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婚約七年目、猫用GPSで彼の“本当の家族”を見つけました

作者: 熾星
掲載日:2026/06/12

 

 プロローグ

 婚約七周年の記念日。

 私は猫用GPSで、自分に「婚約破棄」という贈り物をした。

 それは先週、猫を探すために買ったGPSだった。

 うちの猫の「もち」が、数日前の深夜にいなくなった。

 私は半泣きになりながら、東京中を探し回った。

 結局、もち本人はベランダの隙間からひょっこり戻ってきたのだけれど、本来なら首輪につけるはずだったGPSタグは、私が何気なく佐伯悠真の車に置きっぱなしにしていた。

 そして記念日の夜。

 悠真は、会社のプロジェクトでトラブルが起きたから、一緒に食事はできないと言った。

 私は一人でレストランに座っていた。

 目の前には、すっかり冷めたステーキ。

 そして、一度も口をつけられていないワイングラス。

 そのとき、スマホに通知が出た。

「猫用GPSが移動中です」

 私は一瞬、固まった。

 もちなら、うちのソファで丸くなって眠っている。

 つまり。

 動いているのは、佐伯悠真の車にある、あのGPSタグだった。

 私は最新の録音データを開いた。

 最初に聞こえたのは、エンジンが止まる音。

 次に、幼い男の子の弾んだ声が響いた。

「パパ!」

 続いて、女の声がした。

「今日はずいぶん早いのね。白石澪との記念日があるって言ってなかった?」

 悠真が笑った。

 私が七年間付き合ってきた中で、何度も聞いたことのないような、柔らかく、気の抜けた、甘やかすような笑い方だった。

「断ったよ。記念日なんかより、沙耶と湊のほうが大事に決まってるだろ」

 猫用GPSは、迷子になった猫を見つけてはくれなかった。

 けれど、婚約者が隠していた、もう一つの家を見つけてくれた。

 1

 私は会計を済ませ、レストランを出た。

 泣かなかった。

 手も震えなかった。

 車に乗り込んだ瞬間、親友の佐藤奈奈に電話をかけた。

 奈奈は司法書士事務所で働いていて、不動産登記事項証明書を扱う仕事をしている。

 電話がつながると、私は一言だけ言った。

「奈奈、不動産登記事項証明書を確認してほしい。港区芝浦イーストタワー、2602号室。できるだけ早く」

 奈奈は、私の声がおかしいことにすぐ気づいた。

「澪、何があったの?」

「先に調べて」

 二十分後、奈奈から電話が来た。

 彼女の声は、私よりも冷たかった。

「出たよ。2602号室の登記名義人は、佐伯悠真」

 私は目を閉じた。

 奈奈は続けた。

「ただ、住んでいる人の情報までは、こっちで勝手には調べられない。でも、この部屋が佐伯さん名義なのは間違いない」

 さんねんまえの九月。

 その頃、悠真は私にこう言った。

 自分が担当している商業施設の改修プロジェクトで、急に資金の穴が空いた。

 会社の手続きが遅れているから、保証金の一部を先に立て替えなければならない。

 八百万円だけ貸してほしい。

 長くても二か月で必ず返す。

 私は迷わなかった。

 そのとき、私たちはもう婚約していたから。

 彼は父の前でひざまずき、一生私を大切にすると誓ったから。

 私は、未来の夫を助けているのだと思っていた。

 けれど、あのお金は。

 彼と別の女が暮らすマンションの初期費用になっていた。

 私はイーストタワーの向かいに車を停めた。

 そのタワーマンションは、東京の夜に突き刺さる冷たい刃のようにそびえていた。

 二十六階の一室に、明かりがついている。

 暖かな黄色い光の中に、いくつかの人影が揺れていた。

 午後七時四十分。

 彼が残業しているはずの時間だった。

 私は悠真に電話をかけた。

 すぐにつながった。

「澪?」

 悠真の声は、ひどく疲れているように聞こえた。

「どうした?こっちはまだ会議中なんだ」

 背景は静かだった。

 キーボードの音もない。

 会議中のざわめきもない。

 もちろん、現場の騒音なんて一つも聞こえない。

「どこにいるの?」

「会社だよ」

 彼はため息をついた。

「資料がまだ直らなくてさ。今夜も徹夜になりそう」

 私は二十六階の明かりを見上げながら、静かに言った。

「私、あなたの会社の下にいる。お粥を買ってきたから、降りてきて」

 電話の向こうが、三秒ほど静まり返った。

「え……会社の下にいるの?」

 彼は明らかに動揺した。

 声を潜めながら、どこか別の部屋へ移動している気配がした。

「今、急にクライアントに呼ばれて外に出たんだ。会社にはいない。澪、待たなくていいから、先に帰って」

「どこのクライアント?」

「君は知らない人だよ」

「住所を送って。そっちに行く」

「白石澪」

 彼の声が、急に苛立ちを帯びた。

「いい加減にしてくれないか。そんなに束縛しないでほしい。俺、本当に疲れてるんだ。先に帰って。騒がないでくれ」

 私は電話を切った。

 以前の私なら、彼に「騒ぐな」と言われるたびに、自分がわがままだったのではないかと反省していた。

 でも今ならわかる。

 嘘をつく人間にとって、騙された側の問いかけは、すべて「騒ぎ」なのだ。

 私は車を降り、そのタワーマンションへ入っていった。

 2

 イーストタワーの一階ロビーには、黒い大理石が敷き詰められていた。

 フロントにはコンシェルジュがいて、エレベーターホールに入るにはオートロックのカードが必要だった。

 私は入口で管理室に連絡しようとした。

 ちょうどそのとき、住人らしい夫婦がカードをかざして中へ入っていく。

 私はその後ろについて、何事もない顔でエレベーターホールに入った。

 エレベーターが上がっていく。

 鏡張りの壁に、私の顔が映っていた。

 メイクはまだ崩れていない。

 耳には、去年の記念日に悠真がくれた真珠のピアスが揺れていた。

 あのとき彼は言った。

「今はお金がないから、こんな小さなピアスしか買えなくてごめん。嫌じゃなければいいんだけど」

 私は、彼の仕事が大変なのだと本気で心配していた。

 今思えば、笑ってしまう。

 彼はお金がなかったのではない。

 私に使うお金が惜しかっただけだ。

