姿を変えてしまった人を追い続けている。先に私が変わらなければ彼女はその椅子から降りることはないだろう。
「……泉?」
「いいえ」
「…………いず、」
「――いいえ。菫、ありがとう。……助かった」
瞳の中の誰かが笑う。前もって渡された情報と、訓練された笑い方が思ったより彼女には響くようで。……そうか、この瞳の中の女性が――椿。
「あ、あ、ああああ……!つばき、椿――なのね……」
大きな雫の中にまで椿さんを閉じ込めてしまう、想いの強さ。私は震える肩を抱きしめて、大きく頷いた。肩越しに見える数人の影に、コンタクトを送る。
「そうだよ、椿だよ。他者修正機関の、友禅の、そして……菫。あなたの――椿よ……!」
「あああ――――――――――――……!」
席にしがみつく彼女の所には、裸の電球が一つだけ。それが照らすのは、精々彼女の周りだけ。
彼女から離れてしまえばそこは闇の支配下。彼女と向かい合って座って居たもう一人の女性の電球は既に切れている。だから、見えない。だから、彼女が見えない――お互いに。
それならば、彼女も自分の電球を落としてしまえ、と思った。闇に眼が慣れたら、きっともう一度お互いの顔が見えるはずだ。だから――その手に棒を持って、電球を叩き割っていた。電球以外は他に見ず、何も見渡さず。
そこに、一つの声を投げ入れた。まだ、気づかない。二つ目の声を投げ入れた、手が止まった。そして、三つ目の声に――彼女はようやく、此方を見た。
席に座り続ける彼女の真上にしか、電球はない。彼女は、僅か遠くに佇む両足にその手を止めた。正面に座って居たのはあの女性。光を失った、あの女性のはず。
彼女は恐る恐る耳を澄ませた。聞こえるだろう、聞きたいだろう、その女性の声が。
そしてその一瞬――、女性の電球を灯せば――?
見えた姿に立ち上がる。見えた姿に手を伸ばす。そうすれば、ほら。
席は自ずと空くだろう。幸いにも、一つだけの光はまだ、灯されている。
泉でさえ一時的にだましてしまう程の成り代わりですが、アスティンはそれが意図的に他者に掛けれます。まあ、泉はただ単に偽物が受け入れられないだけで、行動しています。




