僕の幸せな未来へ
※注意※
この作品は長編小説の本編「精霊術師の終着点 〜 短い言葉に込めた重い物語 〜」の内容に関するネタバレを含みます。
本編を未読の方は、本編を先に読むことをおすすめします。
俺様…いや、僕は、元々奴隷だった。
「おい、ガリ! 病気で倒れた奴を捨ててこい!」
主から命令される。
「はい…」
僕は逆らわずに答え、共に働いていた仲間の死体を担いだ。
向かった先は、パウロの高い壁と壁の間に広がるスラム街。
そのさらに奥にある、誰も近寄らない場所だった。
仲間の死体をそこへ捨てる。
それが、僕の日常だった。
命令に従ってさえいれば、労働は過酷でも衣食住だけは与えられる。
だから、僕は自分に言い聞かせていた。
「僕たちは、ご先祖様と同胞が罪を犯したから、その贖罪のためにパウロ教に仕えないといけない」
それが、僕たち奴隷に教えられてきたことだった。
「精霊様は、僕たちの善行を見てくださっている。いつか、きっと救いが訪れる」
教会の教えを信じることで、どうにか自分を支えていた。
そんな僕にも、大切な人がいた。
母さんだ。
母は、とても温厚で優しい人だった。
「ナルシサス。あなたは、優しくて皆を守れるような男の子になってね」
それが、母の願いだった。
奴隷の生活は、過酷という言葉だけでは足りないほどだった。
それでも僕は、母さんと一緒にいられる。
母さんと一緒に罪を償いながら生きていける。
それだけで幸せなんだ。
そう自分に言い聞かせながら、僕は毎日を生きていた。
「見てよ、母さん。母さんほど上手じゃないけど、僕も刺繍ができるようになったんだよ。これで母さんの仕事も手伝えるよ!」
僕は、肉体労働の合間を縫って練習してきた刺繍を見せながら、嬉しそうに言った。
「まあ…ナルシサスは器用ね」
母は優しく笑って、僕の頭を撫でてくれた。
僕は、母さんの笑顔が好きだった。
そして、頭を撫でてくれる温かい手のひらも大好きだった。
「それにね。今日は主様の機嫌が良かったみたいで、配給が少し多いのよ」
母はそう言って、質素なスープと硬いパンを見せてくれた。
「やったー!」
母さんが嬉しそうに笑っている。
それだけで、僕も嬉しくなった。
「ナルシサスは、いっぱい食べて大きな男の子に育ってね。はい」
母は自分のパンを半分にちぎると、僕へ差し出した。
「母さんも食べないとダメだよ」
僕は受け取ろうとせず、首を横に振った。
「私は大丈夫よ。それより、ナルシサスはいっぱい食べないと大きくなれないでしょう?」
母は優しく微笑みながら、僕の手にパンを握らせた。
「…うん。ありがとう、母さん」
僕はパンを受け取り、大切に口へ運んだ。
粗末な食事だった。
硬いパンと、具のほとんど入っていないスープ。
それでも、不思議と美味しく感じた。
母さんと一緒に食べるご飯は、いつだって美味しかった。
奴隷としての生活は辛かった。
それでも、母さんと一緒にいられる。
母さんと笑い合える。
それだけで、僕は幸せだった。
いつか、母さんと一緒に奴隷から抜け出すんだ。
そして、普通の家で一緒に暮らす。
それが、僕の小さな願いだった。
だが、そんな幸せも長くは続かず、願いは唐突に打ち切られた。
病に冒されながらも、母は働き続けていた。
しかし、無理がたたったのだろう。
ある日、とうとう母は寝込んでしまった。
僕は、そんな母の代わりに、今まで以上に懸命に働いた。
少しでも多く働けば、母の分まで認めてもらえるかもしれない。
そうすれば、母も休むことができる。
そう思っていた。
けれど、主はそんな母を許してはくれなかった。
ある日、母の様子を見に行くと、粗末な寝床の中から母と主の会話が聞こえてきた。
「ごほっ…ごほっ…いえ、私はまだ働けます!」
母が咳き込みながら、必死に訴えている。
「うるせぇ! お前は寝てばかりで、もう使い物にならねぇんだ!」
主の怒声が響き渡る。
「お願いします! どうか、お仕事を恵んでください!」
母の悲痛な叫びが聞こえてきた。
嫌な予感がした。
僕は、母の身体を拭くために持っていた桶と布をその場に投げ出し、寝床へと駆け出した。
「黙れ! 近寄るんじゃねぇ!」