 エレベーターは二十六階で止まった。

 私は2602号室の前に立ち、インターホンを押した。

 中からすぐに、幼い男の子の声がした。

「だれ?」

 私は表情を変えずに言った。

「管理会社の者です。下の階から天井に水漏れがあると連絡がありまして、確認に来ました」

 ドアが開いた。

 出てきたのは、五歳くらいの男の子だった。

 目元も、鼻筋も、口元も。

 佐伯悠真の幼い頃の写真に、驚くほどよく似ていた。

 彼はぬいぐるみを抱えたまま、私を見上げた。

「ママ、だれか来たよ」

 室内から足音が近づいてきた。

 一人の女が出てきた。

 ゆったりしたニットワンピースを着ていて、お腹がはっきりと膨らんでいる。

 手には、半分だけ皮をむいたリンゴを持っていた。

 顔立ちは清楚で、柔らかい雰囲気の女だった。

 私が想像していたような、派手で挑発的な女ではなかった。

 だからこそ、余計に気持ち悪かった。

 女は私を見ると、一瞬だけ固まった。

 けれどすぐに、落ち着いた表情を取り戻した。

「どちら様ですか?」

 私は彼女の目を見た。

「佐伯悠真さんに用があります」

 彼女のリンゴを持つ手が、わずかに強張った。

 だがすぐに、彼女は笑った。

「悠真はまだ帰ってきていません。会社の方ですか?よかったら中でお待ちになりますか?」

 彼女は私を招き入れた。

 本当の女主人のような顔で。

 私は、自分のお金で買われた部屋へ足を踏み入れた。

 玄関には三足の靴が並んでいた。

 男物の革靴。

 女物のぺたんこ靴。

 そして、小さな子ども用のスニーカー。

 リビングは、私が好きなナチュラルな木目調でまとめられていた。

 生成りのソファ。

 淡い木のダイニングテーブル。

 オープンキッチン。

 ベランダには観葉植物。

 皮肉なことに、悠真は何度もこの雰囲気を嫌いだと言っていた。

「冷たすぎる。モデルルームみたいで、家って感じがしない」

 でも今、その「家って感じがしない」はずの部屋は、別の女の家になっていた。

 ソファには子どもの絵本。

 ダイニングテーブルには妊婦向けの栄養冊子。

 テレビボードの横には、三人家族の写真立て。

 いや。

 三人だけではなかった。

 壁にはウェディングフォトが飾られていた。

 佐伯悠真は黒い礼服を着て、三浦沙耶は白いウェディングドレスを着ていた。

 二人は幸せそうに笑っていた。

 写真の下に記された日付は、2020年5月20日。

 その年の五月、悠真は大阪出張に行くと言った。

 半月は帰れないと。

 私は毎晩のようにメッセージを送っていた。

 会いたい、と。

 彼はこう返していた。

「俺も会いたい。プロジェクトが終わったら、すぐ東京に戻って澪と過ごすよ」

 彼は出張に行っていたのではなかった。

 結婚しに行っていたのだ。

 ウェディングフォトを撮り、別の家庭を持つために。

 三浦沙耶は私に水を注いだ。

「どうぞ」

 私は座らなかった。

 彼女の左手の薬指を見た。

 その指輪に、私は見覚えがあった。

 半年前、悠真と銀座のジュエリーショップの前を通ったとき、私はその指輪を少し長く見てしまった。

 そのとき、悠真は私の手を握って言った。

「今はまだその時じゃない。年末のボーナスが入ったら、もっといいものを必ず買うから」

 買っていたのだ。

 ただ、私ではない女の指にはめるために。

「妊娠何か月ですか?」

 三浦沙耶はお腹を撫でて、優しく笑った。

「六か月です。女の子なんです。悠真がすごく喜んでいて、やっと可愛いお姫様が来てくれるって」

「結婚してどれくらい?」

 彼女の目つきが、ようやく変わった。

「あなた、いったい誰ですか?」

「白石澪」

 空気が凍った。

 彼女の手の中で、水の入ったグラスがかすかに揺れた。

 水が少しだけローテーブルにこぼれた。

 男の子が首をかしげた。

「ママ、白石澪ってだれ?」

 三浦沙耶はティッシュを一枚抜き、ゆっくりと水を拭き取った。

 そして顔を上げ、私を見て、笑った。

「あなたが、そうなんだ」

 その言葉は羽のように軽かった。

 けれど、針のように私の心臓に刺さった。

「私を知ってるの?」

「知ってますよ」

 彼女はソファにもたれ、お腹を守るように手を置いた。

「悠真から聞いています」

「なんて?」

 三浦沙耶の目には、憐れむような優越感が浮かんでいた。

「大学時代に付き合っていた元カノだって。とっくに別れたのに、ずっと忘れられずにいる人だって」

 私は笑った。

「元カノ?」

「違うんですか?」

 彼女は少し首をかしげた。

「あなたの家には少し力があるから、悠真もきつい言い方はしにくいって。だから、たまに相手をしているだけだと聞いています。白石さん、女なら少しは自尊心を持ったほうがいいですよ。男が結婚して子どもまでいるのに、まだしがみついているなんて、みっともないと思いませんか?」

 私は壁のウェディングフォトを見た。

「2020年5月20日、あなたたちは結婚した。その年、佐伯悠真は私の家に住んでいた。毎晩、私を抱いて眠り、毎月の記念日には花を買ってきて、私の父の前で結婚すると言った」

 私は振り向き、彼女を見た。

「だから、三浦沙耶。教えて。いったいどちらが、第三者なの?」

 彼女の笑顔が、わずかに固まった。

 それでもすぐに、彼女はまた笑った。

「法律上の妻は、私です」

 彼女は一文字ずつ、はっきりと言った。

「白石さん。あなたたちの過去に何があったとしても、今、悠真と結婚しているのは私です。湊は悠真の息子で、お腹の中には悠真の娘もいます。あなたがどれだけ悔しがっても、この事実は変わりません」

 彼女は立ち上がり、私の前に来た。

「それに、悠真はもうあなたを愛していません」

 私は拳を握りしめた。

 彼女は声を低くした。

 その声は優しかった。

 けれど、吐き気がするほど悪意に満ちていた。

「あなたは支配欲が強すぎるって言っていました。何でも管理したがるって。あなたといると疲れるって。まるで仕事をしているみたいだって。あなたのところから帰るたびに、息が詰まりそうになるって。この家に戻ってきたときだけ、本当に生きている気がするって」

