表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
拗曲  作者: 中め


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/6

小山田姉妹

 今日香と明日実が小山田家に帰ると、居間で明寿香が再放送のドラマを見ていた。一瞬、今日香と明日実の方へ黒目を向けたが、明寿香の視線はすぐにテレビへ戻った。明寿香に「おかえり」の言葉はない。夫の命を奪った殺人犯と、その味方をする娘に帰ってきてほしいと、思っていないからだ。

 明日実のバイト代がなければ生きていかれない。明日実がいないと困るのに、明寿香にとって明日実は、今日香の次に厄介だった。

 今日香と明日実も、明寿香と話したいことなど特にない為、無言で居間を通り過ぎ、それぞれの部屋へと入って行った。

 今日もデータ入力のバイトでお金を稼ごうと、明日実がパソコンを立ち上げていると、隣の今日香の部屋からガサゴソという音が聞こえた。

 小山田家の壁はとても薄く、生活音が丸聞こえてしまう。幼き頃、明日実が鼻歌を盛大に外し、壁越しに今日香から大笑いされてから、それ以降一度も家で歌を歌わなくなったくらいのトラウマを明日実に与える家である。

「お姉ちゃん、何してるのー?」

 姉の様子が気になった明日実が、今日香の部屋に顔を出した。

「掃除してただけ。バイトしようとしてた? ゴメン、うるさくて集中出来ないよね」

 今日香の手に持たれていたゴミ袋には、翔真との写真や、翔真からのプレゼントであるアクセサリーが入っていた。

「イヤホンしちゃえばいいから、音なんかいくら出されても構わないんだけど……捨てるの?」

 壁の薄い小山田家にはノイズキャンセリング機能付きのイヤホンが必須だ。明日実も今日香も高校時代に、初めてのバイト代で買ったのが、イヤホンだった。

「捨てるよ。ゴミでしかないじゃん。別れてるんだし」

 今日香は、翔真からの手紙同様、思い出までもゴミとして捨てると言う。

「……戻れないかな、お姉ちゃんと翔真さん。だって、お姉ちゃんは無罪だし、お父さんの犯罪は立証されないし、だからお母さんも捕まらない。誰にも何の前科もない。だったら別に……」

「何の問題もないと思う? 本当にそう思う?」

 今日香が明日実の言葉を遮った。

「無罪であっても、父親を刺した事実は変わらない」

 今日香が、きゅうっとゴミ袋の口を縛り上げた。

「……いくら考えても分からないことがあるの。お姉ちゃんは、どうしてお父さんを刺したの? 結婚、したかったんでしょ? あんなことをしなかったら、絶対に出来てたはずだよ? お父さんが結婚の挨拶の時に、バラす仕草をしたから? あれはただ、『バラされて困るなら、俺への態度を改めろ』的なお父さんの悪ふざけだよ」

「そんなの分かってるよ。そもそも、バラされて困るのは私以上にお前だろって話だし。『自首しなきゃ、自首しなきゃ』と言っておきながら三十年間出来なかったチキン野郎が、あの場でバラす度胸などあるはずがない」

「じゃあ、何で?」

「……翔真って、本当に普通の人だったよね」

 今日香は、明日実の『何で?』に答えず、ゴミ袋の中の翔真の写真に視線を落とした。

「……そうだね」

「普通の家庭に産まれて、普通の学生時代を送って、普通に社会人になって、普通に幸せな人生を送る人なのよ、翔真は」

「……そうだね」

「翔真の家系図に、私なんかが入っちゃだめだよ。あんな両親、入れられないよ。翔真の家系図に殺人犯の血なんか混入させられないよ」

「……だからか」

 明日実はようやく、今日香が父親を刺した理由が腑に落ちた。翔真への思いが深かったからこそ、今日香は『秘密にしておけばいい』を罷り通せなかったのだ。

「……大事なんだねぇ、翔真さんのこと」

「大事だったねー」

「大好きなんだねぇ」

「大好きだったねー」

 今日香は明日実の言葉を悉く過去形にして返した。過去形にするには時間が経っていない。今も変わらす翔真は今日香の胸の中にいる。明日実もそれは分かっている。過去形にするしかないことも。