主の怒声が聞こえる。
そして、僕が寝床の中へ駆け込んだ瞬間だった。
「おう、ガリか。ちょうどよかった」
主は、冷たい目で僕を見ると、倒れている母を指差した。
「その女も捨ててこい」
「…母さん…?」
僕は、その光景を理解できなかった。
血を流して倒れている母。
血の付いた鈍器を持つ主。
何が起きたのか、頭が理解することを拒んでいた。
「捨ててこいって言ってんのが聞こえねぇのか!」
主の怒声と同時に、蹴りが飛んできた。
「うぐっ…!」
腹部に強烈な痛みが走る。
僕の身体は、そのまま壁へと吹き飛ばされた。
「母さん…母さん!」
痛みに耐えながら、僕は四つん這いになって母の元へ這っていく。
「ちっ…ガリの母親だったんか」
主は舌打ちすると、忌々しそうに呟いた。
「母さん! 目を開けてよ! ねぇ!」
僕は倒れている母を抱き起こし、必死に呼びかけた。
「…」
母は目を閉じたまま、ぴくりとも動かない。
「母さん…?」
何度呼びかけても、返事はなかった。
「まあいい。おい、ガリ。今日の仕事は、それを捨てることだけだ」
主は吐き捨てるように言うと、そのまま寝床を後にした。
「…ナルシサス?」
その時だった。
母が、ゆっくりと目を開いた。
「母さん!待っててね。今、手当するからね!」
僕は、それだけで嬉しかった。
まだ生きている。
今なら助けられる。
そう思って、母の傷を手当てしようとした。
けれど、母は弱々しく僕の腕を握った。
「しなくて…いいわよ。それより、聞いて…」
「話さないで!」
僕は慌てて母を制した。
今は会話に体力を使ってほしくなかった。
それでも、母は小さく首を横に振った。
「あなただけでも、幸せになって…」
母は、いつものように優しく微笑んだ。
そして、僕の腕を握っていた手から、ゆっくりと力が抜けていった。
「…母さん?」
返事はない。
「嫌だよ…母さん!」
僕は、母の身体を必死に揺さぶった。
「僕を一人にしないでよ…!」
声が震える。
「この生活から、一緒に抜け出すんでしょ…?」
何度呼びかけても、母の身体に力が戻ることはなかった。
「母さあああん!」
僕は母の身体を強く抱きしめ、絶叫した。
視界が歪む。
涙で何も見えない。
どうして…?
真面目に働いていた母さんが、どうして?
ずっと教えを守ってきたのに。
精霊様は、僕たちの善行を見てくださっている
そう教えられてきた。
だったら、どうして母さんは死ななければならないの?
一緒に普通の生活を送るんじゃなかったの…?
頭の中に、いくつもの疑問が浮かぶ。
けれど、それを声にすることはできなかった。
ただ、冷たくなっていく母の胸に顔を埋める。
僕には、それしかできなかった。
どれだけ時間が経ったのか、僕には分からなかった。
僕は、母の身体に付いた血を綺麗に拭ってあげた。
そして、母の亡骸を背負い、スラム街の奥地へと向かうことにした。
こんな場所に、いつまでも母を寝かせておきたくなかった。
「母さん…守れなくて、ごめんね」
歩きながら、何度も何度も背中の母に謝った。
すると、スラム街の奥に人影が見えた。
最初は、同じ奴隷かと思った。
けれど、近づくにつれて違和感を覚える。
その人物は、僕たち奴隷とは明らかに違っていた。
綺麗な服を身にまとい、身なりも整っている。
しかし、その中年男性は、白い髪に、赤い瞳。
僕と同じアインシュ族だった。
「おや? 君は?」
その男性が、僕に気づいて声をかけてきた。
なぜ、同じアインシュ族なのにこんなに綺麗な服を着ているんだろう。
そんな疑問が頭をよぎった。
けれど、相手を刺激しないように、僕は小さく頭を下げた。
「…こんにちは」
「ああ、こんにちは」
男性は、にっこりと笑って挨拶を返した。
そして、僕が背負っている母へと視線を向ける。
「そちらの方は…?」
「僕の母さんです…」
僕が静かに答えると、男性はすぐに察したようだった。
「そうか…弔いに来たんだね」
悲しそうに眉を下げる。
「はい…」
「だったら…私にも弔いを手伝わせてくれないか?」
「えっ…?」
思いもよらない言葉に、僕は足を止めた。
男性は、少し申し訳なさそうに目を伏せる。