 ぱん、と乾いた音がした。

 私は彼女の頬を叩いていた。

 三浦沙耶の顔が横を向いた。

 湊がすぐに泣き出し、私を押した。

「悪い女!ママを叩くな!」

 三浦沙耶は頬を押さえた。

 最初は驚いた顔をしていた。

 けれど次の瞬間、その目に冷たいものがよぎった。

 彼女は急にお腹を抱え、二歩ほど後ずさった。

 そしてわざとらしく、カーペットの上に倒れ込んだ。

「あ……お腹……お腹が痛い……」

 そのとき、玄関のドアが開いた。

 佐伯悠真が飛び込んできた。

 倒れている三浦沙耶を見るなり、彼の顔から血の気が引いた。

「沙耶!」

 彼は彼女に駆け寄って抱き起こし、私を睨んだ。

 その目に宿る嫌悪と怒りは、刃のようだった。

 私の七年間の幻想を、完全に切り裂いた。

「白石澪!お前、正気か?彼女は妊娠中なんだぞ!」

 私は、七年間愛してきた男を見つめた。

 彼は別の女を抱き、別の子どもを守り、私に怒りを向けていた。

 心が死ぬとき、音なんてしない。

 3

「佐伯悠真。説明して」

 私の声は、自分でも不思議なほど静かだった。

 彼は私を見上げた。

 狼狽、後ろめたさ、苛立ち。

 いくつもの感情が彼の顔を通り過ぎた。

 最後に、彼はもう取り繕うのも面倒になったようだった。

「見たんだろ。何を説明しろって言うんだ」

 私は笑った。

「つまり、認めるのね?」

 彼は眉をひそめた。

「澪、俺たちは終わりにしよう」

「終わり?」

 私は彼の前に立った。

「私たちはいつ始まっていたの?あなたの奥さんの中では、私はずっと、あなたにしがみつく元カノだったんでしょう?」

 悠真の顔色が変わった。

 私と三浦沙耶の会話を聞いたのだと、すぐにわかったらしい。

「何を話した?」

「彼女は言っていた。あなたはとっくに私と別れたって。私はずっとあなたにしがみついているって。私の家に利用価値があるから、あなたははっきり突き放せなかっただけだって」

 私は彼の目を見た。

「佐伯悠真、七年よ。私はあなたの仕事を探すのを手伝った。プロジェクトを紹介した。あなたのお父さんの入院費を立て替えた。自分の貯金を、あなたの資金繰りのために貸した。あなたは私の父の前で、私と結婚すると言った。その裏で、別の女と結婚し、子どもまで作っていた」

