大切な人
次第に雲は移り行く。けれども雨は、必ずしも曇天が運ぶものではない。雲が晴れ、月が顔を覗かせても雨は未だ強く振り続けていた。
月明かりのみがこの回廊を照らすことを許された。そして、差し込む月光は互いの顔を完全には照らさなかった。
湊は、私の顔を見て引いたのだろう。ぎょ、とした後に無意識なのか――そうでないのか。遠慮がちに手を伸ばしてきた。しかし、顔を見られたくない私はその手を振り払ってしまう。
「あっ……ご、ごめ……」
「……いや、すまん。今のは俺が悪い」
間が辛い。私の鼻をすする音が嫌に響く。
――すると、背後でカツン――と足音が響いた。脳裏に浮かぶ笑み。笑み、笑み笑み。そして、
『 湊は実花を殺すわよ 』
耳元に吹きかかる、吐息。
「……い……おい泉っ!」
肩を揺さぶられた。気づけば目の前に湊の顔がある。
私は強張らせた肩と、息で震えだした。
「どうしたんだよ……!?一体何が―――……!なあ、泉……」
湊を見上げると、湊は何か恐ろしい物を見る様に私を見ていた。
「…ブレスレット、……どうしたんだ……」
「――――、あ――――」
さあ、どうぞ開けてみて下さい。
これはずっと付けていた方がいいと思うな。色んな意味で泉さんを守ってくれるからね。
ねえ、スワード。
――何ですか?
…恥ずかしい話なんだけど、聞いてくれる?
――勿論。
…こんな夢の…夢みたいな世界で寂しい時にね、アンスを握ると……落ち着くの。変な事、余計な事、怖い事――全部忘れられる。ぽわーって、心があったかくなって……アンスって安定剤だね。
――そうですか。…まあ――強ち間違ってはいませんね……。
「まさ、か……泉、落ち着け、いいか、俺の声を」
「いい、いいわ……落ち着いてる……大丈夫…大丈夫だから……」
笑い出した膝が崩れ落ちた。慌てて湊が支えようとしたけれど、二人して床に座り込む。
「あはは……いつかの日も、湊が……こうしてくれたね…」
「…そうだったっけ」
「夢、だったかも―――」
夢だけど夢じゃない。そう言った夢の湊も今なぜこんなに鮮明に思い出すのか。
「…わた、私……湊が好きよ」
「―――え」
「だから……貴方を、信じてる」
震える手で、湊の袖を掴んだ。その黒い瞳を覗き込む様に見つめる――あの紫は、何処へ?
「泉……?」
「お願い……実花を……実花を殺さないで……!」
「あ、嗚呼……そのことか」
湊の声のトーンの下がり具合に悪寒がした。頭痛が、する。頭の奥が淀んで、耳元で笑い声がする。
「実花については、あの時言った通りだ。変える気はないよ」
「……?」
「……おいおい、勘弁してくれ。まさか聞いてなかった、とか?」
湊が笑った。その笑みがいつもの笑みを何ら変わらなかったから、私は安心して笑った。
「明日泉を紅影殿へ送る。もうすぐ月蝕だ、月道が地球へ開く……巫が道標として泉を元の世界へ帰してくれる」
「え、え……?」
「よかったな、やっと帰れるぞ……もう…何も傷つくことは無い。最後まで――今度こそ……お前を護れる…!」
抱きすくめられた身体とは裏腹に、頭は冷えていく。
「だから、準備を――」
「ま、待って……!実花は、実花はどうなるの!?」
「……何度も言わせんなよ。……言ったじゃねぇか、実花の事は――……気にしなくていいって」
言葉が出なかった。
「俺が何とかしておくから」
「ねえ……それって……」
スワードが言ってたことと同じでしょ……?
信用できないと、私が切り捨てたスワードの言葉。
それと、同じ。
**
私の部屋になった実花の部屋。何時の間にかベッドは綺麗にされ、違う鎖が通されたアンスが机に置いてあった。そして……。
あの女は、ベッドの上で髪を弄りながら笑う。
「…ねえ、知ってる?この世界にくる愚者ってね、元の身体のままだとすぐに死んじゃうの」
私は返事をせずに目だけを向けた。
「身に受ける元素が違うから。私は地球を創る時に、魔素を与えなかったわ。だから、純粋な地球人は魔力を持たないのだけれど……愚者は違うのよ。愚者は身に魔力を蓄えている。だから、道が開くときに間違って落ちてくる。落ちたは良いモノの、魔力が魔素を吸いたがるからそれに身体が適応出来なくて――死んじゃうの。大昔に流行ったペストの様に、苦しんで苦しんで――死んでしまう。この世界で死んだから地球に還れない」
「…でも、私は生きてる。湊も、実花も」
「湊はユースティが守ってる、実花はアレウスが守ってる。……泉は誰に守って貰ってるの?」
「……」
「ペンダント。……アンスが宿ったあの紅石に魔術が掛ってた――でも、もう必要ないのよ」
「……スワードが……護ってくれてたってこと……?」
「そうね」
きゅ、とアンスを握り締めた。視界が滲む、嗚呼――猛烈にスワードに会いたい。
「精神が脆くなって、身体に魔素が溢れて死んでしまう。それを阻止する為にスワードは石に魔術をかけて、それを肌に触れさせるようにして泉の身体へ流して行った。一つはそのため、そしてもう一つは――別の魔術の上書き、かな」
「別の魔術?どういうこと」
「精神を守る――それは一種の催眠術。心を誤魔化すことによって、身体を誤魔化していた。そしてお前にアンスを与え魔術を回路に通すことによって――魔力を身体に覚えさせた」
エリスは美しく笑う。
「何のためだと思う?」
「……わからない」
