異 アンナ・ハスラー
わたしは、――私は、アンナ・ハスラーという。イギリスのとある商人の家に生まれた二人姉妹の一番上。所謂成り上がりの――跡継ぎ、だった。男爵という爵位を得たばかりの、跡継ぎだった。
息子に恵まれなかった我が家の親子関係は、良いものとは言えなかった。勢いに乗っていた両親は、本当に息子を授かりたがったのだろう。始めは優しかった両親。お父様とお母様。その穏やかな眼差しは、妹が生まれ、次の子を流産して、――もう、授かることは絶望的になるにつれ、冷たく、痛くなっていった。
庶民の出から、貴族へ。男爵という一番下の位ではあるけれど、一族の中の唯一の爵位。その誇りは、その栄光は、両親にとっての心臓だったのだ。私達の世話を全て使用人に任せた為に、たまにしか与えられなかった愛情は段々と別の物へ変異していく。
初めの頃の両親の女の子への教育方針であった、蝶よ花よを体現した私達の暮らしは一変することになった。
――入婿を手に入れること。そして、爵位を私に継がせること。
「いづれ貴女にも、ミズナにも、良い家柄の旦那様を見つけてあげるわぁ。そしてその家で確かにこのハスラーの血を巡らせるのよ。わたくしも、息子を立派に育て上げて、爵位を上げて、アンナとミズナが胸を張れる家へと成長させますからねぇ。だから……」
何処の家にも、たとえそれが遥か高みの爵位を持つ娘であろうとも、この世の全てに負けないレディになりなさい。其の為にまず、庶民的な暮らしには触れることは許されない。
「いづれ貴女に、この家の爵位を与えます。女である貴女が……この家の跡取りとなるのよ。ああ、ああ……!良い事、アンナ。貴女は女である以上、全てから指を差されるわぁ……。それが廻り廻って、この家を貶めることになり、忌々しい僅かな血の繋がりがある奴らまでわたくしたちを嗤うでしょう!だから、」
何処の家の跡取りにも、例え貴女が嫁ごうとしていた家のあの息子にでさえ、負けることは許されない。ドレスを脱ぎなさい。今はその時ではない。剣を取りなさい。ペンを取りなさい。歴史書を取りなさい。髪を切りなさい。――出来ないのなら、一晩そこで反省していなさい。
貴女一人じゃ心配だから、保険でミズナにも教育をさせましょう。ああ、もし、もし、爵位の継続が、貴女達ではなく、卑しい庶民であるあいつらに回る物ならば、わたくしは、わたくしは……貴女達を一生許しません。
――狂気に囚われた母に唆された父も、私と妹を家に閉じ込め教育を始め出した。いっそ、私達を男に出来ないかと、オカルトに手を出して――……。
そんな両親の狂気に、妹は耐えられなかった。体調を崩しがちになり、日々与えられていたノルマをこなすことが出来なくなる。そうすれば自ずと、定期的に行われていた両親の試練に合格点を叩き出せなくなり始めた。そのことは両親の激しい怒りと、折檻をもたらす。ミズナの泣きわめきながら許しを乞うあの声は、二度と聞きたくない。
しかし、ミズナへの当たりを緩める方法はあった。――私だ。私さえ両親の求める理想で居られたら、ミズナへその手が回ることは無かった。勿論、生きた心地などしない。一瞬でも両親の敷いた線からずれれば、それだけで……。
「アンナ」
「はい。お母様」
まるで子息が身に着ける様な服装で、私は母の前に立つ。
「今日はミズナの社交界デビューの日について話があるの。その日、貴女も社交界に出るのよ。そして、貴女が誰も足元に及ばない花であることを知らしめてきなさい」
「……えっと、お母様。ドレスを着ても良いのですか……?」
「ふふふ――、貴女は女なのよぉ。どう、足掻いてもねぇ」
頭を下げる。自分に降りかかる課題が、言われなくてもわかる。
いっそ、ノアの洪水の様に全てを洗い流してほしいと思った。来る日、一人馬車の中で、煌びやかな社交界が行われる場所に行きながらそう考えていた。
毒婦の様な母も、栄光に取りつかれた父も、金に纏わりつく親族も、全て、全て、流れて消えてしまえばいい。社交場で煌びやかに笑う娘たちも、自らの身分を振りまき、娘たちをかどわかす息子たちも全て――死んでしまえばいいのに。
私の頭の中の独白を強調させるこの雨が、全てを洗い流してくれたのなら、――良いのに。
そして、暗い帳の中、二人の姉妹を乗せ帰宅を急ぐ馬車は――、突然の歪に足を取られ横転する。不幸にも、激しい雨がその音を周囲から遠ざけてしまう。固い石畳に、赤い血が、染みることなく流されて――……、
突然の目覚めは、暖かい温もりの中。横に眠る白い男が一人の少女の目覚めに気付いて重たい目を開けた。
「ふああぁ……気づきましたか。随分唐突に落ちてきましたね――愚者」
「ここは……っう、い、いたい……!」
「ああ、まだ動いてはいけませんよ。酷い怪我なんですから……」
