父の隠しごと
小山田家は、小さな町工場の平社員の父、恭介(五十九歳)と、清掃パートの母、明寿香(六十五歳)、そして地方銀行の事務員の長女、今日香(二十六歳)、大学三年生の次女、明日実(二十一歳)の四人家族だ。
家族仲は……まぁ、良くはない。特に、今日香が両親を恨み、憎み、馬鹿にしている。
高卒で就職をした今日香は、本来進学希望だった。しかし、役職も何もない薄給の父と母のパート代では、進学どころか日々の生活も、極貧までには至らなくとも、中流家庭とは言い難い暮らしだった。
では何故次女は進学出来たのか。皆さんご存知の奨学金を使ったからだ。奨学金=借金と考え、大学進学を諦めた姉とは違い、大卒の方が高給なのだからと、リスクを背負っても大学に行くと決めた妹。今の所どちらの判断が正しかったかは分かっていない。
そんな四人が、今日もいつもと同じように夕食を囲む。が、特に会話はなし。八年経っても両親への怒りが収まっていない今日香が口を利こうともせず、空気を悪くしているからだ。ならば、家を出て一人暮らしをすればいいではないか。と、思うだろう。しかし今日香は、実家から通える距離に職場があるのに、アパートを借りるのは家賃の無駄だと考えているのだ。貧乏な家で育ってしまった為に、今日香はお金にシビア。良く言えばしっかり者。悪く言うとケチだ。
テレビの音と咀嚼音のみが響く食卓。テレビの中のキャスターが「今日で園山和弥さん、当時二十九歳が殺害されて三十年が経ちました。未だ犯人は捕まっていません」と原稿を読み上げた。
「三十年ものうのうと暮らしているかと思うとゾッとする。被害者やその家族に申し訳ないとか思わないのかな」
明日実が眉間に不快感の山脈を作った。
「三十年も経ってると、もう自分が殺したことさえ忘れてるんじゃないの、その犯人。三十年捕まらなかったんだから、今後捕まる可能性は低いだろうね。逃げ切ったなー」
自分が生まれる前の、縁もゆかりもない他人に全く興味のない今日香は、明日実とはよく喋る。
「あぁー‼ 気分悪い‼ てか、被害者の人、当時二十九歳ってことはお父さんと同い年だよね。知り合いだったりしない?」
明日実が恭介に話を振った。食卓で会話が生まれた際、決まって明日実がMCをする。そうでなければ会話が回らないほど、両親と今日香の間には壁がある。いや、太平洋並みの距離がある。
「そんなわけないでしょ。世の中に五十九歳が何人いると思ってるのよ」
恭介へパスしたはずの話を、明寿香が横取りした。
「だよね。しかし有り得ないわ。三十年間逃げ回るなんて。人としておかしい‼ 今からでも謝罪して償えって話だよね‼」
完全に被害者とその遺族に感情移入してしまっている明日実は、全く関係ない立場にも関わらず鼻息を荒くしながら白米を喰らった。
「そんなのするわけないじゃん。『もう捕まらない』って確信して、三十年の間に結婚して子ども作って幸せに暮らしてるんじゃないの」
プンプンの明日実の隣で今日香が笑った。
「普通、そんなこと出来る⁉ どんな神経⁉ 人殺してるんだよ⁉」
「人を殺す神経の持ち主だよ。出来る出来る。平気でやるよ」
貧富の格差という不公平を目の当たりにしている今日香は、世の中の不条理などあって当然とばかりに、平然と味噌汁を啜った。
「何それ。人間のクズだな」
明日実が沢庵に全ての怒りをぶつけるかのように、奥歯で強く噛み砕く。
白米・味噌汁・沢庵。一見、朝食のようなラインナップ。これが夕食であることが、小山田家の生活水準を表している。
明日実が怒り続けるからか、明寿香は無言でリモコンを手に取ると、一瞬恭介に目をやり、恭介が無反応であることを『変えても良い』という合図と判断したのか、報道番組からバラエティへとチャンネルを変えた。
試験的な番組なのか、まだ実力のない若手の芸人ばかりが出演していたその番組はさほど面白くなく、今日香と明日実はさっさと簡素な夕食を済ませて各々の部屋に向かった。
「さてと」
質素なメニューの夕食とはいえ、腹は満たされた明日実が、ノートパソコンを開いて大学の課題のレポートを片付けようと気合を入れた時、
「明日実―。ちょっといい?」
明日実の返事を待たずに、今日香がお菓子を片手にドアを開けて入ってきた。ちっとも良いタイミングではないが、もう部屋に入って来られてしまっている、断ったところで出て行かないだろう今日香を、
「何―?」
