幻想王国
真っ白ではない、まるでミルク色の霧の中でぷかぷかと漂う。
"わたしたちは、彼女になるために一つ……捨てなきゃいけなかった"
「――領域内の、魂を捕獲」
"それが、彼女に成るということだったの"
「――全ての記憶を投影」
"全員が彼女になれるというわけではなかった"
「――妨害確認。支障なし」
"わたしが、わたしだけがエリーシアだった。でも……"
「――……主人に祝福があらんことを」
"わたしには、魂がなかったの"
目を覚ます。
唯……唯一人の、特別になるために。
「―――――っ!」
飛び起きた視界に、光が差し込んだ。反射的に目を細めて翳した手の隙間を零れる光に、私は首を傾げた。そうすると、身体を支えていた腕に何かさらさらとしたものが往復する。くすぐったいな、と思い見ると、胸にかかる髪が見えた。……なんだ髪かぁ!
私はベッドから降りて、伸びをした。良い天気だ。今日は何をしよう―――?
「……?はい」
後方のドアがノックされた。誰だろう。
「――リアラです。朝の御支度に参りました」
リアラ?……リアラって誰だっけ?
んむ?と眉に皺を寄せたが、待たせるのも悪いし、いいやと思って返事をした。思考停止とも言う。
「おはようございます―――――様。本日のお加減はいかかですか?」
「……?別に平気ですよ、リアラさん」
「――ふふ。まだ寝ぼけていらっしゃいますね?敬語なんて。しかも"さん"付けですか?ふふふっ、私のことはリアラ、ですよ」
「―――――そっかぁ、そうだよね!ごめんね?リアラ」
「わかればよろしいのです」
「ふふっ」
リアラは本当に朝の用意をテキパキとこなしていく。顔を洗い、化粧水や保湿をし、髪を梳き、私を着替えさせる。そういえば、そうだった。リアラの仕事を見ているとわかる。彼女は私付きのメイドだ。始めは不愛想だったけど、今ではこんなに仲良しなんだよ。ふふっ、まだこのことでからかってあげよう。
これは、いつもの日常だ。そう思う。そう感じる。
だって、考えなくても身体が動いている。
「―――様。ご朝食の準備が出来ております」
「あー……ごめん。私、ご飯いらないかも」
「あら。ご体調でも優れませんか?」
嗚呼、しまった。体調とかそういうものじゃなくって、私の身体のせいなんだよね。
「えーと、違うの。私……ほら、人形だからさ、ご飯食べれないって言われ…………おや?」
「んー……寝坊助さん、ですかね?」
まくった手首に、関節が無い!
あれ、あれれれ?どういうことだ?――どういうことだ?
私は人形の身体に成ったんじゃなかったっけ?
「……んー……――――様。お腹を見られても現実は変わらないと思いますけれど……」
「え?え?あれ?」
リアラは頬に手を当て困った様に笑っている。私はというと、足元まである長いワンピースをたくし上げ、足の付け根、お腹に至るまでを余すことなく確認している。
リアラはそれに困ったことを確実な笑みを浮かべて、そそくさと私の手を咎めた。
「さあさあ。ス、……シリウスは既に席についてますよ。さあさあ、――様も参りましょう?」
「――シリウスも?」
「ええ。いつもご飯は一緒に召しあがっているではありませんか!さあさあ」
「ちょ、ちょっとまって!その前にトイレに……」
リアラがぐいぐいと押すから、私はくるりと方向転換をしてリアラをなだめるよう笑う。リアラは私が何か企んでいるとでも思ったのか腰に手を当て私の顔を覗き込んだ。
「何も企んで無いって!」
「……では何故トイレに?」
「いや。えっと、……化粧直し?」
どうしてトイレに行くだけでこんなに問い詰められているの!私!
ひええええ、と心の中で声を上げながら私はじわりじわりと平行移動し、リアラの網を抜ける。「はは、はははは……」と笑いながらドアノブに手を掛け、私は逃げるようにその部屋に入って行った。
「ふう……なぜかとてもドキドキしてしまった……」
大きな鏡の前に立つ。化粧直し、という嘘も嘘でーすと主張しながら口から出た言葉を更に裏付ける様に、既にその必要を微塵も感じさせない出来上がりの私が立っていた。
金色の髪は一本も流れに逆らうことなく、肌はストレスの影も潜んでいない。服だって、寝間着から着替えて近くにあるコンビニになら行けそうな……。
「コンビニ……?」
はて、近くにコンビニなんてあっただろうか?
いや、ないはずだ。この城には、この領地には人間界仕様のコンビニなんて――、
「うーん……」
胸がもやもやする。なんだこの違和感。うむむ?
