私は今、誰でしょう?
泉は鏡から手を離すと振り返り、戸へと真っ直ぐに進む。押すが開かない。その事実に一瞬眉を顰めたが、すぐに解消された。戸を蹴り破ったのだ。その風貌は既に泉のものではなかった。
開かれた拝殿から出る気の何たる神々しさか。神社と言う聖域は、今まさに名ばかりの烙印を消し、荘厳な面を上げる。一瞬にして領域内を充たした神気に鵺はこの時初めて悲痛な叫び声をあげた。
鏡子はいち早く神社の変わり具合を把握していた。だからこそ――何よりもはやく式を組み、己が式神を泉が蹴り破るのと同時に召喚せしめた。聖域が回復した歓びに満ちた顔が、泉を見て驚愕の表情へと変わる。そしてその眼差しは優先順位を間違えないように今は目の前の妖へと向けられた。
泉は大きく息を吸って、鵺へと言葉を贈った。
「お前が鵺か。――私、鵺なんて化け物初めてみたわ」
鵺は苦渋に満ちた猿面を晒し、その牙を泉へ向ける。
「 目覚めるな、目覚めるな! 」
飛びかかり迫りくる牙を泉は一閃の太刀で退けた。顔面に血しぶきが降りかかろうとも泉へ目を閉じない。手に持つ獲物は――依代である剣。声は、聞こえているのか?
身体を捻じりながら後退する鵺の背後には鏡子の笑み。空中に待機する万全の式神へ――、
「悪鬼抹殺――急急如律令!」
「応ッ!!お礼参りと洒落込もうぞ!」
上空からの玄武の斬撃に声を上げる。泉は刀身を真っ直ぐと立て、そこに掌を這わせて目を閉じた。すると、一列に淡い火の玉が浮かび上がる。それは次第に形を変え――、武人へと姿を変えた。その手全てに棍棒――宝槍を持って。
「如何した鵺よッ、夜霧に身を隠す術を忘れなんだか!?」
啼く声は鵺にぞ似たりける。
泉は沿う呟くと、一人唇に弧を描く。その唇は――鮮血に化粧されていた。
「貸してくださいませ、棍っ棒!ふはははー!陰陽師も、化学も、共に進化しますわ――っ!」
鏡子は端に控えていた武人の棍を奪い取ると、口に真言の書かれた札を咥えて棍を使って大きく飛躍した。落ちるある点で玄武と合流する。合わせた目で、二人は共に鵺へ飛びついた。
――しかるに、それが致命傷である。
鵺の目と、泉の目は合わさったまま動かない。薄ら笑いを浮かべる泉の姿に鵺は何処か、諦めたようなそんな顔をして――、その四肢を無様に脱力させた。
切り裂いた背から溢れる血の海が、足元を浸食していった。犯しては消される聖域の機能。それに安堵した鏡子が見た――一つの盲点。
「かっ、上山さん!本殿の方へお逃げください!」
血程、濃い瘴気なんてない!
鏡子は、自らにも触れてくる瘴気の手から逃れるように賽銭箱の上によじ登った。血生臭さもだが、それ以上に――鵺から溢れ出る瘴気の濃さがきつい。未だに渦中に佇む泉は鵺の死体を見下ろしていた。
「ばか!何しているのです!?そんなもの、放って置いてはやく此方へ――っ!」
それでも泉は動かない。伸びてくる手を祓い、また伸ばされては祓う。――けれど、血を被ってしまい身に入り込んだ瘴気がまた泉と同調して溶け合っていく。このままでは――、鵺が息を吹き返すかもしれない。もしくは泉の身に入り込んだ鵺の瘴気が意識を蝕んで上山泉の身体を乗っ取るかもしれない。いや、それが常套手段なのだ――古来からの。
鏡子は「ううーっ」と唸った後、賽銭箱から飛び降りた。
「玄武!鏡子を護って!」
「応ッ!」
何とか瘴気を振り払いながら一直線に泉の元へ走り出した。石畳を掛ける足音に水音が混じりだした時、鏡子は足を止めずにはいられなかった。何故ならば、振り向いた泉が剣を鏡子に向けたからだ。
「……愚かな。上山さん……本物の鬼になりましたの?」
流石の鏡子も冷や汗を浮かべざるを得ない。どういう理屈かは知らないが聖域を回復させた人物がその力を所持したまま鵺の操り人形になるなんて悪夢も良い所だ。
