快感
私達は薔薇園を抜けた後、街へと続く門を抜けなければならなかった。東の諸侯であるスワードの屋敷は流石に広く走り抜けるというわけにはいかない。だから私達は馬を調達する必要があった。
乱れた息を整える私とは対照的にアスティンさんは存外落ち着いていた。てっきり運動は苦手な部類だと思っていた。ごめんなさい。アスティンさんは周囲を一瞥すると、指を輪の様に結び唇に運んだ。高い音が響き渡る。
「まさか……其れで馬を呼ぶ、とか?いやいや、そんなまさか」
「そのまさか、だよ」
マジですか。私は肩で息をしながら笑う……多分笑えた。久しぶりの疾走によって武者震いする身体は頬にまで感染する。こんなに自分が運動出来なかったなんて少しショックだな。私がそんな事を考えていると、アスティンさんが不意に息を漏らす。見やった方向につられると、蹄の音が確かに聞こえた。幼い頃にポニーを見ただけの私はつい目を輝かせてしまう。
「わあ……!本当に馬なんですね!」
「残念ながらわたしの馬は本当に馬なんだよね」
馬の首を撫でるアスティンさんは、小さな声で馬に話しかけていた……その時。急に馬が嘶いた。取り乱す馬をアスティンさんは落ち着いた表情で宥める。大丈夫、大丈夫の馬を撫でる横で私の心臓はバクバクと鳴り響いていた。薔薇園のその方向。何かが、来ている。そんな気が私を襲った。
「大人しく出してくれる気はないんだね、スワード!」
薔薇園の方を向いて固まってしまった私を抱き上げ馬に乗せ上げた。突然の浮遊感と生き物の感覚に私は一瞬バランスを崩してしまったが何とかしがみつく。素早くアスティンさんも乗り込むと「はっ!」という声を共に馬が走り出した。風を切るそのスピードと、背を這う何かから逃げる様に私は目を強く閉じた。
まだ薄暗い空、肌寒い気温、息の音。目の前には――閉じた城門。え、ちょ、え?
「あああああああアスティンさん‼閉じてる!閉じてるから開けて‼」
「なあにっ心配ないっ!」
「嘘嘘嘘嘘あ"あ"あ"――――――っ!?」
死んだ。終わった。自殺、自殺で終わり。さようなら日本のお父さんお母さん妹。私は一足早くご先祖様の処へ逝きます。唯一幸せなことは、朝に逝けたことです。夜に死ぬのは、如何にもって感じがして…嫌だったんだ……。
「うええっぐっ!?」
動く物質に乗っている以上、その法則に従わざるを得ないのが自然の摂理だ。それが急に止まったからと言って、私が突然止まるわけではない。城門にぶち当たって死亡、を受け入れかけた私が何時までも来ない衝撃に痺れを切らして目を開けるとアスティンさんの背中に思いっきり顔が食い込んだ。馬の辛そうな嘶きが響き、声を潜めた。私は自分が死んでないことに安堵の息を吐きつつ、城門を振り返った。穴は開いていない、し門も開いてない。……まさか通り抜けたとか?いやいやいや無い無い。……在り得そうな気がして頬が引き攣る。
「アスティン様、これはこれはお久しゅうございます」
抑揚の無い、男性の声が左から聞こえた。つい、と見やると手に農作業用の鎌を持った男が俯き加減に立っていた。口は中途半端に上がっており、笑い方も何処か普通じゃない。言うなれば嫌悪感。其れを私は感じた。
「何のつもり?」
アスティンさんは眉間に皺を寄せ男を見下ろす。そして続けた。
「スワード領の君が、わたしの進行を止める理由は何かな」
その声は明らかに不快を孕んでいる。男は奇妙に笑った。
「ひぃっ……ひひ。すみません、すみません。もうすぐ空が赤くなるものですから、見ていたのです」
「赤くなる?」
「ええ……其れは其れは、美しい赤色で」
男の声は恍惚を帯びた。昏い光を宿した目で空を愛でている様だ。
私も空を仰ぎ見た。夜明け。それを知らせる光を、男は赤と形容した。
「とっても綺麗な……赤は、お好き?」
その声は私の耳元で鈴の様に鳴った。幼い、少女の珠の様な可愛らしい声。
「―――っ!」
じり、と頬に熱が走った、と思えば身体が飛ばされる。馬だ、馬が急に前足を上げ私達を振り落した。赤い飛沫で目の前を染めながら。背後を押しつぶされる感覚に嗚咽しながら私は顔を上げようとした――そして捉えたのは俯いた男の目。
「赤、あなた様は、赤?」
まるで瞳から体内を覗かれているような粘つく感覚。気持ち悪い――けれど目を逸らせば終わりのようで。
男が鎌を振り上げた。それは一瞬の出来事で。それは男の表情からは予想も出来なかった動作で。固まった身体は動かず、唯スローモーションに見えるそれを私は眺めた。
しかし、私の身体は鎌に裂かれなどしなかった。頭上に振り下ろされる直前、いきなりペンダントが赤く輝きだして目の前に浮上し、男を弾き飛ばした。太陽の光を受けて輝く石。男は緩慢に起き上がる。私はというと、ペンダントを見つめていた。熱い、熱い光。眩しく輝いているはずなのに、しっかりと認識できる石。私はその石を手に取りたくて、そっと両手で包んだ。その瞬間、急に文字が浮かび上がる。何て書いてあるの?わからない、けれど何だろうこの昂揚感。
「"私は古の時に失われし物。今再びの問い掛けに答えん。汝、我を呼べ。汝、我が力を求めよ。我は、その時を永遠に待つ"」
「……なに?」
「今浮き出てる言葉、だよ――危ない!よけっ、」
「――ねえ、それ、綺麗なあか、ね」
ぬるりと首筋に温度を感じた。アスティンさんは私の向いている角度からは見えない……そして、背中に感じる人の体温。
「いやあっ!」
私の背を戦慄が走る。毛が逆立つ。力一杯に首に巻きつく手を振り払い、距離を開けた。アスティンさんを見ると、驚く光景だった。ある一本の木に左腕がナイフによって縫い付けられている。頭からは血を流し、その表情は……。
「アスティンさんっ‼誰が、誰が――…まさか、あなたが?」
「綺麗な光、あったかい光。ねえ、それあなたのもの?」
少女の髪の毛には斑に赤が散っていた。
「何でこんなことするの!?」
「それ、わたしにちょうだいよ」
「答えてっ!」
「こたえて」
イタチごっこ。私は輝きを増した石を握り締め少女を睨みつけた。少女は肩を竦め笑んだ。
「いず、み……さん」
私は痛々しい様子のアスティンさんを見つめる。私を呼ぶその声は苦痛を耐える様に途切れ途切れで……人はこう、いとも容易く壊れちゃうの?――小さく開いた唇が、言葉を為した。
戦え、と。
戦う?私が?