起こそうとした身体を、白い男が圧し返した。酷く頭が痛い、体中が動かせないのに痛い。
「あなた、様は……」
再び沈みだす景色の中、私は問うた。白い男は、橙の瞳を細めて、言った。
「スワードと申します。愚者。……まずは、おやすみなさい。起きたら大事な話をしましょう」
ちらりと真横を見れば、穏やかに眠る妹の――ミズナの顔があった。ミズナは寝返りを打てるんだ。あはは、よかった、よかった。咄嗟に庇えてよかった。でも、このまま私が死んでしまったら、この妹は、母と父の激しい期待を、背負えるの、か、しら――……。
**
「……えっ。その人形の身体に魂を移せば、私は助かるのですか……?」
私の身体の損傷は激しく、今はこの方達の御力で痛みを押さえているらしい。そして、この世界は神の国だと教えられた。救われた――と思った。主はおられたのだ。見守ってくださっていたのだ。そうわかっただけで、涙が出そうだった。
「ええ、必ず助けると僕が誓います。……いと主の愛深き子、君の目を見ていると、どうしても手を差し伸べたくなる。主に幾度も祈ったんですね、救いを、慈悲を、そして――……天罰を」
唇が震える。スワード様の瞳に、いつか見た、もう大分薄れてしまった――母と父の慈愛が、見えた気がして。
「その命を終わり、再び冥府へ逝くことも良いんですよ。しかし、僕は……君にここで第二の生を送ってもらいたいんです。その娘と共に、この神の国で」
私は掠れた声を、何度も何度も絞り出した。
「私は……私のこの身体は、もう……本当に、駄目、なのですか……」
「――はい。君が乗っていた馬車は落雷に撃たれ、派手に横転しました。その際に、君は……。僕が君を見つけた時に数々の治癒を施しましたが……」
「他に何か……あるのですか。教えて……ください。……スワード……様」
彼は一度戸惑った風にして、そして私に喋ってくれた。全てを、そして、私が選択できるすべてと、結末を。
「君は……もう、その身体では歩くことは出来ないでしょう。起き上がることも……出来ない。もう一人の子は奇跡的に無事です。安心してください。彼女なら、もう走り回れるほど回復していますよ」
私は喜んだ。妹の回復を素直に喜んだ。
「それで……私の身体は、後どれくらい生きていられるのですか?」
「……生きては、いられます。命を繋ぎ止めることなら、多少は。けれど、このままこの世界に居ては君と、君の妹は別の意味で死んでしまうんです」
別の意味?
「元の世界に帰る愚者には話せません。……申し訳ないです」
スワード様は、子犬のように眉を下げたまま私の頭を撫でた。その手はとても暖かくて、まるで、お父様の――昔少しだけ見た、お父様の撫で方と、同じ。
元の世界に、帰りたくなど無かった。望むなら、望んでもいいなら、この世界にいたい。
「では……この世界に、この身体で生きてはいけないのですか……。ミズナも……」
それは、人を拒絶する神の真意とでもいうようだった。神様は、来るべき日が来るまで人の前から姿を消しているのだ。――そうなのだから、人である私達の前に姿を見せるのは、本当は一番禁じられていることで。この人は、それを破ってでも助けてくれた。……私達を、私を、助けてくれた。
「……はい。でも、僕は無理強いはしません。あなたが……考えてください。その選択を受けいれます」
でも、本当にこれでいいの? 私達が消えて、私の両親はどうなるの?心配しているだろう……たとえそれが真摯な親の思いでなくとも、両親は私を心配するだろう。わかっていた。私は、両親にとって賭けなのだと。こんな形になってしまったけれど、掛け替えのない娘なのだと……わかっていた。
結局、私も心の何処かでは両親に拘っていたのだ。……結局。
娘二人も同時に失う。その悲劇が待つ結末は、容易に想像出来た。それはあんまりだろう。彼らも、彼らなりに今まで苦労をしてきたのに。彼らは報われなければならないのに。
「例えば、ミズナだけを……残して。私だけイギリスに帰ることは……出来ますか?」
「それは無理です。元々、……招かれたのは、君だけなんですから。君があの子の手を離さなかったんです。だから、君たち二人が下界へ帰るか、二人もこの世界で生きるか。……選んでください」
涙が出た。あんなに、あんなに、さっきまで、呪っていた両親を思うと、涙が出た。そうだ、今二人で戻れば、私が死んでも、ミズナがいる。ミズナが跡取りになり、二人は笑うだろう。でも、でもそれだとミズナはどうなるの?あの地獄の様な日々に私のせいで投げ入れられて、心まで死んで、傀儡のように、子供を産む人形になるのだろう。
私は死んで救われる。けど、ミズナはきっと死なせて貰えない。
