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絶望の淵

 三人の手で築かれた世界があった。

 ささやかな幸せで良い。三人で居られるのなら、お金持ちにならなくたって、世界の全てを手に入れなくたって良かった。


 三人の手で輪になって笑い合った日常があった。

 その日常さえ続くのなら、他のあらゆる全てをこの視界から遠ざけても……良かった。


 一人が落ちるなら、二人も落ちようと追いかけた。

 一人が帰るなら、二人も帰ろうと叫び乞うた。




 ある二人にとって、一人の存在が上にあったとしても、

 ある一人にとっては皆同等の価値で。


 嫌だ。

 嫌だ。

 嫌だ。


 失われるのは。

 失われるのは。

 失われるのは!












**




「あぁぁああああああああああぁぁあああああああああああッ!!」


 待って、待って、閉めないで、湊、湊――――!


「やだ、やだっ、だ、あ、いや、」


 やだ。いやだ。い、や。

 やだ、やだ、やだ、やだ。


「……」


 あたたかい、手のひら。

 温かい体温。

 温かい―――――血。


 溢れていた――溢れていた。


 あれは――――――――――。




 落ち着いた呼吸は、止まっているの間違い。

 閉ざされた扉を映した私の目は、乾くことを知らない。


 目を閉じると、


 湊が……!


 目を開けると、


 湊が……。


「いやぁぁぁああああああああああああああああああああああああああ!湊!!湊ぉ!!!!開けてよ!!!開けて!!!!ねぇ!!!!いやだ!!!嫌だ嫌だこんなの嫌だぁ!!!!」


「湊湊湊――――っ!!!!あぁああああぁあ!!!ああああああ!!」


 開くはずだ開くはずだ開くはずだ開くはずだ!!開かなければおかしい!私はここから出てきたの!!だから、開いて然るべき扉っ‼


 諦めるな叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け叩け!ぁぁあああ開かない開かない開かない開かない開かない開かない開かない開かない開かない開かない開かない開かない‼


「なんでッ!!開かないのぉぉぉ!あいて、あけよ、あけって言ってんでしょ!?!?」


 開け開け開け開け開け開け開け開け開け開け開け開け開けひらけひらけひらけひらけひらけひらけひらけひらけひらけひらけひらけぇええええ!


 ――――髪が視界を舞っている。身体を何度も扉に打ち付けて、私は目の前の境界線を越えようとしていた。それしか考えていなかった。それしか、考えられなかった。


「ううっ、あぁ、あけ、あけ、あけええ!」


 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度もッ!!

 叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて、打ち付けて打ち付けて打ち付けて打ち付けて打ち付けて打ち付けて打ち付けて打ち付けて!――こじ開けようとして、体全てを投げ打ったのに。


 傷一つ付かない扉は、私の目の前に佇んでいる。


「――――――…………」


 言いようもない恐怖が身を包んだ。身体中から、感覚で血の気が引いていく。私は、全ての動作を止めて扉から手を離した。数歩後ろによろめいて、自分の両手を見た。



 赤く染まった、両の手を。



 ぐるりと視界が回った。急に首を背後から締められた気がした。直感が導く答えが、私の残っている心を抉り取っていく。ただ、浅い呼吸の様な仕草を繰り返した私は、


 扉を睨みつけて、


 目の前に浮かび上がってしまった景色を、否定した。


「ああああああああああああああぁぁぁあああああああぁああああああああああッ!!!!!!!」


 形振り構っていられなかった。止まると嫌な想像が私の視界を満たすから。声を止めると、あの声が反芻し出すから。だから、この両手を振り上げて、この身体を打ち付けて、扉を壊したい!


 ……信じられなかった。

 生まれて初めて味わうかのような、お腹をずっぽりとくり抜かれたかのような悪寒。


 気持ち悪くて気持ち悪くて信じられなくて信じたくなくて夢であれと夢で夢で夢で夢で何度も何度も何度も何度もはじめから抱いてきた幻想を取り戻せたらきっときっときっときっときっときっときっと湊は湊は湊は湊は湊は湊は湊は生きている生きている生きている生きている生きているそう、そうよ!そうそうそう湊はきっと生きている生きてる!