 私は息を吸った。

「それで今さら、私が元カノだって?」

 悠真は口を開いた。

 けれど、何も言えなかった。

 三浦沙耶が泣き始めた。

「悠真……お腹が痛い……病院に連れて行って……」

 悠真はすぐに慌てた。

 彼女を支えながら立ち上がらせ、私を憎々しげに見た。

「澪、沙耶や子どもに何かあったら、絶対に許さない」

 私は彼を見て、急におかしくなった。

 この男は七年間、私を騙した。

 私のお金で別の家庭を養っていた。

 それなのに、私を許さないと言っている。

 私は頷いた。

「わかった」

 彼は固まった。

「佐伯悠真、一晩あげる。明日の朝九時、私の家に来て。返すべきお金、署名すべき書類、説明すべきこと。一つ残らず用意して」

 私は彼を見つめた。

「来なければ、私のやり方で処理する」

 そう言って、私は部屋を出た。

 エレベーターが下りていく。

 鏡張りの壁に映る私の目は、真っ赤だった。

 それでも泣かなかった。

 泣いてはいけない。

 泣いたら負けだ。

 家に戻ると、私は佐伯悠真の荷物を片づけ始めた。

 スーツ。

 ネクタイ。

 洗面用具。

 ゲーム機。

 替えのシャツ。

 七年という時間の中で、この部屋のあちこちに彼の痕跡が染みついていた。

 私は一番大きなゴミ袋を取り出し、一つずつ詰め込んだ。

 書斎を片づけていたとき、引き出しの奥から古いスマホが出てきた。

 画面の端にひびが入っている。

 私はそのスマホを知っていた。

 二年前に壊れて、もう捨てたと言っていたものだ。

 充電器につなぐ。

 スマホは、まだ起動した。

 パスワードは彼の誕生日だった。

 私は写真フォルダを開いた。

 そこには、三浦沙耶と湊の写真が詰まっていた。

 五年前から。

 湊が生まれたばかりの頃、悠真は病院の廊下で彼を抱いていた。

 まるで世界一幸せな父親のように笑っていた。

 その日、彼は私に言った。

 名古屋でクライアントと会議があって、電話に出られない、と。

 私はLINEのバックアップを開いた。

 メッセージが一つずつ、腐った傷口のように開いていく。

 2020年3月15日。

 三浦沙耶。

「あなた、今日の妊婦健診、先生が赤ちゃんは順調だって」

 佐伯悠真。

「お疲れ。夜、いちごのケーキ買って帰る」

 その日は、私の誕生日だった。

 彼から来たのは、たった一言だけ。

「プロジェクトが忙しい。誕生日プレゼントは今度埋め合わせする」

 2021年9月16日。

 三浦沙耶。

「あのマンション、本当に気に入った。でも初期費用があと八百万円足りない」

 佐伯悠真。

「明日には用意できる。白石のほうは簡単に言いくるめられるから」

 翌日、私は彼に八百万円を振り込んだ。

 2022年6月20日。

 三浦沙耶。

「また白石澪から連絡?うざい。あの女、どれだけ図々しいの?」

 佐伯悠真。

「少し我慢しろ。白石建材のコネを搾り取ったら、完全に捨てる」

 私はその一文を、長い時間見つめていた。

 彼の中で、私は婚約者ではなかった。

 資源だった。

 ATMだった。

 搾り取ったあとに捨てられる道具だった。

 さらに下へスクロールする。

 2023年5月。

 母が重い病で入院した日。

 三浦沙耶。

「今夜は帰ってくる?湊がパパに会いたがってる」

 佐伯悠真。

「今日は無理。白石の母親がそろそろ危ないから、病院でそれらしくしておかないと」

 三浦沙耶。

「じゃあ明日は?」

 佐伯悠真。

「白石の母親が死んだら行く」

 私はスマホを閉じ、洗面所へ駆け込んだ。

 便器に向かってえずいた。

 何も出てこなかった。

 ただ、胃の奥から込み上げてくるような吐き気だけが、手足の先まで広がった。

 母が亡くなった日、佐伯悠真は目を赤くして私を抱きしめた。

「澪、これからは俺が君を支える」

 あのとき私は、彼こそがこれからの人生の支えだと思った。

 でも彼が心の中で考えていたのは、母が死んだら別の女と子どものもとへ行ける、ということだった。

 私は蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗った。

 鏡の中の女は、顔色が悪く、目が赤かった。

 けれど、その目だけは冷えていた。

 私は古いスマホのデータをすべてバックアップした。

 写真。

 LINEの履歴。

 振込のスクリーンショット。

 ドライブレコーダーの音声。

 不動産登記事項証明書。

 すべて整理し、外付けのハードディスクに保存して、クラウドにもアップロードした。

 それから、古いスマホを透明な証拠袋に入れた。

 その瞬間から、それは私を苦しめるものではなくなった。

 反撃のための、最初の刃になった。

 4

 翌朝八時五十分。

 佐伯悠真が来た。

 しわだらけのスーツを着て、目の下に青い影を作っていた。

 どう見ても、一睡もしていない顔だった。

 ドアを開けた瞬間、彼はその場に膝をついた。

「澪、俺が悪かった」

 泣くのが、本当に上手い男だった。

 涙は、出そうと思った瞬間に出てくるらしい。

「本当にわかってる。俺は最低だ。君にひどいことをした。でも、俺がずっと愛していたのは澪なんだ」

 以前なら、彼がこうして膝をつくだけで、私は心が揺らいだ。

 彼にも事情がある。

 仕事のストレスが大きかったのかもしれない。

 ただ間違えただけなのかもしれない。

 そうやって、自分に言い聞かせていた。

 けれど今は、ただ気持ち悪いだけだった。

 私はソファに座っていた。

 目の前のテーブルには、三つの書類を並べていた。

 一つ目は、不動産登記事項証明書。

 二つ目は、これまで私が彼に送金した銀行の記録。

 三つ目は、白石建材の法務部が作成した和解契約書。

 私は顎で椅子を示した。

「座って」

 彼は座ろうとしなかった。

「澪、聞いてくれ。あの頃、君がロンドンに研修に行っていて、俺は一人で寂しかったんだ。一度だけ酒に酔って、沙耶に介抱されて、それで……」

 私は彼の言葉を遮った。

「たった一度で彼女は湊を産んだの?そのあと結婚して、二人目まで妊娠したの? 全部、偶然だったとでも?」

 彼は言葉に詰まった。

「俺は……責任を取らされたんだ。彼女が妊娠してからずっと泣いて、責任を取らないなら会社に行くって言って。親も結婚しろ、子どもを作れってうるさくて、どうしようもなかった」

 私は彼を見た。

「じゃあ、私は?」

 彼はすぐに膝でにじり寄り、私の手を取ろうとした。

「澪、本当に愛しているのは君なんだ。彼女とは責任だけだ。子どもが生まれて、仕事が落ち着いたら、必ず離婚して君と結婚するつもりだった」

 私は手を引いた。

「まだ私が信じると思ってるの?」

「澪……」

「署名して」

 私は書類を彼の前に押し出した。

 彼は一目見て、顔色を変えた。

 契約書には、はっきりと書かれていた。

 佐伯悠真は、プロジェクトの資金繰りを理由に白石澪から八百万円を借り入れたことを認め、三か月以内に元本および相応の利息を返済すること。

 さらに、既婚である事実を隠し、婚約関係を欺いたことについて、白石澪に慰謝料三百万円を支払うこと。

 また、署名日以降、佐伯悠真は白石澪およびその家族に対し、いかなる手段でも接触、つきまとい、嫌がらせを行ってはならないこと。

 彼の声がかすれた。

「澪、これはさすがにやりすぎだ。こんな大金、あるわけないだろ」

「港区のタワーマンションを買って、銀座の指輪を買って、妻子を養うお金はあるのに、私に返すお金はないの?」

 彼の顔が白くなった。

「それは……事情が違う」

 私は別の資料を取り出した。

「それと、これ」

 それは、悠真が担当していた商業施設改修プロジェクトの見積書だった。

 私は赤いペンで、いくつかの建材価格を囲っていた。

「去年の豊洲の案件。建材の見積価格が二十三パーセントも高い。差額はどこへ行ったの?」

 悠真の顔が、一瞬で真っ青になった。

「なんで君がこれを持ってるんだ」

「私の父は三十年、建材の仕事をしているの。うちがただお金を持っているだけの家だと思っていた?」

 私は彼を見た。

「佐伯悠真。私はあなたを愛していたから、疑わなかった。でもそれは、私が馬鹿だったという意味じゃない」

 彼は床に崩れるように座り込んだ。

 私は続けた。

「署名して。そうでなければ、今すぐこの資料をあなたの会社のコンプライアンス部に送る」

 彼は顔を上げた。

 その目に、ようやく恐怖が浮かんだ。

「澪、やめてくれ。そんなことをされたら、俺は終わる」

「あなたが私を七年間騙していたとき、私が終わるかもしれないとは考えなかったの?」

「俺たちの七年の感情は……」

「黙って」

 私の声は大きくなかった。

 けれど、彼はすぐに黙った。

 私は立ち上がり、彼の前に立った。

「佐伯悠真。別の女と結婚して子どもを作ったあなたに、私との感情を語る資格はない。私のお金でマンションを買ったあなたに、私との感情を語る資格はない。LINEで、私の母が死んだら行く、と言ったあなたに、私との感情を語る資格はない」

