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黒いコート

前章の最終話、シリウスの夢にて挿絵を追加しました!

「あ……え、……」


 かたかたと否応なしに震える全身。見つかってはいけないものに見つかった、そんな感覚が心を染めた。


 ――赤と青のマントって何?何で選ぶの?何を選ぶの?マントを選んだら何になるの?やだ怖い怖い逃げなきゃ誰かいないの誰もいないさっき確かめたどうしようどうしよう身体の震えが止まらない――ああああああ……!


 男が左右に揺れた。そして、息を吸う音が聞こえた。次は無い、そう思った。答えなければ此処で終わると、そう思った。だから、男が言う前に口に出た。色が。


「あ、あああ青!青ッ!!!」


 その答えに、コートの男はケタケタと笑った。次の瞬間、


 私は床に這いつくばっていた。


「え!?いや、いや!何するの!やめて、はなしっいやあああああ!」


 足首を男に掴まれ、引きずられ出した。在り得ない力だった、足首がうっ血しそうなくらいに痛い!自由な左足で男を蹴ろうとも、私は床と向かい合っていて焦点が定まらないし力が出なかった。

 恐怖が痛みに勝って思考が止まりそうになる。それは駄目だと辛うじて判断して、痛みに集中した。その時、私の腕は床を押しのけた。ふわりと浮いた体の内側に渦巻いた風が私の耐空時間を延長させていた。上半身をくねらせ、コートの男を捉えた私の目は――自由に私が動かせるのはいつも目、だ――コートの男の行為をみて固まった。空いた足がコートの男を蹴り上げようとしているのだろう、しなる感覚がする。それと同時にがっちりと掴まれた足首が無理やり捻られる圧に悲鳴を上げて激痛を呼んだ。


 それよりも、ああ、それよりも。


 コートの男は私が力なく抵抗していた間に、何をしていたのか。


 掴まれた足首には縄が掛けられ、その縄の続く先はトイレの天井――の端と端に走っている平行棒に掛けられて、男の手に収まっている。


「何を―――ぐううっ」


 空に浮いたのが仇と成ったのかな―‐?アンス。


 持ち上げる必要が無くなった私の身体は男が縄を思い切り引いた流れに綺麗に作用された。足首からグンッと空中に釣り上げられて私の床が天上にすり替わる。


 一瞬、何が起こったのかわかったけど。わかりたくなくて、わかろうとするのが嫌で……脳の思考回路を止めようと、したの。


 でも、手洗い場の鑑に映る逆さ吊の私が目に入った時、わかってしまった。


 わかってしまった、手の空いたコートの男が新たに手にした凶器も。鈍色に輝く小さな刃が、私の脳内の警報をさらに強く鳴らしたから。


「離せ!!!!離してよ何してんの!?!?せ、先生――――ッ!!!!!助けて!!たっ、助けてぇえ!」


 コートの男が小さな凶器ナイフを握りなおした行為に青ざめていく。


「やめてやめてやめてください!お願いしますやめてやめて!!!!」


 埃の臭さが濃くなるトイレの室内の中で、血が下り行く喉の状態で、咳込みながら懇願する。身を揺さぶって縄の抵抗力を殺そうと思った私の身体の所有者は私が傷つくことを恐れて何も出来ず。ただ力なく目の前に垂れる紅の光は私の涙。


「青イ、マントだヨ」


 逆さに成ったコートの男が――嗚呼、私が逆さになっていたんだった。男は手を振りあげて、僅かの間の後私の――――。


 首!?


 ミノムシのように体をくねらせて辛うじて避けた私の身体は振り子の様に男に突進していった。「アンス…!」と石を一瞬仰げばすぐに首の位置が修正される。アンスが言っているんだろう、敵を見ろと。男は別段狼狽えた雰囲気は無かった、ただ私が避けたことをそういうことと受け止めて更なる追撃をけしかけようとしていた。


 私の両手は男のナイフを握る手首へと真っ直ぐに伸びて行った。振りかざす手を振り払う行為をどうやら知らないコートの男は封じられた片腕を何とか動かそうと力を入れる。その力んだ身体は逆を言えば引き寄せやすい石と同じ。力を入れる方向に引いてやれば――男の位置と私の位置がほら、入れ替わる。


 すり替えられた位置に流石の男も驚いたようだった。傾いた力の方向に数歩体のバランスを取り戻すために進めた歩みの間にアンスは私の手の中で剣の化した。嗚呼、そうだ、これだ!ぐんっ、と全力で腹筋を使って足首へと手を伸ばした。風の助力で何とか浮き上がった上半身を大きく振り被って縄を切ろうとした。斬れる、だってアンスの切れ味は私がよく知っているから。


「アンスっ……おねが、いた、いっ…!」


 日頃鍛えられてない身体が無理な姿勢への拒絶をする。息を止めることで耐えていた腹筋がぷるぷる震えるというか痛すぎるというか耐えがたい苦しみという即身仏というか――――。


 流石のアンスも折れた。ふ、と力が抜けて床へ頭が落ちていく。それに怯える元気もなく、痛むおなかを逆さ吊で抑えた。その時に振り落ちた汗がもうずいぶん多い。荒く喘ぎながらゆっくりと振り返ったコートの男を捉えた瞳が、息を潜める様に細められた。私の右手にはチェーンが握られている。


次こそは、この首を――……。


 そんな思考が脳を染めていく。瞳を動かして足元、もう元ではないけれど、繋がれた足を見た。かなり縄を引かれていたから、縄を切るにはかなり身体を曲げなくてはならない。アンスの力を使えば可能だけど痛みを遮断することはできない。堪えるか、でも慣性が付かない中で足首まで身体を持ち上げられる?