「そりゃ、刺しちゃうよね、お父さんのこと」

 結婚なんて、一世一代のことだ。幸せになりたかったはずなのに、どれだけ悔しかったろう。どれだけ悲しかっただろう。お父さんが犯罪者でなければ……。明日実はその時の今日香の気持ちに想いを馳せた。

「傍から見たら『その程度のことで……』なのかな」

 今日香が、やるせなさと一緒に『フッ』と息を吐き出した。

「周りなんか知らないよ。同じ立場になったこともないのに『うるせぇよ』だよ」

「でも、いるじゃん。『自分の方がもっと辛い思いをしているけど、そんなことしない』みたいなこと言ってくるヤツ」

「何その、ウチラより下だっていうマウント。『一番下の人が辛いのであって、二番目に下の人は大丈夫』なわけないし。『一番下の自分が我慢してるんだから、二番目に下のお前が甘えるな』とか言われてもねぇ、周りから見たら『下々の人間が底辺で何か言ってるぞ』でしかないでしょ。一番下も二番目に下も、同じ下の下だっつーの」

 架空の誰かと戦い出した明日実の肩に、

「結婚、したかったなぁ……」

 今日香が自分の頭を乗せた。

「……うん」

 明日実が今日香の肩を掴んで抱き寄せ、今日香の頭に自分の頬を付けた。姉を祝福したかった。明日実の頬を涙が伝う。ただただ、ただただ、辛かった。


 今日香が小山田家に戻って数日が経った。小山田家の女三人は、相変わらず家から出てこない。生活は、明日実のバイト代と無職の今日香の事務員時代の貯金を切り崩して成り立たせていた。本当は生活費など入れたくない今日香だったが、少ないながらに家庭に給料を入れてくれていた恭介を殺したのは自分である為、『今まで通り入れません』は通用しない。明寿香の分の生活費は拒否したいところだったが、それでは明日実に負担がかかってしまうので、明日実と折半することにした。

 家を出て、一人暮らしをすることも考えたが、家賃と明寿香の生活費を天秤にかけた時、後者を選択する方が、金銭的負担が軽いと計算したドケチな今日香は、それでも明寿香にお金を渡さず、『明日実が管理して』と明日実に送金していた。散々お金に苦労させられてきた今日香は、何が何でも意地でも、自分のお金を明寿香に渡したくない。

「お姉ちゃーん、ポテチ食べない?」

 バイトに疲れた明日実が、休憩がてらポテチ持参で今日香の部屋を訪ねて来た。家から出ない明日実にとって、話し相手は最早今日香しかいない。逆も然り。

「食うー」

 読んでいた本にペンを挟めると、今日香が明日実を招き入れた。

「やってるねー、勉強。すぐに飽きると思ったのに」

 明日実が、今日香の読んでいた本に目をやる。今日香の読んでいた本は、明日実が拘置所に差し入れた英語の教材だった。

「暇だからね」

 今日香の返事は、拘置所にいた時と同じだった。暇だと英語の勉強がしたくなる今日香を「変わってるな」と思いつつも、明日実は「これで英語が喋れるようになったら凄い」と応援していた。

「一日中勉強してるの? 疲れない?」

 明日実がポテチの袋を開け、今日香に差し出した。

「一日中は無理。疲れるじゃん」

 ポテチの袋に手を突っ込んだ今日香が、一気に三枚抜き取り豪快に齧り付く。

「じゃあ、他に何してるの?」

「小説書いてる」

「……あ、あぁ。アレ、冗談じゃなかったんだ」

 今日香は本好きでも読書家でもない。明日実は今日香が家で本を読んでる姿を見たことがない。だから、今日香がカラオケで話していた夢も、てっきり冗談だと思っていた。

「冗談なわけないでしょ。仕事だもん」

「……ん? 仕事?」

「私の公判を傍聴してた出版社の人に『手記を書いてみませんか』って声掛けられてさ、有り難くお受けしたよね、無職だし。世間の皆さんが私の事件を忘れる前に書き上げて発売しないと。関心があるうちじゃないと売れないもんね」