 彼の瞳孔が小さくなった。

「俺のスマホを見たのか?」

 私は笑った。

「何?あなたも、あの中身が人に見られたら困るものだってわかってるんだ?」

 彼はもう何も言えなかった。

 私はペンを彼の前に投げた。

「署名して」

 彼の手はひどく震えていた。

 それでも最後には、署名した。

 署名を終えると、彼は床に座り込んだまま、腐った泥のようになった。

「これで満足か?」

 私は書類をしまった。

「満足なんてしていない」

 彼は顔を上げた。

「これは、ただの第一歩」

 彼の顔色はさらに悪くなった。

 玄関へ向かう途中、彼はふいに振り返った。

「白石澪、お前は後悔する」

 私はその男を見て、急に哀れになった。

「佐伯悠真。あなたはまだわかっていない。後悔するのは、私じゃない」

 5

 佐伯悠真が帰ったあと、私は父に電話をかけた。

「お父さん。白石建材と宏和不動産の取引を、すべて一時停止して」

 電話の向こうで、父は数秒黙った。

「佐伯悠真の件か」

「うん」

 私は事情を簡単に説明した。

 父は最後まで聞き、長い間何も言わなかった。

 私は、見る目がないと叱られると思っていた。

 けれど父は、低い声で尋ねた。

「澪、今、一人か?」

 鼻の奥が、急に痛くなった。

「うん」

「数日、家に帰ってこい」

「大丈夫」

 私は深く息を吸った。

「私が処理する」

 父の声が沈んだ。

「なら、きれいに片づけろ」

 父が私を、守られるべき小さな娘としてではなく、自分で刃を握れる人間として扱ってくれたのは、これが初めてだった。

 その日の正午。

 白石建材は宏和不動産に対し、進行中のすべての資材供給契約を一時停止する通知を送った。

 あわせて、関連プロジェクトの見積価格について再調査を求めた。

 午後三時。

 宏和不動産のコンプライアンス部から私に連絡があった。

 担当者は森田さんという、父の長年の取引相手だった。

「白石さん、佐伯悠真の件について、こちらでも調査を開始しました」

 彼の声は重かった。

「ご提供いただいた資料は非常に重要です。実は、こちらでも彼が担当した複数の案件に、会計上の不自然な点があることを把握していました。売上の未計上、資金の不正流用、業務上横領の可能性があります」

