感情と誘い
「うーっ、つかれた……」
両腕を上にぐいーと引っ張り息を吸い込む。ぼやける視界と聴力に酔いそう。
時計の針は既に六時を回っていた。外は夜に傾きかけている。
彼らはと言うと、個々に好きなことをしていた。一人は後ろにそのままひっくり返って「おわらねぇよ…無理だろ…おわらねぇよ……」と不気味に唱えている。一人はプリントに顔をのめり込ませ微動だにしない。
私は窓ガラスから外を仰ぎ見た。茜色が目に痛い。チカチカと目に差し込む斜陽が私の眉間に皺を作る。
ぐううううううぅぅぅうう。
「…」
「……」
「…………」
私は窓ガラスから外を「やだ恥ずかしいっ!俺ってばドジっ子!!」「あ、あたしかと思った…」
何でこの人達私の部屋にいるの?
「おおー、流石高台だよね。夜桜が綺麗に見える」
湊がガードレールに手を着いて下を見下ろしている。その横に歩み寄っている実花の長い髪が桜を巻き込みながら揺れていた。
「だよね。私、何時もこの時期は此処から見下ろすのが好きなの」
二人を後ろで見ながら、答えた。顔に風に弄ばれる髪の毛が掛る……うっとおしい、この感情も、髪も。肩上にボブカットされた私の髪は実花みたいに風をも飾りに出来ない。……嗚呼、やだ、お腹減った。早く食べに行こう。
「泉も、こっちで一緒に見よ?……見飽きてるかもしれないけど、三人で見た方が桜も喜ぶよ!」
「ははっ、なんだよそれ」
「…そうだね」
腕を摩りながら、実花の隣に歩み寄り、眼下を見渡した。木々は風を受けてうねる。花弁は黒を覆うように舞いたがっているけど、…それは無理だよ。右側の二人はお互いを見つめ合い笑いあってるのと対照的に、私はずっと下を見つめている。下を道を……あそこは通学路だ。人がいる…肌寒いのに、……早く帰ればいいのに。
目を閉じた。長時間の勉強のせいもあってか、疲れているのだ。さわさわと葉音に重なる様に……響く二人の笑い声。……お似合いだな……。
目を開けた。ピントが再び合ってくる。見つめる先の、人間と目があった。……?目があった?
「なん、」で。
唯の音が出る。人間は此方を見ている。待って、何で見ているってわかるの?あっちとこっちはかなりの差があるのに、相手の顔も認識できないのに。頭にぼんやりとした姿が構築される。男、短髪、長身、向いてる方向、閉じた唇、……――わらっ、
「泉?」
「っ、」
「おい、どうしたんだよ。トイレか」
見ている、見ている見ている!!いや違う、相手は桜を見上げているのだ。此方等見ていない見えるはずがない!そうよ、見えるはずがない!
「な、なんでもない。も、もういこう?やだ、冷えてきちゃった、ほんとに、ひいっ」
「泉、ねえ、泉!」
「は??なんだ、下に何かいるのか?」
湊には見えないの?其処じゃない、もう少し上だよ。――…動けない、人間はずっと此方を見ている、桜何て物を見てなんていない、わかる、だって、彼は声を上げた私を見て笑みを濃くしたのだ!
‘……おいで’
「!?」
‘…大丈夫、落ちてこい。君には、造作もないことだろ?'
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!他者に思考を止められる、私だけの空間に私以外の声が木霊する。耳を塞ぎ蹲ることで回避しようと私は考えた。肩を揺すぶられる、荒い息遣い、戸惑いの声。
――――耳鳴りに似た、催促。
落ちろ、落ちろ其処から落ちろ。
「……!!」
おいで、おいで、早く、君だけ、君一人で、飛び降りて。
「み、湊くん?なあに、湊くんまでどうしちゃったの……?」
肩を抱く腕に力が籠る。荒い呼吸を繰り返す口からは唾液が零れ落ちる。ぽた、ぽた。――落ちなきゃ、気持ち悪いから、はやくベッドに…。ぼやけた視界はくっきりと存在を浮き上がらせた。
……あれ?目の前にベッドがある。ここは私の部屋だったっけ?…嗚呼、そうだ、
「私、戻ってきてたんだね……」
「泉!?やだ、泉ちょっと!!」
身体が動かない、なにこれ、邪魔!
「あっ!…うっ、い、ずみ!」
「泉!!落ち着け、おい、何してんだよ!」
また動かない、何で?何で動かないの?……昨日そんなに運動してないよね。走ったからかなあ?
‘おいで、……早く、お出で…'
「…うん、早く寝ないと、治るものも、治らない、よね…」
「こうなったら……っ!!」
「やめてえっ!泉にそんなことしないで!!」
「実花おまえっ……!」
ふわり、体が楽になった。とっとっと。前のめりになる勢いに任せて私はベッドに飛び乗る。がつん、なぜだろう?身体が真下に傾く。
「っ――泉ぃぃいいいいいいいいいいいいいい!!!」
‘我が流れを受け入れろ'
「……?もちろ、ん……」
意識を失う前に最後に見たのは……コンクリート。