「同胞を救えなかったんだ。せめて、弔うことくらいはさせてほしい」
「…」
僕は何も言えなかった。
同胞。
その言葉が、胸に引っかかった。
奴隷になってから、そんなふうに自分たちを呼ぶ人に出会ったことがなかったからだ。
「それに、私は土行が使えるんだ」
男性はそう言うと、地面へ手をかざした。
土が盛り上がり、二本のスコップが形作られていく。
「道具があったほうが、立派なお墓を掘れるだろ?」
そう言って、出来上がったスコップの一本を僕へ差し出した。
「…ありがとうございます」
僕は、母をそっと地面へ寝かせると、スコップを受け取った。
「穴なら魔法で作ることもできる。でも…」
男性は、母の亡骸を見つめる。
「自分の手で掘ったほうが、弔いとしてはいいだろ?」
そう言って、悲しさを隠しきれない瞳で優しく微笑んだ。
「…そうですね」
僕は深々と頭を下げた。
「お手伝い、お願いします」
「ああ」
男性は静かに頷いた。
こうして僕は、初めて出会った見知らぬアインシュ族の男性と一緒に、母の墓を掘り始めた。
男性は、綺麗な服が土で汚れることなど気にも留めず、僕と一緒に穴を掘ってくれていた。
無言の時間が続く。
僕は、その気まずさを誤魔化すように口を開いた。
「…救えなかったって、言ってましたよね。どういう意味ですか?」
先ほど、男性が口にした言葉が気になっていた。
「うん? ああ…」
男性はスコップを動かしながら、何でもないことのように答えた。
「私たちは、アインシュ族と精霊術師を救う活動をしているんだよ」
「救う…?」
あまりにも簡単な答えだった。
僕は納得できず、聞き返した。
「救うって、どういうことですか?」
すると男性は、穴を掘る手を止めた。
「…君は、今の生活で満足しているか?」
突然の問いに戸惑いながら、僕は答えた。
「…いいえ」
男性は、僕の答えを聞くと当然だと言わんばかりに頷いた。
「そうだろう」
そして、穏やかな笑顔を浮かべる。
「だったら、私と一緒に来ないか?」
男性は僕へ手を差し出した。
「…来るって、どこへ?」
その笑顔に嘘がないことが、逆に不気味だった。
「私たちの故郷!機械都市アインステラへだよ!」
男性は、さあおいでと言うように、もう一度手を差し出してくる。
けれど、僕はその手を取れなかった。
機械都市
その言葉が、胸に引っかかった。
胸の奥がざわつく。
そして、少しずつ怒りのようなものが込み上げてきた。
そして、男性を睨みつけて尋ねた。
「機械都市…?」
「ああ、そうだ」
男性は何も気にする様子もなく答える。
「魔法と機械によって、快適な暮らしができる。まるで夢のような場所だよ。素晴らしいとは思わないかね?」
男性は嬉しそうに身振り手振りを交えながら、アインステラについて語る。
その瞬間だった。
ブチンッ。
僕の中で、何かが切れた。
気がつけば、男性の胸ぐらを掴んでいた。
「お前たちのせいだ!」
僕は叫んだ。
「お前たちのせいで、僕たちの贖罪がいつまでも終わらないんだ!」
機械は教典で禁じられている。
それなのに、僕たちのご先祖様は機械に手を染めた。
その罪を償うために、僕たちは奴隷として生きている。
なのに
今、僕の目の前にいる男は、その禁じられた機械を使いながら、何不自由なく暮らしている。
それが堪らなく不快だった。
「まあまあ、落ち着きたまえ」
男性は、胸ぐらを掴まれているというのに、驚くほど冷静だった。
「君は…あの教典を信じているのかい?」
「当たり前だ!」
僕は怒鳴った。
「教典は僕の人生のすべてだ! 母さんが教えてくれたんだ!」
男性の余裕のある態度が、ますます腹立たしかった。
自然と、胸ぐらを掴む手に力が入る。
「では、教典を信じているのなら…」
男性は僕の目を真っ直ぐ見つめた。
「なぜ、君とお母様はそんな環境にいるんだい?」
「それは、アインシュ族が犯した罪を償うためだ!」
僕は即座に答えた。
「そうか」
男性は静かに頷いた。
そして、次の問いを投げかけてきた。
「だったら、なぜ教典に逆らっている私が、こんな身なりをしていられる?」
「それは…」
反射的に言い返そうとした。
けれど、言葉が出てこなかった。
どうしてだ?