「こちらにはLINEの履歴と振込記録もあります」

「送ってください」

 私は整理していた資料をすべて送った。

 十分後、佐伯悠真から電話がかかってきた。

 私は出た。

 電話の向こうで、彼はほとんど怒鳴っていた。

「白石澪!お前、父親に取引を止めさせたのか?」

「そう」

「正気か?何十億円規模のプロジェクトだぞ!どれだけの損害が出るかわかってるのか?」

「わかってる」

 私は静かに言った。

「でも損害を受けるのは、あなたの会社であって、私じゃない」

 彼の荒い呼吸が聞こえた。

「お前は、そこまでして俺を潰したいのか?」

「あなたを潰すのは私じゃない。あなた自身よ」

 私は窓の外を見た。

「澪、頼む。お父さんに取引を戻してもらってくれ。会社にも調査を止めてもらってくれ。金は返す。本当に返すから」

「遅い」

「そんなことをするな! 湊はまだ五歳なんだ。沙耶は妊娠中だ。俺に何かあったら、あいつらはどうなる?」

 私は笑った。

「私を騙していたとき、私がどうなるか考えた?プロジェクトの金を不正に動かしていたとき、会社がどうなるか考えた?今さら問題が起きたら、急に家族を思い出すのね」

 彼の声が震えた。

「澪、お前はひどすぎる」

「あなたほどじゃない」

 私は電話を切り、着信拒否した。

 それからLINEを開き、三浦沙耶を探した。

 昨日、部屋を出る前に、私はわざと彼女と連絡先を交換していた。

 私は一通だけ送った。

「あなたの夫は、会社のコンプライアンス部に調査されています。家の貴重品や不動産関係は、早めに確認したほうがいいと思います。差し押さえになる前に」

 彼女はほとんど一瞬で返信してきた。

「どういう意味?」

「あなたが住んでいるマンションの初期費用には、私から騙し取った八百万円が入っています。さらに、違法に得た資金が使われている可能性もあります」

「白石澪!あなたって本当に悪魔みたいな女ね!」

「悪魔なのは、二人の女を七年も騙し続けた男です」

「悠真は大丈夫よ!彼が愛しているのは私だから!」

 その一文を見て、私は彼女が少しだけ哀れになった。

 けれど、哀れだからといって無罪にはならない。

 私は返信した。

「では、どうぞ末永くお幸せに」

 そして彼女をブロックした。

 すべて終えると、私はデリバリーを頼んだ。

 テレビではバラエティ番組が流れていた。

 芸人が大げさに転び、観客の笑い声が何度も響いた。

 私は冷めたフライドチキンを食べながら、不意に涙をこぼした。

 佐伯悠真が惜しかったわけではない。

 七年間も愚かだった自分が、かわいそうだった。

 私は愛されているのだと思っていた。

 実際には、用意周到に利用されていただけだった。

 でも、私は自分に言い聞かせた。

 これが最後。

 あの男のために泣くのは、これが最後。

 これから先、私の涙を、腐った人間のために一滴も無駄にしない。

 6

 佐伯悠真が停職になったという噂は、三日目には業界に広まった。

 東京の建築、不動産業界は大きいようで狭い。

 大規模プロジェクトの取引停止となれば、関係する業者、設計会社、施工会社の耳にも入る。

 まして、白石建材が宏和不動産の複数の中核プロジェクトから急に手を引いたとなれば、それだけで十分に人目を引いた。

 その日の午前中、私は表参道の事務所でクライアントと打ち合わせをしていた。

 受付のスタッフがノックして入ってきた。

 顔がひどく気まずそうだった。

「澪さん、外にお客様が……」

「誰?」

「その……佐伯さんの奥様だと」

 私は資料を閉じた。

 来るべきものが来た。

「会議室に通して」

 五分後、私は会議室のドアを開けた。

 三浦沙耶が、やはりそこに座っていた。

 六か月のお腹を抱え、湊の手を引いている。

 目は一晩中泣いたように腫れていた。

 私を見るなり、彼女は立ち上がった。

 そして、床に膝をついた。

「白石さん、お願いします。悠真を許してください」

 事務所の外が、一瞬で静まり返った。

 全員がこちらを見ている。

 私はドアの前に立ったまま、動かなかった。

「立って話してください」

「許してくれるまで立ちません!」

 三浦沙耶は涙を流した。

「悠真は反省しています。本当に反省しています。湊はまだ五歳なんです。お腹の中にも子どもがいます」

 湊も一緒に泣き出した。

「お姉さん、お願い。パパを逮捕させないで」

 周囲のスタッフが、ひそひそと話し始めた。

「どういうこと?」

「あの人、妊娠中だよね……」

「澪さんと、婚約者の人の話?」

 三浦沙耶の泣き声は、さらに大きくなった。

 彼女は追い詰められた哀れな妻のような顔で、私を見上げた。

「白石さん、あなたが悔しいのはわかります。でも、悠真はもう私と結婚しています。私たちこそ家族なんです。どうしてまだ彼に執着するんですか?」

 その一言で、会議室の外にいる人たちの表情が変わった。

 私は彼女を見た。

 やはりそうだ。

 彼女は私に許しを乞いに来たのではない。

 私を第三者の位置に釘づけにして、周囲の人間に裁かせるために来たのだ。

「言いたいことは終わりましたか?」

 彼女は固まった。

「終わったなら出ていってください。私は仕事中です」

 三浦沙耶の目つきが変わった。

 突然、彼女は私に向かって飛びかかってきた。

「なんでそんなに冷たいの!」

 彼女は私の顔を引っかこうとした。

 私は横に避けた。

 すると彼女は、その勢いを利用するように後ろへ倒れた。

 そして床に強く倒れ込んだ。

「ああっ、お腹が!」

 彼女はお腹を押さえて叫んだ。

「湊、ママ、お腹が痛い……」

 湊が泣き叫んだ。

 会議室の外が混乱する。

 その瞬間、佐伯悠真が飛び込んできた。

 まるで最初から下で待っていて、この場面だけを狙っていたかのようだった。

 床に倒れた三浦沙耶を見るなり、彼の目は真っ赤になった。

 彼は私に殴りかかろうとした。

 けれど、二人の男性スタッフに止められた。

「白石澪!お前、人間か?彼女は妊娠中なんだぞ!」

 私はその場に立ち、夫婦の茶番を眺めていた。

 怒ることすら、もう面倒だった。

「佐伯悠真。あなたの奥さんは、自分で転びました」

「嘘をつくな!」

「会議室には監視カメラがあります」

 彼の顔がこわばった。

 三浦沙耶が泣き叫んだ。

「カメラが何よ! さっきこの人に脅されたの!私たち一家を追い詰めて死なせたいのよ!」

 私はスマホを取り出した。

「わかりました。では警察を呼びましょう」

 私は通報番号を押した。

 三浦沙耶の泣き声が、一瞬だけ止まった。

 私は彼女を見た。

「ついでに、昨夜あなたが私に送ってきたLINEも警察に見てもらいます。私に三百万円を払えば、もう事務所には来ない、と書いてありましたね。これは恐喝に当たるかどうか、判断してもらいましょう」

 彼女の顔が真っ白になった。

「あなた……スクショしてたの?」

「当然です」

 佐伯悠真が、鋭く彼女を見た。

「お前、彼女に金を要求したのか?」

 三浦沙耶は慌てた。

「違う!そんなことしてない!この女が嘘をついてるの!」

 私は小さく笑った。

「では、警察に判断してもらいましょう」

 佐伯悠真がついに焦り始めた。

 彼は声を低くし、歯ぎしりするように言った。

「白石澪、お前は何がしたいんだ」

 私は彼を見た。

「私が何をしたいか?」

 一文字ずつ、はっきり言った。

「あなたたち夫婦に、私の人生から消えてほしい。あなたには私から借りたお金を返してほしい。自分のしたことについて、法的責任を負ってほしい。それから」

 私は三浦沙耶の前に立ち、彼女を見下ろした。

「妊娠を武器にしないでください。子どもは、あなたの悪事を帳消しにする免罪符ではありません」

 彼女の顔は紙のように白かった。

 私は佐伯悠真へ視線を戻した。

「あなたは利益のために私を七年騙した。明日は利益のために、彼女を一生騙すかもしれない。三浦沙耶、あなたは自分が勝ったと思っているの?あなたが奪ったのは、腐りきった男だけです」