しかし、泉の口から出た言葉に鏡子は初め、目を丸くした。
「――真言を、捧げなさい」
「……えっ」
「陰陽師。主祭神に真言を、捧げなさい」
一刻の猶予もなかった。泉の足元から這いずってくる瘴気の手に頭が侵される前に望み通りの言葉を口にしなければ――焦りが鏡子を脅す。
鏡子は一度唾を呑むと、血の海に正座した。座った足から、瘴気を感じる。そして手を組むと、神社に掛けられた旗と、周りの武人の姿を見て――叫んだ。
「――帰命し奉るっ!あまねく諸仏に、ヴィシュラヴァスの御子よ!実行せよ!……富裕者よ、曲芸者よ、讃歌によって踊る者よ。――火神よ。歌神よ。醜悪な歌神よ!実行せよ!――ああもうっ、聖音、金剛怖畏尊よ――毘沙門天、実行せよ―――っ!!」
「願い、確かに届いた」
鏡子が顔を上げると、確かに泉は笑った――でも、その笑顔はとても泉のモノとは見えなくて。鏡子は、開いた口が塞がらない。
我に返った鏡子が辺りを見渡すと、眩しいばかりに輝く子供位の背や大人程の背の光源が浮かんでいた。泉へと手を伸ばそうとして滑った血だまりが気味悪く、急いで起き上がっても――穢れて見えた両手は何処も汚れていなかった。
「 口惜しい…… 」
――生きている!
思わず臨戦態勢へと身を構えた鏡子とは裏腹に、剣を掲げた泉は何処も見ない瞳で上を仰いだ。武人の姿をしたものは、宝槍を高く掲げる。巫女服や神主の様な格好の顔を隠した者は一斉に頭を垂れた。
大きく、鈴の音が響いた。
掲げられた槍は一糸乱れぬ動きで地面に叩きつけられる。そこから波紋した新たな聖域の広がりに流石の鵺も耐え切れなかったようで――、その姿を焦がし、消滅した。
「やった……!鵺を、鵺を倒した――っ!!ああっ……」
泉の手から剣が消え、よく見ると首に紅石のペンダントが掛っている。けれど、神社を包む光や現れた妖精のような彼らは一向に消えるつもりはない。
立ち上がった鏡子は、臆せず声を掛ける。
「――帰りますわよ、上山さん」
振り向いた泉の瞳に、生気が見えない。まだ気を抜けない――と鏡子は手を握る。喜んでる暇じゃない、そう玄武が厳しい目つきで泉を見据えた。
「そうか。気を付けて帰れよ、人の子よ」
「いいえ!上山さんと、一緒に帰るのですわ」
「……上山?」
「ええ。あなた以外に、誰がいるのでしょう」
泉はその答えにぽかん、としたが何かわかった様に身体を揺らすと微笑んだ。
「我が名は毘沙門天。此の分院での霊体、守護神――我が帰る場所は此処だ」
「いいえ。あなたは上山泉です。人間です」
「さあ、もうすぐ丑三つ時が終わる。帰るがいい、在るべき世界へ」
「はい。上山さんと共に帰ります」
一人の巫女装束の精が、泉の前で頭を下げて奥へ誘導しようと腕を伸ばした。その行為に泉は頷くと、先導する精の後ろを付いていく。最早鏡子など見てはいなかった。諦めたのだ、頑なな人の子だと。
それでもなお食らいつこうとした鏡子の肩を止める者が居た。流石の鏡子も、その表情を見て押し黙ってしまった。その人物は無言で泉の前へ歩出ると――その進行を妨げた。
「返ろうか、泉さん」
その人物の溢れ出る人ならざる神聖すぎる気配に、一瞬たじろいだ精が腕を振って周りの武人に指示を送った。即座に反応した武人達は、宝槍を一気に男に向けた。
泉はその男を見ても、穏やかに笑っていた。
「……同胞よ、宴の席にはまだ早いが?」
「あれは鵺を模した化け物だよ。宴も何も開かないでいいんだ」
「……そうか。ではな、同胞。神無月に、出雲で会おう。我は座へ戻る」
泉は片手を挙げて武人共を制した。渋々といったように槍を下げ、歩み出した泉に頭を再び下げる。その列挙は、まるで――、
「――神使、今回の援助には大変感謝する。泉さんの咄嗟の思い付きであれ、座に一時彼女を座らせたのは良い判断だった」