「ううっ……ううっ」


 頭を押さえて蹲った。がなる喧騒が、徐々に大きくなっていく。

 背中を撫でられる感覚も、息を吸いこむ動作の代償も、その人の囁きも、大きく開かれた私の目は、ただ目の前の扉をこじ開けることだけに集中している。


 ――引き抜け、と私が言う。黒く染まった私が、無表情に私の背を押した。


 ――黒い私は、血濡れた両手を差し出して、私の頬を包み、私を見て、言った。


 ――<暴食(バアル)>と。


「ううぅぅぅ、あぁあぁあああああああああああああああああッ!」


 膝を付いた私は、下方にずれた視界の端に何者かの足を見た。ずるりと臓物が引き抜かれた感触がして、身を抱いた。


「――――泉!それ以上は、……!暴食(バアル!止めなさい!そこにはリアラが!」


 右奥に―――――、私の身体が見えた。

 リベカの模倣品の様な私が、駆けている。


 目の前に何時の間にか立っていた黒いフードの――男が、私を見下ろした。私は、嫉妬(レヴィに支えられながら扉を指差した。

 そして、


「―――――――開けろ」


 と言い放った。


「―――――――――――止めなさいッ!!泉!」 



裂かれた結界は、効力の終焉の証として、魔法陣を浮かび上がらせた。薄緑の陣は、波打ち現れた後ひび割れ散った――――竜の悲鳴の共に。


伸ばされた模倣品の手が私を掴む寸前で、私は扉を開け中に転がり込んだ――――。


「嗚呼……あぁ、リアラ、なんてこと!」


 後方で、失った自分の声がした。私はこんな声だったか?……と振り返った時、元の私の顔と、……アルピリさんが表情を青くして私の背後を見ていた。

 ゆっくりと後ろを振り返ると――視界を覆う、爪、が。


「あ…………」


 がくんっ、と膝が抜けた。

 私の前髪を数本掠めて、巨大な爪は頭上を通り抜けた。だけども、私を見下ろす―――――巨大な竜は、その緑眼を細めて咆哮する。


 その様はまるで、私を拒絶するように。


「何……何で……?何で、(あなた)が私を嫌がるの……!?」


 そんなに血塗れの身体で、身を切り裂く様な泣き声をあげているくせに。


 私は触れたくて、知りたくて、――――湊の在処を感じたくて立ち上がり手を伸ばそうとしたけれど。

 私の身体は第二波の衝撃が切り裂く前に、何者かに浮かされ遠ざけられる。


「――――⁉待って!止めて、降ろしてッ!!湊ぉ、湊、湊――――っ‼」


「リアラ!落ち着いて、わたしよ―――エリーシア――――」


「離して、お願い、湊が、まだ、湊が、私……私は……」


 伸ばした腕はあまりにも短すぎた。

 広げた掌はあまりにも小さすぎた。


 こんな私じゃ、大切なものを守れない。こんな手じゃ、大切な物を掬えない。

 落ちていくの?零れて、落ちてしまうの?


「落ち着け嬢ちゃん!――シリウ、……連れの女の子が部屋で待ってンだよ!」


「……連れの、女の子……っ!?」


 遠ざかる部屋を見ながら、私はその言葉に耳を傾けた。走り去られる私の抵抗は、アルピリさんにはちっとも効いていない。


「――あァと、栗毛の!」


「――実花……!」


「当たりだ!黒髪の嬢ちゃんも居る!」


「鏡子ちゃん……」


 ぐったりと頭をアルピリさんの肩にあずけた。酷く視界が霞む。私の思考が定まることを忘れたように、ただ無を欲している。乾くことの無い視界の端を、銀色の髪が横切ったような気がした。私は――そう、私は多分、きっと……多分。無意識に尋ねた。