 会議室は、恐ろしいほど静まり返った。

 最後に、佐伯悠真は三浦沙耶を支え、全員の視線を浴びながら無様に出ていった。

 去り際、彼は憎しみに満ちた目で私を見た。

 でも、もうどうでもよかった。

 憎めばいい。

 彼らが強く憎むほど、私が一番痛い場所を打った証拠だから。

 7

 その日を境に、佐伯悠真への調査は急速に進んだ。

 宏和不動産のコンプライアンス部は、彼が担当していた複数の案件で、少なくとも三件の資材購入費に不自然な金の流れを見つけた。

 一部は関連会社を経由し、最終的に彼の個人口座へ入っていた。

 さらに一部は、港区のタワーマンションに使われていた。

 それはもう、単なる社内規定違反ではなかった。

 業務上横領だった。

 一週間後、警察が正式に介入した。

 佐伯悠真が事情聴取のために連れて行かれた日、宏和不動産は大騒ぎになったらしい。

 彼はオフィスで足が抜けたようになり、まともに言葉も出なかったという。

 三浦沙耶から、十数回の着信があった。

 私は一度も出なかった。

 最後に、彼女からSMSが届いた。

「白石澪、調子に乗らないで。悠真が終わるなら、私が死んでもあなたを道連れにする」

 私は読み終えると、削除して、ブロックした。

 もちろん、彼女がこれで終わるはずがなかった。

 翌日、彼女はXや匿名掲示板、いくつかの暴露系アカウントに長文を投稿した。

 タイトルは、ひどく煽情的だった。

「妊娠六か月の正妻、有名社長令嬢に追い詰められています」

「夫が第三者に陥れられ、私は子どもと住む家を失いました」

「この悪女を許さないでください」

 彼女は私の事務所の住所、写真、さらには白石建材の会社名まで載せた。

 最初は、事情を知らない人たちが本当に私を叩きに来た。

 事務所の公式アカウントのコメント欄は、悪口で埋まった。

「金持ちって本当に最低」

「正妻が妊娠中なのに、まだ追い詰めるの?」

「人の家庭を壊しておいて、よく堂々としていられるね」

 スタッフは怒りで震えていた。

「澪さん、声明を出しましょう」

 私は言った。

「もう少し待って」

「まだ待つんですか?」

「彼女はまだ、自分で逃げ道を塞ぎきっていない」

 スタッフは私を見て、何も言わなくなった。

 きっと私の冷静さが怖かったのだと思う。

 けれど、人は限界まで裏切られると、わかるようになる。

 感情ほど役に立たないものはない。

 役に立つのは、証拠だけだ。

 三日後、三浦沙耶は二人の自称フリーライターを連れて、私の事務所に乗り込んできた。

 その日、私は重要なクライアントを迎えていた。

 彼女は入ってくるなり泣き叫んだ。

「この人です! 私の夫を誘惑して、横領の濡れ衣まで着せたんです!実家がお金持ちだからって、私たち母子を殺そうとしているんです!」

 二人のライターは、スマホを私に向けて撮影していた。

 クライアントは驚いて固まった。

 私は立ち上がり、三浦沙耶の前に歩いた。

「ここで話す覚悟があるんですね?」

 彼女はさらに激しく泣いた。

「どうして話せないの?白石澪、あなたこそ、自分のしたことを認めなさいよ!」

「わかりました」

 私は振り向いて、スタッフに言った。

「プロジェクターをつけて」

 三浦沙耶は固まった。

「何をする気?」

 私は答えなかった。

 パソコンをプロジェクターにつなげた。

 最初の一枚は、私と佐伯悠真が七年間付き合っていたことを示す写真だった。

 大学の卒業式。

 母の葬儀。

 両家の顔合わせ。

 婚約指輪。

 二枚目は、彼が私の父に書いた婚約の誓約書。

 三枚目は、私が彼に振り込んだ八百万円の記録。

 四枚目は、港区のマンションの不動産登記事項証明書。

 五枚目は、彼と三浦沙耶のLINEのスクリーンショット。

「白石建材のコネを搾り取ったら、完全に捨てる」

 会議室は、しんと静まり返った。

 二人のライターのスマホが、ゆっくりと下がっていく。

 三浦沙耶の顔は、紙のように白くなっていた。

「これは……偽物よ……」

 私は録音データを再生した。

 スピーカーから、佐伯悠真の声が流れた。

「断ったよ。記念日なんかより、沙耶と湊のほうが大事に決まってるだろ」

「澪には、今週はプロジェクトの追い込みで徹夜になるって言ってある」

 録音が終わった。

 事務所の中には、空調の音だけが残った。

 私は三浦沙耶を見た。

「あなたは、私を第三者だと言いました。けれど最初から最後まで、隠されていたのは私です」

「あなたは、私が佐伯悠真を陥れたと言いました。けれど彼が調査されているのは、会社が架空請求と業務上横領の証拠を見つけたからです」

「あなたは、私があなたたち一家を追い詰めたと言いました。けれどあなたが住んでいるマンションには、私から騙し取った八百万円が使われています」

 私は一歩ずつ彼女へ近づいた。

「あなたは、まだ泣いていてもいい。でも次は、声明で済ませません。名誉毀損、嫌がらせ、個人情報の無断公開、そして恐喝未遂で訴えます」

 三浦沙耶は震えていた。

「どうして……どうしてそんなことをするの?私だって、ただの女なのに。ただ自分の家を守りたかっただけなのに」

 私は彼女を見た。

「あなたの家は、私への嘘と苦痛の上に建てられたものです」

 彼女の涙が落ちた。

 今度は演技ではなさそうだった。

 彼女もようやく気づいたのかもしれない。

 自分が手に入れたと思っていたものは愛ではなく、自分自身もまた佐伯悠真の嘘の中に閉じ込められていただけだと。

 でも、私は彼女を慰めなかった。

 彼女が目を覚ましたあとの痛みまで、私が背負う必要はない。

 彼女は突然、私の袖をつかんだ。

「白石さん、私が悪かったです。本当に悪かったです。訴えるのはやめてください。お願いします。湊には父親が必要なんです。お腹の子にも、父親が必要なんです」

 私は手を引いた。

「頼む相手を間違えています。佐伯悠真が触れたのは、法律です。法律がどう判断するかは、私が決めることではありません」

 彼女は床に座り込み、声を上げて泣いた。

 私は警備員に頼んで、彼女を外へ連れ出してもらった。

 後で聞いた話では、彼女はその日、帰宅後に体調を崩し、早産したらしい。

 六か月の女の子は、助からなかった。

 佐伯悠真は拘置所でその知らせを聞き、その場で倒れたという。

 その話を聞いたとき、私は長い間、黙っていた。

 その子に罪はなかった。

 けれど、この世には、大人が自分の手で植えた悪の実によって生まれる悲劇がある。

 8

 判決が出たのは、半年後だった。

 佐伯悠真は、業務上横領、背任、取引資料の偽造により、拘禁刑七年の判決を受けた。

 判決の日、私は裁判所には行かなかった。

 事務所で図面を描いていた。

 ブラインドの隙間から、陽の光が机に落ちていた。

 机の上には、温かいコーヒーが一杯置いてあった。

 すべてが静かだった。

 森田さんからメッセージが届いた。

「判決が出ました。七年です」

「わかりました」

 胸のすくような快感はなかった。

 悲しみもなかった。

 ただ、ようやく埃が落ちたような疲れだけがあった。

 佐伯悠真の港区のマンションは、最終的に差し押さえられ、競売にかけられた。