 目の前で、足の歩みが止まった。


 心臓の音がうるさい。黙れ、黙れ!考えているんだ、わからなくなる!足首からつるされた縄は一本の棒に掛けられて男の手へ。固く握りしめるその手を開かせることは出来ない。いや、出来たとしても今の状況じゃ考えられなかった。だから私はその思考に時間を回すことは初めから止めていたのだ。


 あ、ああ、ああああ、だ、だからうるさいって、


「――――――っ!!」


 首元目掛けて引き込まれる刃に身を固めようと――、した時に。


 やはり紅石は、守護石なのだと知る。


「あぐっ!」


 ぐいんっ、と腹筋を使って上に浮上すると男は再び刃を当てることなく空を切った。しかし男も学習したのだろう、足を踏ん張るとすぐに第二の手を振りかざしてくる。それを追っていた私の目は、お尻、腰に風の加護を借りてそのまま前方へ宙返りをした。声を出す暇さえない、いや、あるとしたら「ひいっ」と言ったものか。聞こえない、もう無我夢中。前方に倒れていくときに私は気づいた。目の前に、男の手へと伸びる縄があるということに。始めは何も思わなかった、ただそこにあるという認識だけ。嗚呼、縄か。そう思うだけ、縄よりもこの状況に流されず付いていく、理解することに意味があると思っていたから。


 アンスは違っていた。前方に回り行く時にくの字に曲げた身体を解いて、右手を縄に伸ばした。縄を掴む様に開かれた手の指に掛かっていたチェーンが剣の柄へ瞬時に変わる。重みが増したせいで落下の速度を速めた剣へ直ぐに私の掌は握られれた。そしてそれを空中で回転させて刃を上へ向かせると、手首を回して刃を寝せてそのまま、縄を断ち切った。


 男は己の動きの重点を支えていた重みを失って壁へ流された。


 私は体重を支えていた男を失って床へ落とされた。


「ぐううっ、……っ、……」


 思いっきり顔面からトイレの床に落下した。汚い、さすがに思う。ピントの合わない視界にも関わらず、私の身を案じる石はすぐに私の身体を立ち上がらせた。電流が走ったように、縛られた足が痛む。思わず声を上げそうになったのをわかったのか、身体の動きが止まった。「アンス、大丈夫。はやく、はやく!」自分で動かすより他人に動かされた方が良い。痛みの予測は出来ない方が楽なのだから。それを理解してか、アンスは私の身体を使ってトイレの手口を導く。そのままドアノブに手を掛けて外へ出た。其処は――、


 赤い月の光が差し込む、黒い煙が漂う私の良く知った廊下だった。


 声を失った。けれど後ろから聞こえる呻き声にせかされて私は駆け出した。駆け出しながら、痛みに涙を浮かべながら周りを見渡す。


「誰か!!!誰かいないの!?!?」


 叫びは廊下を伝って前後に抜けたはずだ、開け放った扉の音は教室内に響いたはずだ。


 それでも誰も、何もいない。


 誰かを求めて、二年の教室が並ぶ廊下を扉一つ一つ開け乍ら駆けて行く。一組、二組、三組……いないないいないないない!


 いつしか、走る気力も失った。痛みはとうに感じない、僅かに疼くその程度。切れる息の度合いに、アンスも走るのを中断して私にペースの配分を託したから、走るのを止めた。


 胸を大きく上下さえ、酸素を取り込むのに。この苦しさは何だろう。


 私は近くの教室に飛び込んで、後ろ手で扉を閉めて鍵を掛けた。そのまま扉に背を預けズルズルと下に落ちて座る。抱え込んだ膝に額を乗せて、息を大きく吸って……吐いた。自分の荒い呼吸しか耳に入らない、大丈夫…大丈夫だ。何も心配はない、きっとアスティン先生がこの状況に気付いているはず。私が、逃げ回ってさえいれば大丈夫だ。だ、だって、これまでだって何とかなった。きっとこれからだって――。


 あ、ああ、ああ!そうだ!だって、世界は、私の味方なんでしょ!?


 なら大丈夫大丈夫――!


 暗示だった。ぐるぐる頭に大丈夫、と言う文字を植え付けていく。植え付けて隙間もなく植え付けて、言葉に出してさらに植え付けて。遅れて再びやってきた手足の震えに視界を埋めて隠した。


 でもね、人間っていうのは視界を奪われればその分聴力が増すらしい。


 そう、増したのだ。背を向けた廊下の右手奥で――、一つの足音が響いた。


「ひいっ、う、う、……っ、お願い、…ま、まもって……スワードっ……!」


 祈る様に、石を抱きしめた。縄を断った瞬間に石へと戻ったアンスを強く握りしめる。


 私が身を丸めた扉は教室の奥側。そして――、






 開いた扉と侵入した足音が鳴ったのは、教室の前側。



実際、片足にロープを巻かれて釣り上げられたら……スカートがさあ……と考えてタイピングする指が止まりましたが、この世界ではスカートはひっくり返りません!鋼ですから!

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