「ねぇ……スワードは……どこに居るの?」


 その質問に対する返答は、返ってこなかった。



**


「落ち着いたかい」


 この部屋の中にいる。と言われ、私は肩から降ろされた。ふらつく視界を両手で諌められ、上を向かされる。


「……湊は」


「嬢ちゃん」


 また視界がぼやけた。アルピリさんの言葉の強さの意味を理解したくない。


「……?ね、こ?」


 その時、足元から小さな動物の鳴き声がした。二人とも下を見ると――艶やかな短い毛並みの猫が、灰色の目に私をしっかりと映した後甘える様に頭を擦り寄せていた。


「――おい、こいつは」


「お前……」


 アルピリさんの制止を前にして、私は猫に触る為にしゃがみこむ。その隙を突いてその猫は私の膝に乗り、――血の、血の付いた顔を舐めた。


「っ!駄目、血が」


 しかしその猫は、私の手にさえ擦り付き、撫でてと顔を擦り寄せる。黒猫の愛らしさに、ほっと息が付けた。そして抱き上げると、猫はごろごろと喉を鳴らし私の腕の中に収まる始末。

 アルピリさんは苦い顔をしていたけれど、私の心は随分穏やかに凪いだ。……わからないけれど、この猫は私の味方だ。そんな気がするのだ。


「――……扉を開けてください。実花と鏡子ちゃんに会います」


 猫の首元に顔を埋めた。淀んだ感覚は、記憶なのだろう。

 彼方に沈み逝くいつかの私は、ただ虚空を見つめていた。


「……――その子は」


 開け放たれた扉の向こう側に、鏡子ちゃんは立っていた。何があったのだろう。何者かが暴れた形跡があるが、鏡子ちゃんはその事に驚いているわけではなさそうだった。

 見開かれた漆黒の目、揺れる眼、――鏡子ちゃんも、巻き込んで、しまった。


「上山さん……なのですね」


「……鏡子ちゃん、私……」


 鏡子ちゃんは小走りで私に駆け寄り、膝を折った。私は困った様に微笑んで見せた。


「巻き込んじゃった……ごめんね。それに、怪我を――」


「良かった……!無事で、無事でよかった……!上山さん、本当に此処までよく頑張りましたね」


 ――――鏡子ちゃんは、どうして私を抱きしめているの?


 鏡子ちゃんは震えていた。腕の中の猫が鳴く。

 閉じられた背の戸を一瞥して、私は口を開いた。


「鏡子ちゃ、」


「地に、足をおつけなさい」


「――――え?」


 さらに強く抱きしめられた。猫が腕の中から逃げていく。


「現実から、目の前の事実から、目を逸らしてはならない時が人にはあるのですよ。――彼は、佐倉湊は」


「やめて」


「……佐倉湊は、上山さんに目を閉じていることを望みました」


「聞きたくない……」


「知らなければ上山さんは、上山さんのままでいられるからと。……ですが、上山さん。上山さんがその背に、想像もし得なかった様な事実を背負うのならば……上山さんは目を塞がれてはいけないのです。――上山さん。上に立つ者は、護られる者は、孤独と戦わなければならないのですわ」


「やだ、やだ……っ」


「どんなに現実が辛かろうと、決して目を逸らしてはいけないのです!――上山さん」


「嫌!嫌!お願い、止めて!」


 猫が鳴く。耳鳴りがする。誰か、誰か私を――この地獄から救い出して。


「佐倉湊に、会いましたか?」


 息が、あれ、息なんて、私、吸ってた、かな。


「佐倉湊は今――何処に?」


 脳裏で赤が点滅する。

 私は、違う、湊に、違う、違う違う違う考えるな考えるなこんなこと、こんなこと、湊は、湊は――。


「湊は生きて――」


「ええ。鏡子も佐倉湊にお会いしました。それで、今何処に?」


 ――い、いた、痛い。苦い、苦しい。あれ、あれれれ、あれ?私、なんで、痛いの。この身体は、あらゆる苦痛から、解放、され、た。


 ――湊。


 ――湊。


「湊は……大きな部屋に、いるの」


「……ええ」


 考えるな、と声がする。

 目を逸らすな、と声がする。


「わた、私を庇って……怪我を、湊、血塗れで……私の、私の所為で……!」


「……ええ」


「私、部屋から追い出されて……次に入った時には、竜、竜が――いたの」


 ――体に電流が走ったような。


 ああ、ああ、ああ!あの、竜は――。

 完全な、あの、竜は――緑色の目をしていた。リアラ、と呼びかけられて怒りに我を忘れた竜は、湊と同じ瞳をしていた。いいや違う――湊が、その目になったのだ。 


「湊は…………っ」


 ――――認めたくない!