 初期費用に不正資金と私から騙し取ったお金が含まれていたため、売却代金の大部分は会社債務の清算に充てられた。

 三浦沙耶には、何も残らなかった。

 彼女は湊を連れて、群馬の実家へ戻ったらしい。

 その後、佐伯悠真とは離婚したと聞いた。

 湊は幼稚園を転園したという。

 彼女は実家の近くで働き始めたものの、あまり楽ではない生活をしているらしい。

 そうした話は、すべて人づてに耳に入ったものだった。

 私はもう、自分から知ろうとはしなかった。

 許したわけではない。

 ただ、必要がなかった。

 人はいつまでもゴミ箱を見つめて生きていくわけにはいかない。

 捨てたものは、見えない場所で腐ればいい。

 佐伯悠真が刑務所に入ったあと、私の生活は少しずつ元に戻っていった。

 事務所はいくつかの大きな案件を受けた。

 一つは、銀座の精品ホテルの空間改装。

 もう一つは、軽井沢の温泉旅館のリニューアル。

 私の名前は、業界誌にも載るようになった。

 父は白石建材に戻って跡を継ぐよう勧めてきた。

 私は断った。

 私は、自分のやり方で立ち上がりたかった。

 白石社長の娘としてではなく。

 白石澪として。

 一年後、私は建築デザインのカンファレンスで、瀬戸陽介と出会った。

 彼は一級建築士で、自分の設計事務所を持っていた。

 初対面で、彼は私の案にある採光計画の問題を指摘した。

 言い方はかなり率直だった。

 そのときは少し腹が立った。

 けれど後で確認してみると、彼の指摘は正しかった。

 私たちは共同案件を通じて、少しずつ親しくなっていった。

 彼は佐伯悠真とはまったく違った。

 突然消えない。

 忙しさを言い訳にして誤魔化さない。

 私の過去を詮索しない。

「君のため」と言って、私の選択を勝手に決めない。

 彼は私の境界線を尊重した。

 私の選択も尊重した。

 ある日、私たちは鎌倉へ案件を見に行った。

 東京へ戻る新幹線の中で、私は連日の残業のせいで眠ってしまった。

 目が覚めると、肩に薄いブランケットがかけられていた。

 隣に座る彼は資料を読んでいて、視線をこちらへ向けることすらしていなかった。

 私はそのとき、妙に安心した。

 その安心感は、佐伯悠真と七年一緒にいても、一度も本当には持てなかったものだった。

 さらに一年後、陽介が私に告白した。

 場所はとても普通だった。

 私たちがよく行くカフェ。

 彼は大げさな花束も用意せず、人目を集めるような演出もしなかった。

 ただ、一通の手紙を私の前に置いた。

 そして言った。

「白石さん、あなたがとてもつらいことを経験したのは知っています。だから、すぐに僕を信じてほしいとは言いません。ただ伝えたいんです。僕は今のあなたが好きです。救われるべきあなたでも、過去に傷つけられたあなたでもなく、真剣に仕事をして、怒って、笑って、コーヒーが冷めていることにも気づかないあなたが好きです」

 私はその手紙を見つめたまま、長い間何も言えなかった。

 最後に、私は言った。

「時間が必要です」

 彼は頷いた。

「わかりました」

 失望もなかった。

 急かすこともなかった。

 罪悪感を押しつけることもなかった。

 ただ、静かな「わかりました」だけだった。

 その瞬間、私はようやく理解した。

 本当にあなたを尊重する人は、愛を使ってあなたを追い詰めたりしない。

 9

 さらに二年が過ぎた頃、陽介は私にプロポーズした。

 場所は、やはりあのカフェだった。

 窓際の席。

 その日は小雨が降っていて、ガラスには細い雨の跡が残っていた。

 彼が指輪を取り出したとき、指先がわずかに震えていた。

 彼があんなに緊張している姿を見たのは、初めてだった。

「澪さん。あなたが裏切られたことも、もう一度人生を信じるまで長い時間が必要だったことも、僕は知っています。僕は、自分が絶対にあなたを悲しませないとは言えません。でも、これだけは約束できます。あなたを欺かない。軽んじない。あなたの真心を、当たり前のものとして扱わない。どうか僕に、あなたと一緒に前へ歩いていく人間になる機会をください」

 私は泣いた。

 けれど今度は、幸せな涙だった。

 私は手を差し出した。

「はい」

 結婚式の日。

 父は私の手を取り、陽介へ渡した。

 目は赤かったのに、平静を装っていた。

「この男に泣かされたら、いつでも帰ってこい」

 陽介は真剣に頭を下げた。

「澪さんを悲しませるようなことはしません」

 父は鼻を鳴らした。

「そうであってほしいものだ」

 会場の人たちが笑った。

 私は白いドレスを着て、陽介の優しい目を見つめていた。

 心は、これまでにないほど穏やかだった。

 式が終わったあと、知らない番号からSMSが届いた。

 そこには、たった一言だけ書かれていた。

「おめでとう」

 私はその二文字を、数秒だけ見つめた。

 誰からなのか、すぐにわかった。

 佐伯悠真は刑務所での態度があまり良くなく、減刑の可能性は低いと聞いていた。

 このメッセージは、おそらく誰かに頼んで送ってきたのだろう。

 後悔なのか。

 未練なのか。

 それとも、自分がまだ私の人生に存在していると証明したかっただけなのか。

 でも、私は返事をしなかった。

 そのまま削除した。

 過去は、過去に置いていくものだ。

 その後、三浦沙耶が再婚したと聞いた。

 湊を連れて、地元で小さな食堂を営む男性と結婚したらしい。

 彼女が幸せなのかどうかは知らない。

 興味もない。

 佐伯悠真が出所した年、私と陽介の娘は三歳になっていた。

 その夜、古い荷物を整理していたとき、私はあの古いスマホを見つけた。

 透明な証拠袋は、少し黄ばんでいた。

 私は充電して、電源を入れた。

 写真も、LINEの履歴も、そのまま残っていた。

 かつて私を崩壊させ、吐き気を催させ、怒りで震えさせた文字たち。

 今それらを見ても、まるで他人の物語を読んでいるようだった。

 胸は痛まなかった。

 憎しみもなかった。

 ただ、遠かった。

 とても遠かった。

 東京の冬の夜に降った、もうとっくに溶けてしまった雪のように。

 私はすべてのデータを完全に削除した。

 そしてスマホを初期化した。

 翌朝、私はそれを不燃ごみの袋に入れた。

 陽介が娘の手を引いて、玄関で私を待っていた。

 娘はもちを抱きしめたまま、甘い声で聞いた。

「ママ、それなあに?」

 私は笑った。

「なんでもないよ」

「こわれたもの?」

 私は娘の頭を撫でた。

「うん。ずっと前から壊れていたもの」

 娘は真剣な顔で頷いた。

「こわれたものは、すてなきゃだめだよ」

 私は一瞬固まって、それから笑った。

「そうだね」

 壊れたものは、捨てればいい。

 壊れた人間も、同じだ。

 私は娘の手を取った。

 陽介が、私のために傘を開いてくれる。

 春の東京は、雨上がりだった。

 空気の中に、桜と濡れた土の匂いが混じっていた。

 私は玄関先のゴミ袋を一度だけ振り返った。

 そして前を向き、歩き出した。

 もう、振り返らない。



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