 早くみんなの記憶から姉の事件が忘れ去られることを願っていた明日実と違い、今日香は「忘れてくれるなよ」とばかりに本にするという。

「関心を持たれている間は白い目で見られるんだよ?」

「本が売れればどうでもいいよ。お金にさえなればいい」

 お金さえもらえれば、どんな辛辣な言葉を浴びようとも痛くも痒くもない今日香は、お金に困っていない人にはない、心の強さを持っている。

「頑張ってー、小山田今日香先生」

「はいよー。明日実もバイト頑張れー」

 ポテチを食べ終えた明日実と今日香は、お互いにエールを送ると、各々の部屋でまた作業に戻った。


 家から一歩も外に出ない小山田家の三人の食事時間はバラバラだった。

 それぞれ、食べたい時間に食べる。仕事、勉強の手が空いた時に台所へ行く。食事は明寿香が作る。どんなに娘二人が憎くとも、今日香と明日実から生活費を貰っている以上、作るしかない。何もしなかったら、何を言われるか分からない。(特に今日香から)

 今日香と明日実はよく、二人でお喋りをしながらご飯を食べるが、そこに明寿香は入らない。明寿香はかれこれ一か月以上、娘と会話をしていない。そんな日々を送っていたある日、明寿香が居間でバラエティ番組を眺めていると、隣の台所に風呂から上がった今日香が水を飲みに来た。

 ペットボトルの水をコップに注ぎ、ゴクゴクと喉を鳴らせて飲んでいる今日香が立っているそこは、恭介が血だらけで倒れていた場所だった。

「……あんた、よくそこで水が飲めるわね」

 一ヶ月ぶりに明寿香が話した言葉が、これだ。明寿香は今日香の神経を疑った。今日香の行動が信じられなかったのだ。

「あのさぁ、何で働かないの? 明日実と私が突然『この家出て行きまーす。あとは自分でどうにかしてくださーい』って居なくなったらどうするつもり?」

「娘の金で生きてるくせに嫌味を言うなって言いたいの? 誰のせいでこうなったと思ってるのよ‼ 全部あんたのせいじゃない‼ あんたのせいで働けない‼  あんたのせいで外にも出掛けられない‼ あんたが殺したから、お父さんから給料を入れて貰えない‼」

 明寿香が怒りの拳をテーブルにぶつけた。

「周りの目が気になって外に出られないなら、明日実や私みたいに家の中で働けばいいでしょうが。一日中テレビ見てゴロゴロゴロゴロ……。何やってんの」

「私がパソコン出来ないの知ってるくせに、何なのよあんた」

「だからさぁ、なんで勉強しようとしないの? あんたは、昔からそうだよ。『私は学がないから』『手に職もないから』って、時給の安いパートをずっとやってたもんね。何らかの資格を取ったり技術を取得したりして、少しでも給料の良い仕事に就こうっていう努力を一切しなかったもんね。家族がいないならそれでいいよ。貧乏なのは自業自得。でも、子どもを産んでおいて、『貧乏なのは仕方ない』は有り得ない。子どもをお前の怠慢の巻き添えにするなよって話だから」

 コップの中の水を飲み干し、言いたいことももうない今日香は、濡れた髪をタオルで拭きながら自分の部屋へ戻って行った。

 居間では明寿香がテーブルの上の拳をわなわなと震わせていた。どうしてこんなことになったのか。どうしてこんな目に遭っているのか。どうして……なんて、明寿香にも分かっている。

「あと十歳若かったら……」

 明寿香が髪の毛を掻き毟りながら、脳裏に後悔を駆け巡らせた。

 明寿香が恭介と出会ったのは、三十四の頃だった。恭介が罪を犯したのは、明寿香が三十五歳の時。明寿香は結婚に焦っていた。厳密にいうと、結婚より出産に焦っていた。妊娠・出産のタイムリミットが迫っていたからだ。人を殺したからと言って、恭介と別れて他の誰かと出会い、また一から恋愛するの? 間に合う? イヤ、間に合わない。そもそも、恭介を苛めた園山が悪い。殺されて当然。だったら、恭介と結婚して何が悪い。これが当時の明寿香の心境だった。

 もし、あの時明寿香が二十五歳だったなら、どんなに恭介を愛していたとしても、別れを選んだだろう。『この世に男はひとりじゃない』などと言いながら。女は十年経つと、『この人の次などいない』に変わってしまう。

