隣人
あれから私は浴槽の中の二匹の魚と格闘した。
とりあえず風呂のお湯、いや、海水を抜いた。
ある程度海水が減ったところで魚を網で捕まえて、
とりあえず一匹ずつ洗面器に入れた。
ところがそれからまずい事に気が付いた。
私の家には水槽がないのだ。
洗面器の中の海水だけでは、この魚は翌日の朝には天国に召されているだろう。
それはまずい。
大いにまずい。洗面器の中で死なれては困るのだ。
もし洗面器の中で大往生されたりしたら、
気持ち悪くてとてもじゃないがその洗面器は二度と使えない。
かといって、私だって風呂に入りたい。
私はとりあえず風呂の湯を入れ直すことにして、
その間に、この洗面器の中の魚をどうするかに頭を悩ませることにした。
この時点で時刻は午後9時をまわっていた。
私は考えに考えた挙げ句、
ビーーーッ。
私はアパートの
「乃木」
という古ぼけた表札のかかった部屋の呼び鈴を押した。
音がピンポーンじゃない辺りに古さを感じる。
乃木さんは私の部屋の右隣に住む人で高校で理科の教師をしている。
何を教えているかは知らないが、
もしかして生物学とかを教えているなら、
水槽とか持っていそうだ、と偏見じみた考えで私は乃木さんを頼ることにした。
ビーーッ。
もう一度押した。乃木さんは出てこない。
「もしもーし、隣の204号室の私ですけどー。」
扉をドンドンと叩きながら叫んでみた。
扉の向こうで物音がした。
中に誰かいるらしい。居留守を使っているのか。
「もしもしー」
私は更に扉を叩いた。
と、
「もしもし」
を数回連呼したあとで、急にドアが開いた。
中から一人の男性が出てきた。
無精ひげに、度のきつそうな黒ぶち眼鏡をかけた、三十路過ぎのおじさん、
この人が乃木さんだ。
乃木さんは眠そうな目で私を見ると
「何でしょうか?」
と眠そうな声で呟いた。
「魚を死なせたくないんで、水槽が欲しいんですけど、
乃木さんもしかしたら持ってませんか?」
私は状況を簡潔に説明した。
風呂の水が海水に変わってその中に魚がいた事は省くことにした。
言ったとしても、事がややこしく複雑になるだけだ。
乃木さんは私のそんな説明を訝しげに聞いていたが、
私の顔が少し必死だったからだろうか、
深く尋ねてはこなかった。
乃木さんは
「少し待っていて下さい」
と言って部屋に引っ込んでいた。
私はドアの前で数分待たされたが、
次に乃木さんが出てきた時、
乃木さんはその両手に一つの水槽を抱えるようにして持っていた。
「以前ハムスターを飼っていた時の水槽です。」
そう言って乃木さんは私に水槽を手渡してくれた。
私の腕時計の針は10時を指していた。
まずい、風呂の湯を出しっぱなしだ。
その事に気が付いたので私は乃木さんへの感謝の気持ちもそこそこに自分の部屋へ急
いで戻った。
玄関で適当に靴を脱ぎ捨て、ダッシュで脱衣所へ向かう。
風呂のドアを開けると、
もくもくと白い湯気がせめてきた。
お風呂のお湯はだぶだぶと溢れていた。
「・・・・はぁ」
足元には二個の洗面器。
中には魚。
深いため息が出た。
それから私はお風呂のお湯をとめて、
水槽に塩水をつくり、その中に二匹の魚を入れて、
とりあえず六畳の部屋にその水槽を置くことにした。
その作業が終わってようやく風呂に入ることができた。
今度魚が泳いでいたらどうしようかと思ったが、
普通のお湯がそこにはあった。
長かった。本当に長かった。
風呂に入るまでにこんなに苦労したことは今までになかった。
私は足も充分に伸ばせない浴槽の中で、
体育座りしながら、ほっと一息ついた。
そして今に至る。
私は髪もろくに乾かさず、布団の上でうつ伏せになって、じっとしていた。
少し視線を横にやればそこには二匹の魚が泳ぐ水槽。
調べてみたらその魚はイワシであることが分かった。
明日魚のえさをペットショップに買いにいかなければならない。
私はいつの間にか意識がなくなっていた。
私はいつの間にか眠りの世界へ引込まれていった。
そしてその悲劇は終わらなかった。