鏡に映る少し幼い顔立ちの私が唸っている。はて、こうやって改めて自分の顔を見るのも不思議なものだ。悩んでいる顔でさえ、何だか新しいものを見たような気分にさせる。
そして今気づいたのだが、鏡に映る私は……少し悲しそうな目をしていた。
「うーん……なんか、おかしいなぁ。昨日悲しいことなんて……あったかな――――うん?何だこれ」
顔を近づけて鏡に映る私の瞼を撫でた時、目の端に赤い文字が映り込んだ。そのままずらした視界に、はっきりと見える……口紅で書いたようなルージュの文字。
「ルージュの伝言……」
と、口から出た言葉を流して私はその文字の前まで移動し、凝視した。
何の言語かわからない。それなのに、意味はわかる。
「――――おまえは、だれ、だ……?」
その言葉が言いたい意図は掴めない。
こすってみた。落ちない。タオルに水を付けて擦ってみた――落ちない。
「ううん?……え、ここにもある……――わたしは、だれ?」
な、なんだこれ……。
少し悪寒がした。おかしいな、寒気なんて、
「――様、如何なされました?」
「あっ、う、ううん!今行きます!」
出て行く狭間に一瞥したルージュの伝言は、可能な限り彷徨わせた視界に二度と捉えることは出来なかった。
***
リアラに先導され、私は朝陽が柔らかく差し込む廊下を歩いていた。通り過ぎる侍女や執事……近衛兵達が私とすれ違う度に態々立ち止まり、道を開け一言の挨拶と共に頭を下げる。歩き始めた数分はそれが少し苦痛だったが、今ではまるで昔からそうしてきた様に笑顔と共に彼らに許しを与えれる。
今日の私は、どうかしている。
美しい城は健在なのに、私の心はふわふわと落ち着かない。気を張っていないと、悲しい色をした海に飲み込まれそうだ。
庭を眺めようと右を見れば、窓ガラス越しに私が目に入る。紅の瞳に金色の髪――何も変わった所はない。……ないよ。
ただ見慣れた廊下を歩く――、……風が心地よい。
「リアラ」
「はい」
「今日の朝ごはんは何なの?」
「……そうですねぇ……何だと思います?」
うーん、と私は首を捻る。ここの料理長は何だって美味しいんだけど……そうだなぁ。強いていうなら、今この舌が欲しているのは、
「日本料理だと嬉しいかも」
「――――そうだと、良いですね」
リアラは僅かに振り返って笑う。私も「そうだね」と言って笑った。
確かにお腹が減ってきた気がする。撫で撫ですると、きゅう、とでも言いそうだ。
「おはようございます、陛下」
「おはようございます、女王陛下」
私が会食室に入ると、既に中に入っていた彼らが一同に頭を下げた。
「おはようございます、エリーシア様」
「おはよう、シリウス!」
嗚呼、まるで暗闇に陽が差した様。暗雲を一瞬にして消し飛ばす、一筋の光。
私の目の前に立ち、恭しく頭を下げる蒼の頭髪は揺れて、その中に隠した黄金が優しく微笑んだ。
それだけで、それだけで――私が満ち足りてしまった。足元を浸す冷たい海水から、暖かい方へ逃げるように。体の芯を冷やす凩から、暖かい方へ逃げるように。小春の様なその笑顔を目の前にして、私は心が満ちてしまった。
太陽の光が満ちて、満ちて、色を溶かしていく。遠くで聞こえていた声は、きっと私の気のせい。
「え、エリーシア様……そ、その……」
――幸せだ。
幸せだ!なんて気分が良いのだろう。彼に会えただけで、彼の笑顔が私に向けられたことがとても嬉しいなんて……!
「……エリーシア様、エリーシア様!シリウスが困っていますよ!」
「あっ、そうだリアラ!さっきから私の名前を呼んでたんだね。ごめん、よく聞こえなくって……」
リアラは尚苦笑していた。
うう、申し訳ない。シリウスに呼びかけられて、やっと自分の名が聞き取れるなんて我ながら恥ずかしい奴だと思う。
「いやあ、朝から恥ずかしいことかましてほんとごめんね」
「ええと……ええと……」
やはりリアラは苦笑していた。
朝から若干無視をしてしまう形になってしまったから、ちょっと怒ってるのかな?うん。無視はよくない。でも……聞き取れないのは仕方ないし……ううーん、耳掃除怠ったかな?
「エリーシア様……し、シリウスが……」
「うん?」
「――失礼。……エリーシア、臣下の前で醜態を晒すな」
派手に扉が開かれた。開け放った当人の性格を表した音に、不意を見舞われた数人の侍女達が肩を跳ね上がらせる。
入ってきたのは、真白の男。短い頭髪を揺らし、橙の瞳に私を捉えると顎をあげながら私を非難する様に細め、言った。
「……スワード」
――そう、この朝から不機嫌な男はスワード。そう、スワードだ。
折角朝から舞い込んだ幸運が逃げてしまいそうな声色に少しむくれて反論する。
「何その酷い言い草。――恋人はこうあるべき、って言ったのはスワードだよね?」
ん?恋人?