 明寿香は若かりし頃から、『子どもを産むなら女の子』と口にしていた。明寿香の願い通り、産まれたのは娘二人。大人になった娘と三人で、仲良くお買い物に行ったり、旅行に行ったりするのが明寿香の楽しみだった。今日香と明日実が大人になった今、何一つ叶っていないし、これから叶う気配も絶望的にない。仲良く何かをするどころではなく、娘たちから激しく恨まれている。

「……夢って、無理矢理叶えるもんじゃないんだな。なんで誰も教えてくれなかったのよ。国語の教科書にでも書いておけっつーの」

 どうしも女の子を産みたかった。だから明寿香は、恭介の犯罪も収入にも目を瞑ってしまった。強行突破した結果、愛する夫は娘に殺され、娘からも嫌われた。

 でもじゃあ、あの時夢の実現を諦めて、結婚も出産もせずにひとりぼっちだったとしたら、それはそれで嘆いていたのではないだろうか。明寿香は【結婚したくない側】の人間ではない。【結婚を夢見る側】で生きていた人間だったから。

「……結局、どっちに転んでも地獄行きだったんじゃない」

 明寿香は立ち上がり、水を飲もうと台所へ行き、先ほどまで今日香がいた位置に立った。

「……別に普通にこの場所でも水飲めるわね」

 明寿香はペットボトルに僅かに残っていた水を、コップに汲むことなく、そのまま口を付けて飲みきった。


 ここ最近の今日香の毎日は、手記を書くことと英語の勉強だけで過ぎて行った。小休憩と言いながら、スマホでうっかり一時間くらい動画を見続けてしまうこともあったが、「ダメだ、書かなきゃ‼」と自分を奮い立たせ、一ヶ月くらいで手記を書き上げ、何度かの改稿を経て、予定より三か月も早く本を発売することになった。

 そして遂に、出版社から小山田家に今日香の手記の献本が届いた。

「おぉー。小山田今日香先生、遂に作家デビューかぁ」

段ボールに入っている献本の表紙を見ながら、明日実が目を輝かせた。

「一冊あげるよ」

 今日香が明日実に献本を渡そうとすると、

「いい。いらない」

 明日実は今日香に掌を向け、受け取りを拒否した。

「チッ。読んでくれてもいいじゃん」

 今日香が「苦労して書いたのに」と舌打ちをする。読書好きでもない今日香にとって、長文を書くことは結構な苦行だった。恐らくこの手記が、今日香のデビュー作で遺作になるだろう。

「イヤ、もうネット注文してある。売り上げに貢献しますがな。発売してから読ませてもらいます」

 明日実はポケットからスマホを取り出すと、注文済みの買い物リストを画面に表示し、証拠とばかりに今日香に見せた。

「ありがとう、妹よ。星五のレビューもよろしく」

「もちろんですとも」

 読んでもいない本の五つ星レビュー密約を交わした小山田姉妹。

「……店頭でこの本が並んでるところ、見たいねぇ」

「……確かに」

「……行くか」

「……行こう」

 ここ三ケ月、全く外出していなかった二人だったが、書店に行くべく、今日香の本の発売日に外出をすることにした。


 そして迎えた今日香の処女作発売日。

「お姉ちゃん、マスクしな」

 明日実が今日香に大きめのマスクを手渡した。明日実は知っている。マスクをすることにより、他人の視線が気にならなくなることを。

「おう、ありがとう」

 明日実から素直にマスクを頂戴した今日香は、更にバケットハットを目深にかぶり、顔のほとんどを隠した。明日実も明日実で、マスクの上に眼鏡を装着。二人とも、少々不審な出で立ちではあるが、仕方がない。もう、小山田家の周りにマスコミはいなくなったが、一歩も外に出ていないはずなのに、近所の住民から『殺人犯の家』と陰口を叩かれているのは、小山田姉妹の耳に入ってきていた。近所の目が何より怖い。というか、面倒臭い。どうせ彼らは、今日香を目の当たりにしたら何も言えない。殺人犯にちょっかいを出そうとするのは、再生回数を稼ぎたいネット配信者くらいだ。本人に面と向かって何も言えないのに、いないところで話のネタにされるのが、今日香にとっても明日実にとっても、何か癪に障るというか、鬱陶しいのだ。