その声に泉は足を止め、横目で――アスティンを見た。神使と呼ばれて反応した顔を隠した複数は、警戒の色を露わにする。
「だけどね、それもここまで」
泉の腕を取り、その手を泉の背に回して動けなく自分の元へ引きずり込んだアスティンに向けて、何重の槍が再び向けられる。――が、半ば泉を人質のようにした所為で、神使も威嚇以外の手を出せない。
「この子は返してもらうよ」
「――現界が解けぬ。同胞よ、何をした」
「……。神使にしては、随分と恐ろしい目をするんだね、君は」
アスティンは泉を一瞥すると、一際鋭い気を放つ装束の者に向けて言葉を放った。
「神に仕える身でありながら、まさかわたしが何であるかぐらいわからないわけではないでしょう!」
一喝した。その言葉の威力に数人が、震える。
「……これが最後だ。――この子を、返してもらう。君だろう、座を守る第一の神使は」
ふわりと靡いた布から覗く、唇を噛み締めた顔が頷いた。
「泉さんを座から降ろして連れてきなさい」
「……っ」
「――返事は?」
「……御意……」
神に膝を折りし者。すべからく――、上位の神に逆らえない。
泉の膝が崩れた。落ちていく途中にその肩下に手を入れてアスティンはしっかりと泉を支え直す。頭を座けていた面々が顔を上げ、徐々に蛍のように消え始めた。武人の姿を纏った者達も、戦いの姿勢を解いて消えていく。そして――、
再び夜が訪れた。
「アスティン様……今のは……?」
アスティンは泉を抱えると、よっ…と言いながら抱える姿勢を直す。傷だらけの身体に眉を下げ、隣に立つ少女から香る血の臭いにも――……。
「記憶だよ。この地が、空気が、風が――さっきの彼らが覚えているこの神社の神様を、泉さんに埋め込んだんだよ。ほら、この神社にも本物の神様は居ないからね。彼らも寂しかったんだろう」
「……そう、ですわね……」
「安倍さん。――ありがとう、君に泉さんを任せて本当に良かった。良い、護り手になれるね」
「い、いえ……。現陰陽師として、当然のことをしたまでですわ。あ、玄武下がって良いです」
アスティン先生は片手を開けると、鏡子の艶やかな髪を摺って、頭を撫でた。
「いい子だね。……明日は学校を休むといいよ、ゆっくり養生しておいで。……さあ、帰ろう」
「この場所はこのままで宜しいのでしょうか?……悲惨、なのですけれど」
「いいよ。君たちが無事ならもう後は何でも良い。……嗚呼、気になることがいくつかあるのかな」
先に歩き出していたアスティンが、笑いざま振り向く。その笑顔に、その瞳に、――鏡子は気づく。
首を横に振って、徐々に思い出してきた痛みの中でまた彼女も笑う。
「いいえ――鵺を倒せた、それだけで今日は万々歳ですわっ!」
「しかし……アスティン様」
「ん?」
「此度も……鏡子の目から、は……瘴気が泉さんへ向かって行くのを見ました。……本来、瘴気とはその場に発生した穢れ、ですわ。穢れはある、だけで進むことはありません。もし範囲を限定されて発生したならば、平等に穢れに侵されるはずなのです……」
「……そっか。安倍さんは、泉さんの近くにいたのにまったく穢れなかったんだね」
「全くというわけではありません。……でも、明らかに――」
「そうか。わかったよ……ありがとう」
「いえ……お役に立てたのなら、光栄です……」
鏡子は、石階段を下りながら月を見上げた。
あんなに紅い月だったのに――、今では……金の光を眩しいくらい、降らせている。
何故、そんなにも……輝いているの?
タイトルの答え、わかりましたか?私=泉です。
さあ、場合分けして答えてください。
(i)泉の地の文の時、泉の人格が上山泉であるとする。
とか変な感じになるので心の中で考えてくださいネ!