どうして、真面目に生きてきた僕たちが苦しんでいる?
どうして、教典に背いて機械を使っているこの人たちは、裕福そうな暮らしをしている?
教典に、その答えは書かれていなかった。
「答えられないのも無理はないさ」
男性は、優しい笑顔を浮かべた。
「君が信じている教典は…嘘に塗り固められているからね」
「…嘘?」
その言葉が胸に突き刺さった。
同時に、恐怖が込み上げてくる。
教典が嘘だとしたら
今まで真面目に生きてきた僕と母さんは、何だったんだ?
僕を支えていたはずの足元が、音を立てて崩れていく。
そのまま、奈落の底へ落ちていくような感覚に襲われた。
「ああ。教典は嘘だらけだ」
男性は、はっきりと言い切った。
その瞳に、偽りの色はなかった。
むしろ、揺るぎない信念を宿した真っ直ぐな瞳だった。
「…」
僕は、何も言い返せなかった。
無力感に襲われ、胸ぐらを掴んでいた指から力が抜けていく。
男性は、そんな僕を責めることなく言った。
「こんなところで争っていても仕方がない。君のお母様を、早く弔ってあげよう」
そう言うと、男性は僕の頭を優しく撫でた。
その手から、母さんと同じような温かさを感じた。
僕はゆっくりと男性の胸ぐらから手を離した。
「…うん」
小さく頷く。
「よし。いい子だ」
男性は明るく笑うと、再びスコップを握った。
そして、何事もなかったかのように穴を掘り始める。
「…」
僕も無言でスコップを握り直し、母の墓を掘る作業へ戻った。
母の墓を作り終えると、僕と男性は並んで墓前に座り、静かに手を合わせた。
しばらくして、男性が小さく呟く。
「…これで、君のお母様を少しは救うことができたかな」
その声には、どこか寂しさが滲んでいた。
「はい…ありがとうございます」
僕は男性に深々と頭を下げた。
けれど、胸の中はぐちゃぐちゃだった。
この人は、本当に良い人なのか。
それとも、僕を騙そうとしている悪い人なのか。
何も分からなかった。
「なに、気にすることはないさ」
男性は笑って立ち上がった。
「それじゃあな、心優しき少年君!」
そう言って、男性はその場を去ろうとする。
「待って!」
僕は思わず、大声で呼び止めた。
男性が足を止め、振り返る。
「何かな?」
「さっきの…」
そこまで言って、僕は口を閉ざした。
教典のこと。
アインシュ族の罪のこと。
奴隷として生きてきた意味。
母さんと一緒に信じてきたもののこと。
色々と聞きたい。
本当のことを知りたい。
だけど、怖かった。
もし、あの人の言葉が本当だったら?
今まで母さんと一緒に信じてきたものが、すべて嘘だったとしたら?
僕たちが必死に生きてきた時間は、いったい何だったのだろう。
僕と母さんの人生が否定されそうであと一歩を踏み出すことができなかった。
「…信じるか、信じないかは君次第だよ」
男性は、僕の気持ちを察したように柔らかな笑みを浮かべた。
そして、少しだけ考えるようにしてから言った。
「私は、明日もこの時間にここにいる」
「…」
「もし、一緒に来たいと思ったのならば、ここへ来てくれ。そうすれば、君は幸せになれる」
それだけ言うと、男性は今度こそ振り返り、堂々とした足取りで去っていった。
「…」
僕は何も言えなかった。
ただ、遠ざかっていくその背中を、黙って見送ることしかできなかった。
その日の夜、僕は眠ることができなかった。
教典は…嘘?
僕と母さんが夢見た将来は?
僕と母さんが歩んできた道は?