私は何かに導かれるように輝く石を見つめた。
――不思議な感覚だった。恐ろしいはずなのに、まるで幼い頃感じたあの感覚。まるで、新しいおもちゃを買ってもらった時の様な……。
「っあ、」
惚けていた私の背後をあの男が取った。首に手を回され身体を固定される。仕舞った、でも気づいた時にはもう遅い。
少女がふわりと近寄りペンダントの鎖に人差し指を絡めた。至近距離で視線が合わさる。少女の赤い瞳の中の私が歪んだ。
「ほんとうはあなたが一番欲しいんだけど……でもいまは、これがほしいわ」
少女は愛おしそうにペンダントにすり寄ると力を入れた。私は駄目だ、奪われる――理性が飛んだのか、本能が勝ったのかわからなかった。ペンダントを引かれる感覚がとても嫌だった。千切れそうになる鎖に目を見開いて、やめて、と叫ぶしか出来ない。固定された身体はどうやっても動かない。千切れちゃう、このままじゃ――千切れるっ!
"汝――……我を求めよ"
"古の……――我が名を……"
瞳の奥が瞬いた。身体に流れ込む濁流。前に感じたあの水中を流される感覚が思い出されて私は目を閉じる。……けれど、今回は違った。一瞬感じた恐怖は、直ぐに好奇心へと変わった。石が私に懲りずに語り掛けている。私に手を伸ばせと、求めよと――名を、呼べ、と。
「――来い、アンスっ‼」
「きゃああっ!」
一層輝いた。その場に居たすべての者の視力を奪う程に。私も例外ではなかった――けれど、声が響く。
"――何時ぶりの目覚めであろうか。嗚呼……汝が為に、今再び"
"我は汝が最強の剣である"
空間から剣を抜いて、まず最初に背後を突いた。顔に掛かる液体に眉を顰める。意外と男はしぶとかった。一度では停止することもなく、倒れることもなく。唯笑い手を伸ばす。次にその手を斬った。男は笑う――だから落とした。男は斃れた。
「やっぱりあなたも、赤がすきなのね」
浮いた少女が嬉しそうに笑った。私の身体は自然に少女に突進した。少女は真上に上がる。浮くことの出来ない私は無言で少女を見つめた。少女は口を尖らせ言った。
「どうしてこうげきするの?ひどい、それて斬られたら死んじゃうわ、ひどい!」
声を荒げた少女の頭上に陣が展開した。くるくる回る陣が一気に縮小する――一つの閃光が、みえ、
「――危ないっ‼」
飛び込んできたアスティンさんが弾き飛ばされ私にぶつかる。私も弾き飛ばされアスティンさんを上に乗せたまま後方に吹き飛ばされた。「ごめん」と囁いたアスティンさんに私は「助けてくれて有難う」と返した。先程展開された陣は防御の陣、と流石の私でも理解できたのだ。
起き上がることの出来ないアスティンさんの下から抜け出し私は少女を見上げて、投げた――剣を。少女は其れを軽々とかわし首を傾げる。そして私を見て嘲笑うかの様に微笑んだその――後。少女の顔が驚愕に変わった。深々と少女の腹部を貫いた剣に視線を落とす少女。声は出ないのに、口は動く。私はほくそ笑んだ。
「……あに、……れ……あがッ」
剣は少女を通過して私の手に収まった。上から降ってくる血が、目に入らぬよう私は片手で視界を僅かに塞ぐ。……勝った。
少女はだらりと空中で脱力する。少しの間の後、頭を縦に振った。「ごめんなさい…ごめんなさい…」と呟いたかと思えば急に体を溶かし、消えた。
だけど、そんなこと如何でもよかった。私はずっとドキドキしていた。何でだろう……楽しかった?血で濡れる事が嫌じゃなかった。この胸の高まりは……。
手を胸に持っていき、息を整える。紅潮した頬が熱かった。ふと後ろから呻き声が聞こえるので振り返ると傷付いたアスティンさんが苦しげに起き上がろうとしていた。私は急いで駆け寄り、その肩を支えようと膝を付いて手を伸ばした。
「アスティンさん……アスティンさん?大丈夫ですか?もうさっきの女の子はいません」
「あ、ああ……有難う泉さん。…泉さん?震えているね」
「そうですか?」
「…ごめんね、わたしが戦えないばっかりにこんな役目を..怖かったでしょう」
「いいえ」
「楽しかったですよ」
その時、アスティンさんが目を見開いたので私は背後を振り返った。しかし、もう脅威は居ない。
何をそんなに驚いているんだろう?