 私自身の否を唱える叫び声が、ずっと鼓膜を揺らしている。それなのに、私は全霊で否定を叫んでいるのに!……私の中の一部が、冷たい眼差しで私を見ていた。諦めたような目をして、表情をして、頷いている。


「上山さんは、」


 私は顔を上げた。随分と優しい顔をした鏡子ちゃんが、私を見下ろしている。


「佐倉湊の死体を確認したのですか?」


「してない!」


「――ならば!ええ、ええ、ならば!無理に死んだことにする必要は何処にもないのですわ!」


「……え?」


 ――――風が吹く。心に巣食う闇を、一瞬にして祓う風。

 私は肩を叩かれて、風は笑うように舞い上がった。


「でも……でも、あんな怪我をして、まさか、生きて」


「上山さんのその目で!見ていないのに憶測をまさか信じると?あらあらあら嘆かわしい。その憶測を信じるか信じないかでふらふらふらふら……しっかりなさい!鏡子は、己が目で見た事しか信じませんよ?上山さんはどうなのです」


「……竜は、完全になって……」


「だからどうしたと?その竜……が佐倉湊の死と何か関係があると確信できる理由があるのですか?」


 理由……?

 視界を彷徨わせてしまう程に、私の頭の中にその理由は無かった。

 私は、ただ心に従う儘に竜の完全と湊の死をイコールで結びつけていた。

 何故――どうして――どうして?どうして私は、湊の死を確立させてそれを否定して、目を塞ごうとしていたの?


「上山さんは佐倉湊と出会った!そして佐倉湊は致命傷とも思える傷を負った!その後竜が現れた!――それが現実!死んだかもしれないという憶測でおろおろしていては、大切な時に動けません!さあ、立って!」


「鏡子ちゃん……!」


「事態は立ち止まることを許していないのです。……上山さん。もう、大丈夫ですね?」


 大きく頷いた。心を支配するその死の幻惑は完全には晴れないけれど、前を見据える視界は取り戻せた。


「上山さんに、見せたいものあります。さあ、こちらへ」


 片手を繋がれて、奥の部屋へと通される。振り返り所在を主張する黒い猫は、くるりと背を向けて――影に溶けた。


「――――シリウス……!?鏡子ちゃん、どうしてシリウスがこの部屋にいるの!?」


 天蓋に覆われた深蒼のベッド。それに寝かされた青白い顔をした男――シリウスは、額に玉の様な汗を浮かばせながら苦痛を訴えるように呻き声を小さくあげ、眠っていた。今にも目覚めそうなうなされ方だった。しかし、どうしてだろう。一向に目覚めそうにないと確信できる。


「上山さん……この男は――。この、男こそが……上山さんが探していた安藤実花、本人ですわ」


「馬鹿なこと言わないで!その男は、私をつけねらっているシリウス――地球での怪異の元凶だよ!?」


 拳に力を入れて抗議した。

 そんな馬鹿な話、あってたまるものか!


「落ち着いて……。信じられないかもしれませんが、鏡子もこの目ではっきりと見たのです。鏡子と佐倉湊に攻撃し……円卓の騎士に守られた……安藤実花を」


「……そんな……まさか……」


「佐倉湊ははっきりと、安藤実花を見据えて言いました。"あれは実花ではない。最悪の簒奪者……シリウス……"シャン……」


「シリウス=シャンカラ。こいつが、まだエリーシアの騎士だった頃の名前だよ」


 なぜ湊がシリウスの前の名前を知っているのか、目を閉じて飲み込んだ。

 

「そうですか……。……鏡子は断言します、もう一度。上山さん、その穢れを納めなさい」


「これも……現実ってことね」


 顔をあげて、息を吸った。

 笑える。やっと実花に会えたのに、こんなに心が晴れないなんて!


「――この方が、上山さんが探していた安藤実花……本人です」

 

新章突入しました~‼まだまだ物語は続きます、御付き合い下さいませ!

そしてまたプロットから大分ずれた。いつのまにか鏡子が泉を励ましていた……。

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