 明日実が玄関のドアに手を伸ばす。

「お姉ちゃん、気を付けて。久々の太陽光って超危険」

 太陽に目を眩まされた経験のある明日実が、今日香に注意を促すが、

「帽子かぶってるから平気」

 今日香は気にせずスタスタ歩き出した。今日香にとって、太陽光などどうでも良い。知りたいのは本の反響だ。書店の様子を、早く自分の目で確認したかった。

 人目を気にしつつ、駅まで歩き、電車に乗って二駅目で下車。駅の中に入っている大型書店を目指して歩く。書店に辿り着き、一目散で新刊コーナーに行くと、

「……おぉ、あった」

 今日香の本が平積みされていた。目を細めて喜ぶ今日香の隣で、明日実も感激していると、

「あ、この事件覚えてる‼」「うわー。興味あるー」「読んでみようかな」と何人かのお客さんが今日香の本を手に取り、レジへ持って行った。今日香は確信した。

「……この本、売れる」


 今日香の読み通り、今日香の手記は重版を重ね、映画化も決定した。明日実も約束通り、五つ星のレビューを書いた。が、

「話が盛られている。というか、嘘がある」

 明日実は今日香の手記に納得がいっていなかった。両親が極悪非道に書かれており、それにより今日香は心を病んでいた設定になっていたり、読者が今日香に同情するようにお涙頂戴仕様になっていたり、明日実が読んだ限りでは、八十パーセントはフィクションだった。

「この手記はあくまでも私の主観だからね。明日実の目からは違って見えたかもしれないけど、私の中では本通り」

 と、今日香は言い放つが、今日香の中でも本通りなはずがないことを明日実は当然分かっている。

「……あぁ、ハイハイ」

 だから明日実の反応も、いつかの五十嵐のような受け答えになる。どうせ『イヤ、違うだろ』などと突っ込んだところで、今日香は『本通り』を押し通す。今日香はそういう女だ。

「良かったね、フィクション作家にもノンフィクション作家にもなれて」

 しかし、やっぱり本と事実の乖離が承服できない明日実が、遠回しに『嘘吐きめ』と今日香を指摘。

「今回は、ノンフィクション作家にしかなれなかったわー、残念」

 今日香に遠回しの嫌味など、全く効かなかった。

「もっと売れろ‼ もっと売れろー‼」などと言いながら、両手を広げて高笑いをする今日香の傍で、今日香のスマホの画面が光った。

「……ん?」

 スマホの画面を見た今日香の動きが止まった。

「どうしたの?」

 明日実が今日香のスマホを盗み見る。

 そこには、【本、読みました。大変だったんだね。どうか、幸せに】とういう翔真からのメッセージが表示されていた。

「……ふぅ」

 今日香が溜息のような息を吐いて、スマホをジーンズのお尻のポケットにしまった。

「返信しないの?」

「しないよ。してどうするの」

「どうするって……」

 折角翔真から連絡をくれたのに、返信をしないなんて……と、今日香に返信をさせたい明日実だったが、『してどうする』と聞かれると、返事に困ってしまった。

 翔真は姉の本を買ってくれた。読んでくれた。感想もくれた。きっと翔真にもまだ、姉への未練は残っている。でも、無罪になったと言えども、姉は父親を殺している。姉も翔真もきっと、両親のように後先を考えずに結婚することはない。よりを戻すこともない。だから、返信など必要ない。やり場のない思いを噛みしめた明日実の奥歯が『ギリッ』と音を鳴らせた。

「『どうか、幸せに』だってさ。いいなぁ、他人の幸せを願える余裕があって」

「お姉ちゃんは願えないの? 翔真さんの幸せを」

「うーん。翔真はずっと普通に幸せだった人だから、これからも変わらずいつまでも普通に幸せに暮らして行ってほしいかな」

「お姉ちゃんだって、他人の幸せを願う余裕あるじゃん」

「翔真の幸せは願ってない。これからも、これまで通りの平穏無事を祈ってるだけ」

「素直じゃないな」

 今日香の捻くれた翔真への幸せ祈願に、今日香の未練が垣間見れ、『お姉ちゃんを普通の幸せの中に組み込んであげたかった』と、明日実は無念に打ち拉がれた。


 本が売れたからと言って、印税はすぐには入ってこない。お金にガメつい今日香は、その間をダラダラとは過ごさなかった。明日実に紹介してもらい、在宅バイトを始めたのだ。

「結構な額のお金が入ってくる予定なのに、何をそんなに頑張って働いているのだろう?」と今日香を不思議な目で見ていた明日実だったが、「お金はあればあるだけ良いし、気軽にどこかへ出掛けられるわけでもないし、働くしかないか」と、さほど気には留めていなかった。が、数か月後、