「簡単じゃない。…お前を守る為よ。お前が一人でこの世界を歩けるようにするため――愚者である弱みから自分で身を守る為……優しいわね、誰かみたい。……嬉しい?」
「……うん」
「……実花って、愚者の中でも魔力蓄積量が多いの。…泉は言わずもがななんだけど、愚者の魔力ってね、どの門下でもないから――王の魔力回路に共鳴できるの。繋ぐことが出来るの。奪うことが出来るの。…魔力回路を奪われたら死ぬわ。当たり前よね、血を抜かれてるも同意なんだから」
「……スワードから聞いた。…あいつは、愚者を集めてるって…」
「あはは、簡単なことでしょ?どうせ愚者から魔力回路を奪って自分の肥やしにしてるんだわ。きっと実花もその餌食。だから、泉か実花なんて実はどうでもいいんじゃない?」
じゃ、じゃあ……実花が殺されるっていうのは確定じゃないか。
「お前、一度落ちたじゃない――水鏡」
「へ……?」
「嗚呼、なるほど。……グリームニルって本当魔術が上手ねえ……」
エリスはまるで全てを見通しているかの様な含みを笑みで示した。私は眉を顰めてしまう。
「何よ…」
「随分慣らされているな、と思って。楽でしょう、そうしているのは」
「……この状態の何処が楽そうに見えるわけ!?」
エリスは私を制止させるように手を振ると、そのまま背をベッドに倒した。広がる黄金の髪と、鏡に映った自分の髪を無意識下で比較していた。
「日が昇れば帰るのか否か、それとも実花を取り戻しに行くのか否か。……泉、お前が決めなさい」
「……もう嫌だ……何で私なの……」
両手で顔を塞いだ。
疲れ切った頭の思考が、一つの考えに辿りついて、往くのを止めた。
「嗚呼、今日は良い夜だわ。……お前がこんなに近い。私は私なのだと実感できる」
「……ねえ」
「ん?」
私はエリスに近づくと、彼女を見下ろした。
「…やっぱりこれ、夢じゃダメかなあ……?」
「……何故?」
「だって、あまりにも酷い。酷い。……考えたくない、もう嫌……誰かを殺すとか、殺されるとか……思い出すとか…思い出さないとか……!」
「じゃあ、止める?帰ってしまえばいいのよ、そしたら全て終わるわ。貴女の中で、全てが終わる」
月がエリスを包んでいる。
「世界は私を護ってくれる、大抵の事からは。だからお前も世界から護られるでしょう、大抵の事からは」
「……どういう……」
「…――はあ。実花も湊もアスティンも全てを放り出して、お前だけ幸せになる方法は帰ることだって言ってるのよ。…でも安心して、帰っても日常は変わらない。変えられないのよ存在の数は。お前の傍にきちんと、湊と実花もいるから。……――ほら、何も悪い事はないわむしろ良い事ばかりね、ほら、どうする?」
「…湊と実花が傍にいる?いまお前、放り出すって言―――――……」
存在を補充する。名前だけを冠した、別の人間。
「――ふざけんな!そんなの湊じゃない!実花じゃない!私は騙されないッ!!」
「ならばお前はどうしたいの?考えたくない、傷付きたくない、帰りたい、――虫が良すぎるのよ!何も失わずにして、自分が望むものが手に入るとでも思ってるの?………泉、お前が望む…三人で帰りたいというその望みならば最善の方法で叶えられる。お前には、それを成し遂げる力がある」
「……ないよ…私は……私はただの高校生なの……!何の力もない、リスクを背負う意志もない……!私は、こんなにも…弱い―――」
「半人前だから、力が足りないのは仕方がないの。……だから、私の手を取りなさい」
エリスは私に手を差し伸べた。真摯な眼差しが、私の心を刺すようで。
「地球での身分なんていらない、お前はいま地球に居ないのだから。背負うべきリスクが重すぎるなら私もそれを背負いましょう。……お前のリスクなんて軽い物よ、私達が過去に背負っていたものに比べればね。ねえ、聞かせて?……今、本当は何をしたいの?」
「私は……私は実花を助けたい……!」
「ええ」
「実花を助けて、三人で地球へ帰りたい……!」
「…その願い、叶えましょう。共に、叶えましょう。私はお前を護りましょう、私はお前の為に剣を振いましょう――。だから、お前も共に戦って、共に護って、そしてどうかお願い―――」
私はエリスの手を取った。
「早く…私を思い出して……。此処を思い出して……あの日々を思い出して……」
首元に埋められた顔から漏れる吐息が、熱い。
「……もしシリウスが、実花を傷つけていれば――」
ぐるりと、黒い感情は首を凭れた。確実な憎しみを新しいとは思わなかった。
「……エリス……貴方、そんなにあいつが憎いの……?」
エリスは口で答える代わりに、抱きしめた腕の力を強めた。
「大丈夫だよ、安心して。…決めたわ、決めた。共に戦おう、大切な人を取り戻そう。だから、もう…一人で苦しまなくていいよ…。何だろう、私、ずっと……誰かにそう言いたかった……」
「……じゃあ、共に」
「うん。私は貴女の手を取る」
何の思惑があれ、形が歪であれ。分かたれた一つは、元の形を求め続ける。
女の懐に入れられていた淡く光るあの鎖は、役割を果たした。嗚呼、――だから。
持ち上げた女の表情がやけに晴れていたのは、当然だったのだ。
バイトから帰ってきたらもう風呂入らずに寝落ちしそうなんですが…流石に駄目ですね…ひえええ
6/7 天気に矛盾が生じていたので少し書き足しています;;