私は自分の言葉の後に――直ぐ近くに抱き止めていたシリウスを見た。自分でびっくりしていまい、飛び退く様に手を離すと頬を染めたシリウスは顔を手で扇ぎながら目を伏せ顔を俯かせた。
「…………、……始めるぞ」
更に目を細めたスワードは、とっとと自分の席についてしまった。
「……何をあんなに怒っているの?」
小さく零れた言葉を置き去りに、私も自分の席の横に立つ。
縦長いテーブルの端に立ち、朝食を共に摂る全員の顔を見渡した。リアラが横に立ち、私の椅子を引く。私が座ると、シリウス、スワードを始めとした側近たちが一斉に席に着いた。
皆、静かに私の言葉を待っている。一人一人の表情を見て、リアラを席に促した。一礼したリアラは静かに席に着く。
「――では、いただきましょう」
「はい、エリーシア様。――食事をお持ちしなさい」
「かしこまりました」
次々に料理が運ばれ、皆堅苦しい雰囲気を風に流し部屋は談笑に包まれる。鼻腔を満たす香りは――ああ、懐かしい。
これは、母の料理の香りだ。
「…………」
――誰の、料理だって?
口に含んだ箸を、静かに下ろして行く。舌を満たす味わいは、確かに、確かに――知っている。あ、どうしよう。手が震えちゃう。冷静に、冷静に、食事しなきゃ。
ああ、やっぱり……私、今日おかしいのかな。
――――違う。この感覚は……。
**
食事が終わり、すっかり机の上は食後のフルーツで溢れていた。シリウス、スワード、リアラを除く側近たちは既に朝の執務に出かけている。
私も仕事をしなければならない。その公然たる事実だけが目の前にぶら下がっている――のに、私はただ指の動くままにフルーツを千切り、口に入れていた。
朝目覚めればリアラが私の支度を済ます。そして朝の食事を終え、執務室に行かなければならない。
だから、私は立ちあがった。
「何処へ行く気だ?エリーシア」
フルーツを食べる様子も無く、ただ本を捲っていたスワードが視線を寄越した。
「決まってるじゃない」
「――執務室ですね、ご同行しましょう」
スワードの言葉を完全に遮り、シリウスが立ち上がる。スワードはシリウスを睨みつけたけれど、シリウスはスワードにゆっくりと微笑んだ。
「さあ、参りましょう」
「うん」
扉へ向かう際に、私はスワードの後ろを通る。先にシリウスが扉の前で待っているのに――私の足はスワードを通り過ぎて二三歩の所で止まった。
――花の、香りだ。
この香りは……、
「エリーシア様?」
「……あっ、ごめん。……このフルーツ、何個か持って行ってもいい?」
咄嗟に誤魔化してしまった。そんなつもりなかったのに、どうしてか責めれられる気がしてしまった。
リアラがくすくすと笑う。これ幸いと、私も頭を抑えながら笑った。
「リアラ、後で部屋までお願いできますか?」
「ふふっ……ええ、そうしましょう。お飲み物もお持ち致しますね」
「それでは――行きましょう」
手が差し伸べられる方へ、私の手も差し出そう。
" そ う し て き た ん だ か ら 、 そ う す る し か な い "
暖かい方へ、暖かい方へ。さぁ行こうと足を踏み入れる。
目の前は木漏れ日に満ちている。真後ろは煤けた景色が舞っている。温もりを知らなかった私達は、知ってしまったからもうそこへは戻れない。
暖かい方へ、暖かい方へ。
何度でも、何度でも……。
暖かい方へ、彼の居る方へ。
――そうしてきたんだから、そうするしかないの。だって、私達は……。
「おや、エリーシア様。なんだか今日はご機嫌ですね」
「ふふ、そう見える?」
「――ええ、とても嬉しそうです」
微かにぼやけた視界を正した。いけない。しっかりしないと……。
歩きながら私を見るシリウスに出来る限り自然に返したつもりだ。しかし、時折感覚がずれる。
「ねぇ……シリウス」
「何ですか?」
私が立ち止まるから、手を引く彼も立ち止まる。私の身体は幼子ではないけれど、それでも成人であるシリウスを見上げる形になるのは仕方がないこと。
見上げる私と、見下げるシリウス。
「――目覚めて、あなたに出会えて本当に良かった!」
シリウスは少し驚いた様な顔をして固まった。思わぬ反応だ。ちょ、ちょっとこちらも恥ずかしい……。手が繋がれているので、顔を隠すこともお互い儘ならない。あ、あ、あ――あれ!?私何言ってるの!?どうしよう、は、恥ずかしいが過ぎる!
頬が一気に紅潮した。まだお天道様さえ天上に昇っていないのに!私は朝から何を口走ったの!?
「あ、あ、ち、違うの。ちょっと待って、今の待って!無し無し――あ、ああー‼シリウス、ねえ、シリウスってばぁ――!」
幻想王国編スタートです!
……何も言えません!