「お姉ちゃん、金額間違ってるよ‼」

 今日香からの生活費の入金を確認しようと、ネットで残高を確認した明日実が、大慌てで、ノックも忘れて今日香の部屋に入ってきた。【雪崩れ込んできた】の方が合っているかもしれないくらの慌てぶりだ。

「あぁ、遂にお待ちかねの印税が入ったからさ。金額、間違えてないよ。それで奨学金返しな」

 明日実とは正反対に、今日香は至って冷静だった。だって今日香は何も間違っていないから。

「イヤイヤイヤイヤ、何でよ。多すぎるし‼ こんなに借りてない‼」

 明日実がスマホの画面に表示された入金額のゼロの数を何度も指で追った。明日実が見たこともない額のお金が入金されていたのだ。

「だって、私のせいで折角大学出ても、良いところには就職出来ないじゃない。気にせず受け取りな」

「それにしたって……。お姉ちゃんが稼いだお金を全額貰うなんて……」

「はぁ? 全額のわけないじゃない」

「え⁉ 違うの⁉」

 入金されたお金があまりにも大金だったことにより、印税の全てを貰ってしまったと思い込んでいた明日実だったが、どうやら違ったらしく、そのことにも更に驚く。姉は、一体いくら稼いだのだろう。

「……ということで、印税とバイトでお金もたくさん手に入ったし、私は来月語学留学しまーす」

 今日香のビックリ発言はまだ続いた。

「えぇ⁉」

「やっぱり明日実から貰った教材だけじゃ、どうにもならなかったのよね」

 今日香が、明日実がくれた教材のパラパラ捲りながら「これでは喋れるようになどならんわ」とため息を吐いた。

「イヤ、何で留学⁉」

「だって、日本で楽しく暮らすなんてこと、私には無理じゃん。人々の記憶が薄れていったとしても、ふとしたきっかけで、いつ誰があの事件を検索して穿り返すか分からない。そんな環境でビクビクしながら生きるのはしんどい。留学して、英語を習得して、そのまま海外に移住する」

「……だからか、英語の勉強しだしたのは。暇だからじゃないじゃん」

 明日実はこの時やっと腑に落ちた。何で拘置所への差し入れが英語の教材なんだ? 何で急に英語に興味を持ったんだ? と、ずっと引っ掛かっていたのだ。

「私、【置かれた場所で咲きなさい】って言葉、死ぬほど嫌いなのよね。荒れ野原みたいな所に投げ捨てておいて、『四の五の言わずにそこで咲け』って、乱暴すぎない? 『咲けないのはお前の努力不足』みないな言い方も気に喰わないし。こんなところで咲く努力なんかしたくもないわ。『はぁ⁉ ふざけたことぬかしてんじゃねぇよ』って、ずっと思ってた。やっと、置かれた場所を捨てられる財力が手に入った。望みもしない場所でなんか咲くもんか」

 今日香が睨むように、狭くて古い自分の部屋を見回した。今日香が、咲けなかった家。発芽すらしようとしなかった場所。

「ちゃんと努力出来てたじゃん。いっぱい稼いで、英語の勉強もしたじゃん」

「それは咲く努力じゃないから。ここから去る努力だから。私が置かれた場所でやったのは、父親殺しだよ」

 今日香は、置かれた場所で根を腐らせた。【置かれた場所で咲かない】という意地なのかポリシーなのか分からない強い信念を持っていた今日香は、種を撒かれた時点で腐るしかなかった。

「……私も一緒に行く。私も留学する。私も一緒に連れて行って‼」

 行ったこともない異国の地で、日本の花を咲かせようとする今日香の姿が、明日実には途轍もなく格好良く見えた。

「……明日実さぁ、私のことが怖くないの? 人殺しだよ? お父さん、刺してるんだよ?」

「私も、お姉ちゃんと同じなんだよ。『家族なんだから、仲良くしたい』って気持ちがあったから良い子のフリをしてたけど、ずっとお父さんとお母さんを怨んでた。周囲の友だちの家庭環境より、明らかに生活水準の低いこの家が憎かった。だから、お姉ちゃんを否定する気がない。怖くもない。お姉ちゃんのしたことを『間違ってない』とは流石に言えないけど、他人から『間違ってる』とも言われたくない」