考えが、打ち寄せる波のように浮かんでは消え、消えてはまた浮かんでくる。
何度考えても、答えは出なかった。
そうしているうちに、いつの間にか朝を迎えていた。
「私は、明日もこの時間にここにいる」
昨日の男性の言葉が、頭の中に響く。
「…なんなんだよ」
僕は小さく呟いた。
何が正しいのか分からない。
何を信じればいいのかも分からない。
それでも、今日も働かなければならない。
僕は重い身体を引きずるようにして、いつもの仕事へ向かった。
その日は、いつも以上にぼんやりしていた。
何をしていても、頭の中に母さんの顔が浮かぶ。
そのせいで、普段なら絶対にしないようなミスを何度も繰り返した。
「ガリ! 何ぼさっとしてやがる!」
「す、すみません…!」
何度も叱責を受ける。
それでも、頭の中は母さんと昨日の男性のことでいっぱいだった。
そんな僕の様子を見かねたのか、主が声をかけてきた。
「ガリ! お前は昨日の女が寝ていた場所を片付けてこい!」
「…はい」
僕は小さく返事をすると、母が最後に過ごしていた病床へ向かった。
その時だった。
「おい、アゴ!」
背後から主の声が聞こえた。
「ガリが何かしでかすかもしれねぇ。お前は影から見張っておけ」
「…はい」
返事が聞こえる。
そんな会話が、背中越しに聞こえた気がする。
病床の扉を開けた。
「ナルシサス、今日も来てくれたのかい?」
そう言って上半身を起こし、優しく微笑んでくれる母の姿は…
もう、どこにもなかった。
「…」
なぜだろう。
視界が歪んだ。
母が最後まで過ごしていた場所には、まだ母の痕跡が残っていた。
僕は胸の奥が締めつけられるような痛みに耐えながら、一つずつ、それを自分の手で消していった。
母が使っていたゴザを片付けようとした、その時だった。
ゴザの下から、一枚の布が出てきた。
「…これ」
僕が初めて作った刺繍だった。
不器用で、所々歪んでいる。
それでも母は、大切にしまってくれていた。
「母さん…」
僕は刺繍を手に取った。
「僕は、どうしたらいいの…?」
当然、返事はない。
それでも、僕は母に問いかけ続けた。
「本当に…このまま働いていたら、報われるの…?」
ポタポタと涙が刺繍の上に落ちる。
その時、母の最後の言葉が頭の中に蘇った。
あなただけでも、幸せになって…
「そんなの…どうしたらいいの…母さん…」
胸が強く締めつけられる。
僕は、刺繍を強く握りしめた。
その時だった。
「もし、一緒に来たいと思ったのなら、ここへ来てくれ。そうすれば、君は幸せになれる」
昨日の男性の言葉が、鮮明に蘇った。
「…」
気がつけば、僕は走り出していた。
自分でも、馬鹿な判断だと思う。
奴隷の身分から逃げられるはずがない。
捕まれば、どんな目に遭わされるか分からない。
頭では、それを理解していた。
それでも
身体が勝手に動いていた。
「母さん…」
刺繍を胸に抱え、病床を飛び出す。
僕はそのまま、スラム街の奥地へ向かって走り出そうとした。
その時だった。
カン、カン、カン!
金属を激しく叩く音が響き渡った。
そして、次の瞬間。
男の大声が響き渡る。
「ナルシサスが逃亡した!」
「ナルシサスが逃亡した!」
「何あれ?」
「奴隷の脱走か?」
好奇の視線に晒されながら、僕は街中を駆け抜けた。
「はぁ…はぁ…」
長距離を走るには、栄養失調の身体はあまりにも適していなかった。
それでも、止まるわけにはいかない。
スラム街までは、まだ距離がある。
「…っ!」
寝不足と疲労で足元がふらつく。
「あっ…!」
そのまま僕は、噴水のある広場で転んでしまった。
「待て! ナルシサス!」
追っ手の奴隷が、すぐそこまで迫っている。
一刻も早く立ち上がって、逃げなければ。
そう思った。
その時だった。
「大丈夫?」
声をかけてきたのは、パンを手にした檸檬色のショートボブの少女だった。
少女は、不思議なものを見るような目で僕を見つめている。
「ごめん…僕、逃げなくちゃいけないんだ…」
僕はそう言って、立ち上がろうとした。
「悪い人から?」
少女が尋ねてくる。
「うん」
「だったら、私に任せて!」
少女は胸をドンと叩くと、追っ手の方へ駆け出していった。
「あっ…待って! 危ないから!」
僕は慌てて少女の背中に声をかけた。
けれど、少女は振り返ることなく走っていく。
「大丈夫だから、隠れてて!」
その言葉を聞いて、僕は周囲を見回した。
追っ手との距離を考えれば、このままスラム街まで逃げ切るのは難しい。
僕は少女の言葉に従い、噴水の裏へ身を隠した。
やがて、追っ手が少女の前で足を止める。
「お嬢さん。この辺りで、汚れている男の子を見なかったか?」
「見たよ!」
少女の返事に、僕の心臓が跳ねた。
売られた…?