「大丈夫……ゆっくり、ゆっくり考えてください、愛しい子。選ぶべき時は必ず来ますが……時間なら僕が稼いであげましょう。だから泣かないで下さい。君の魂は、これ以上――……濡れるべきじゃない」
温かい両手の中で、愛の光を見た。ああ、これが、子に与えられる愛なのだと、やっと思い出せた。
其れからの日々、私はベッドの中でしか見れなかったけれどとても素敵で、あったかくて、幸せで……愛しいと思える時間が流れた。
スワード様は何時も優しくて、妹にも優しくて、まるで本当の父親のように接してくれる。それに、お料理もとっても美味しい。昔、妹が生まれる前に両親と食べに行ったフランス料理に似ていた。
「おねえさま!スワード様は、まるで昔のおとうさまみたいです!」
「ええ、そうね……」
「スワード様が、ミズナ達のほんとうのおとうさまなら、よかったのになぁ」
「ええ、そうね――」
メイドのフライアも、とてもよくしてくれた。始めはとても素っ気なかったのに、段々とお互い慣れて来て今では目が合えば微笑んでくれる。家族だ。ここには、家族の温もりがある。悲しい時間は流れない。世界は、光で満ちているんだと今ならはっきり思えた。
「外を歩いて見たいなぁ……」
外をミズナが走り回っている声がする。きっと、この領地の子供だ。時折遊びに来てはミズナの相手をしてくれるいい子達。
「ああ、外にはね、とても面白いものがあるんですよ。もし、君がこの世界を選ぶなら教えたいことが沢山あるなぁ」
左手に愛しい温もりを感じる。その手はいつも、私を包み込んでくれる。
「本当ですか?楽しみ……」
ふふふ、と小さく笑う彼。私が目を向けると、すみませんといって外に目を向けた。
「外だけじゃないんです。この屋敷も実は沢山部屋があるんです!薔薇園もあるんですよ!きっと、君も好きになると思います。それに、上には空中庭園もあります!僕の自信作です!あっ、薔薇園も勿論自信作なんですよ!?甲乙は付けにくいんですが、いえ、つけたくないんですが!」
私は思わず噴き出した。そしてそのまま笑いは収まることなく、あはは、と肩が震える。身体が痛かった。鈍い、痛いみにしかもう感じられなかったし、意識は少しずつ無くなっていくし、……――自分が確実に死に近づいてることを感じても、笑ってた。
スワード様は拗ねたような顔をなされた。そんな顔も好き。私、スワード様が好きなのね。ええ、きっと、絶対、あなたが、この世で何よりも好きだわ。
「スワード様、どうか聞いてくださいますか?」
「はい。なんでしょう?」
持ち上げた震える私の手を、しっかりと両手で握り返してくれる、優しい人。
「……私、本当は、元の世界に帰らないといけないんだと思います。両親の為にも、私は、ミズナはきっと帰らなくちゃいけないんです」
ああ、そんな顔をしないで。そんな顔で笑わないで。
「それが、娘である、あの人達から血肉を頂いた子供である私の使命なのです。私は、ミズナは、彼らから命の半分を頂いた以上、その思いに答えなければならない――」
そう、それが私の思いだった。そう信じて来た言葉だった。
「けれど、」
けれど、もし、許されるなら。こんな愚かな娘を、もし、神様がお許しになるのなら。
お願いします。神様。罰は受けます。如何なる罰も、私が受けます。
でも、どうかお願いします。ミズナだけは、ミズナだけは許してあげてください。あの子は本当は、生きるはずだったのです。あの世界で、生きるはずだったのです。それを私が連れて来てしまった。可愛さ半分で、自分の身代わりにしたくなくて、招かれざる妹を招いたしまった。その事をお怒りになるのなら、どうぞ、私をお叱り下さい。
けれど、
「もし、もし、主がお許しになるのなら……私は、この世界で、生きたい……!」
妹と、あなたと、同じ世界で。
「人の身体を捨てても、私は、この世界で、生きていたい……!生きるって幸せな事だって、知りたいの……!」
暖かい陽の温もりに抱かれながら、私は、その日、人を捨てた。少しの心残りを胸に抱いて、私は人の殻を脱ぐ。
生きて行こう。新しい世界を。主の治められる愛の国を、今度こそ。
愛を知って、愛を生んで、愛を貴方に必ず返します。
私は自分の足で歩いていく。この手に、愛しい妹の手を握って。
そして――、
愛しい、あなたと共に。
おめでとう、私。今日が、私の、わたしの――新しい誕生日だわ!
後に"バレン"の主人各として泉の前に立ちはだかる女の子の物語の一節でした。人形の名称であるバレンに完全に魂が融合した唯一例です。ミズナはミズナそのものをモデルにして再設計されているので、不適合はありえません。恐らくミズナの説明は作中では出ないのでもう此処で出しちゃったり。
バレンのこと、覚えて頂けてたら嬉しいな……。