「知ってたよ、明日実が良い子を演じてたことなんて」

 今日香が明日実に顔を近付け「フッ」と息を掛けながら笑った。

「……じゃあ、明日実も一緒に行こう」

「パスポート取らなきゃ‼」

 今日香はボーナスで海外旅行をしたことがあったが、明日実は一度も海外へ行ったことがなかった為、パスポートを持っていなかった。「写真撮りに行かなきゃ」と両手で髪の毛を整えだした明日実に、

「でもさぁ、明日実がこの家出ちゃったら、あいつ生きていけるの?」

 今日香が愛用のヘアブラシを手渡した。今日香は頑なに、母親を『お母さん』とは呼ばない。

「大丈夫でしょ。ちゃんと働いてるし」

 ヘアブラシで髪を撫でながら、明日実がシレっと今日香の知らない話をした。

「え? ずっと家にいるじゃん」

 今日香の言う通り、明寿香も相変わらず、ずっと家から出ていない。

「ウチラと同じ在宅バイトを、お母さんもやってるんだよ」

「あいつ、パソコン使えないじゃん」

「『私も明日実たちと同じバイトがしたいから教えて』って頼まれてさ、時々教えてたんだよ。もう、基本的なことは出来るようになってるよ。まぁ、タイピングはめっちゃ遅いけど」

 明日実が明寿香のタイピングの真似をしながら「お母さん、人差し指しか使わないんだよね」と笑った。

明寿香は、明日実を厄介に思いながらも、今日香に教えを乞うぐらいなら……と明日実を頼った。

「……へぇ」

 今日香は、働き出した母親をほんの少しだけ見直した。いつものように『どうせ私には出来ない』と諦めて開き直らずにパソコンと向き合った明寿香。今日香に強く言われたからなのか、娘たちが本当に出て行ったら生きていけないと慌てて勉強したのかは今日香には分からなかったが、明寿香が自分の力で生きる術を見つけて、今日香は安心した。そう、安心したのだ。今日香自身も気気付いていないし、気付いたところで認めはしないだろうが、今日香は心の端っこの隅の隅では、明寿香を心配しているのだ。

「パソコンを教えてる時さぁ、お母さんに『お姉ちゃん、英語の勉強してるんだよ』って教えたのね。そしたらお母さん、『あの子はどこの国に行くつもりなのかしらね』って言ってた。お母さんには分かってたんだね。お姉ちゃんが日本を飛び出そうとしてること。『私も行きたいなぁ』って」

「えぇー。あいつも一緒にくっついて来る気なの? 留学先で確実に最年長の生徒じゃん」

「お母さんが一緒に来ることは拒否しないんだ」

 今日香の意外な返事に明日実は驚き、少し嬉しかった。今日香はもっと嫌がる素振りを見せるだろうと思っていたからだ。

「自分で稼いだお金で何をしようが、私の口出すことではないし」

「まぁ、お母さんの『行きたい』は留学じゃなくて旅行みたいだけどね」

 以前の今日香だったら、全力で嫌がっていたはずなのに、母を受け入れはせずとも拒絶もしない今日香の心境の変化に、明日実は少し戸惑ったが、嬉しかった。多分、お金を得たからだ。【お金で人の心は買えない】などと良く言うが、お金は心にゆとりを齎す。お金で骨肉の争いをする人々もいるが、心のしこりを小さくする人もいる。お金は、良くも悪くも人を変える。

「お母さん、娘と仲良く旅行するのが夢だったらしいよ。もし、お母さんが遊びに来たら、案内してあげる?」

「渡航費も宿泊費も全部自分で出すならね」

 今日香の言葉は冷たいようだが、昔よりもだいぶ柔軟になっている。

「楽しみだね、留学」

 明日実が今日香に笑いかけた。

「うん。留学っていうか、移住だけど。私は二度と日本に戻らない」

「私も、ここを捨てる」

 小山田姉妹は、日本ではないどこかで、咲く。

 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