思わず息を潜める。
「あっちの方に走って行ったよ」
少女は続けた。
「走って行った…?」
僕は思わず眉をしかめ、小さく呟いた。
「そうかい。ありがとうな」
追っ手は少女に礼を言うと、走り出した。
不思議なことに、足音が遠ざかっていく。
「…匿ってくれた?」
僕は信じられない思いで呟いた。
しばらくすると、少女がこちらへ戻ってきた。
「もう大丈夫だよ!」
少女は勝ち誇ったような笑顔を浮かべて言った。
「助かった…?」
まだ状況を理解しきれないまま、僕は少女に尋ねた。
「うん!」
少女は満面の笑みで頷いた。
追っ手を、まいてくれたんだ。
そう思った瞬間、張り詰めていた身体から力が抜けた。
そして
ぐぅ~~
静かな広場に、僕のお腹の音が響いた。
「ふふっ。お腹空いてるんだね?」
少女は笑うと、手に持っていたパンを僕へ差し出した。
「はい!」
「いや…貰えないよ」
助けてもらったばかりなのに、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。
僕は首を横に振った。
「いいの!」
少女は笑顔のまま、パンを僕の手に押しつけてくる。
「困ってるんでしょ? だったら、はい!」
「えっ…」
戸惑いながらパンを受け取る。
お礼を言おうとした、その時だった。
「フランちゃん、帰るよー!」
少し離れた場所から、女性の声が聞こえてきた。
「ママ!」
少女は声の方を振り返った。
そして、僕がお礼を言い終えるよりも早く、女性のもとへ走っていってしまった。
「…フランちゃん、か」
僕は、少女の名前を小さく呟いた。
忘れないように。
「…美味しい」
もらったパンを、一口かじる。
いつも食べている、スープに浸さなければ硬くて食べられないパンとは全く違った。
柔らかい。
ほんのりとした甘みがあり、小麦の香りが口いっぱいに広がる。
そして、少しだけ、しょっぱい。
しかし、ゆっくりはしていられない。
僕はパンを大切に抱え直すと、再びスラム街の奥地へ向かって走り出した。
スラム街の奥地へ辿り着くと、昨日の男性がすでに待っていた。
「やっぱり、来てくれたんだね」
男性は僕の姿を見つけると、嬉しそうに笑った。
「昨日は…すみませんでした!」
僕は、昨日の自分の行動を思い出し、深々と頭を下げた。
「気にしなくていいとも。私の方こそ、君の事情も知らずに一方的な話をしてしまってすまなかった」
そう言って、男性も僕に頭を下げてくる。
「いえ、そんな…! 頭を上げてください!」
僕は慌てて声をかけた。
「ふふっ。そうかい」
男性は顔を上げると、穏やかに微笑んだ。
「来てくれて。本当にありがとう」
その言葉に、僕は小さく頷いた。
「…はい」
教典が嘘だとは、まだ信じ切れない。
母さんと一緒に信じてきたものを、簡単に捨てることなんてできない。
それでも
ここに残って、何も変わらない毎日を繰り返すこともできなかった。
「じゃあ、君の幸せな未来のために…行こうか!」
男性は昨日と同じように、僕へ手を差し伸べてきた。
昨日の僕なら、その手を取ることはできなかった。
けれど、今日の僕は違う。
僕は男性の手を見つめ、ほんの少しだけ迷った。
だけど
その手を、しっかりと握った。
「…よろしくお願いします」
男性は、僕の手を握り返すと、嬉しそうに笑った。
「こちらこそ。よろしく頼むよ」
こうして僕は、奴隷として生きてきた場所を離れることになった。
これが
僕の幸せな未来へ向かう、最初の一歩だった。
あとがき
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、ナルシサスの過去を描いた短編でした。
奴隷として生きていた少年ナルシサスが、母の死をきっかけに教典への疑念を抱き、初めて自分自身の意思で未来を選ぶまでのお話です。
そして、この物語の最後に登場した少女。
彼女の過去は、短編小説「私がフランちゃんになった日」に描いております。
そちらも一緒に読んでいただけると嬉しいです。
もしナルシサスとフランネルのことが少しでも気になった方は、この二人が登場する長編小説の本編「精霊術師の終着点 〜 短い言葉に込めた重い物語 〜」も読んでいただけると嬉しいです。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。