明日実はすんなり受け入れた。本当は今日香の話など聞かずにレポートを仕上げたい。が、今日香の貢物のお菓子は、明日実の大好物であるチョコチップクッキーだった。食欲に勉強欲が勝てるわけがない。
「明日実にお願いがあるんだよね」
今日香が明日実にチョコチップクッキーを二箱手渡した。一箱ではなく二箱。絶対に断ってくれるなよ。という今日香の圧力だ。
「どんな?」
さっそく一箱開け、一枚口に咥えて今日香の圧力を美味しさで紛らわそうとする明日実。食後だが、クッキーは別腹。
「実は……翔真にプロポーズされたんだ‼」
今日香が両手を挙げ、明日実にハイタッチを求めた。
今日香には、付き合って二年になる一つ年上の彼氏がいた。そんな素振りは見せなかったが、そろそろかな、そろそろかなと、今日香がプロポーズ待ち態勢でいたことを、明日実はなんとなく気付いていた。
「遂に来たかー‼ やったね‼ おめでとう‼」
明日実は今日香の結婚を喜び、ハイタッチではなく今日香の両手を握りしめた。
クッキーの数は圧力ではなく、嬉しさからだったのね‼ と、歓喜と安堵で満腹だったはずのお腹が急に活発に動きだし、空洞を作ってしまったせいで、なんだかお腹が空いてきた明日実は、二枚目のクッキーに手を伸ばした。
「いやぁ、良かった良かった。めでたいねぇ」
明日実が次々とクッキーを頬に蓄える。やっと姉も幸せになる時がきたか。と、明日実がクッキーだらけの頬を緩めた。
「で、お願いなんだけど」
「あぁ、そっかそっか。何?」
【お願い】を切り出した今日香に、「そうだった。お姉ちゃんは報告ではなく【お願い】をしに来たんだった」と、明日実は姉の本来の目的を思い出した。
「翔真が今度、ウチの親に挨拶しに来たいって言っててさ……」
「そりゃ、そういう流れになるだろうねぇ、普通」
「明日実があの二人にこの話をして、あの二人の予定聞いてきてくれない?」
今日香は普段、父親のことも母親のことも『あの人』と呼んでいる。今日香が『お父さん』『お母さん』と呼んでいる姿を最後に見た日がいつだったか、明日実も当の本人である今日香も思い出せないくらいに、今日香は両親を避けている。
「いや、それは自分でしようよ。結婚報告だよ⁉」
「あんた、クッキー食ったよね⁉」
どんなに喜ばしい報告だったとしても、今日香は両親と話をしたくないらしい。「クッキーは、やっぱり圧力だったか」明日実が切ない表情を浮かべながら、クッキーを齧った。
「じゃあ、私も一緒に行ってあげる。私も一緒なら自分で話せるでしょ。やっぱ、こればっかりは自分の口からするべきだって」
姉の結婚報告を妹がするという行為にどうしても違和感のある明日実が、「よし、行こう」と今日香の腕を掴んだ。
まぁ、明日実がいてくれるならいいか。と、今日香はしぶしぶ明日実と部屋を出た。姉妹で両親がまだいるであろう居間へ向かう。
明日実が居間の引き戸に手を掛けたとき、
「……自首しようと思う」
扉の奥から恭介の声が聞こえた。今日香が咄嗟に明日実の手を引き戸から離す。
「何言ってるのよ。冗談でしょ」
明寿香の声は、半笑いではあるがどこか引き攣っている。
「親を親とも思っていない今日香のことはどうでもいい。でも、さっき聞いただろ、明日実の言葉。謝罪も償いもしない人間はクズだって。明日実にとってのクズにはなりたくないと思ったんだ」
恭介の話に、今日香と明日実が顔を見合わせた。自分の父親は一体何を仕出かしたのだろう。因みに、自分の存在をどうでもいいと言われたことに対して、今日香はノーダメージだ。今日香にとっても両親など、疾うの昔からどうでもいい。
「あなたが自首したら私は、家族はどうなるの⁉ なんであなたが謝罪しなきゃいけないの⁉ 中学時代、ずっと苛められてきたんでしょう⁉あなただって、園山から謝罪なんかされてないでしょう⁉ 死ぬほど他人を傷つけて、謝りもしないんだから殺されても文句言えないでしょ。安易に苛めなんかした園山の自業自得よ。やったことはやり返されて当然。自分を強者と勘違いしてその想定を頭の中からスッポリ抜かしているど阿呆がするのよ、苛めなんて」
明寿香の口から飛び出した聞き覚えのある苗字に、明日実の身体が硬直した。自分の父親が、まさか……。
「今の話、どういうこと⁉」
しかし、今日香の身体は俊敏だった。引き戸というものは、こんなに早くスライドするものなのか。と、明日実のかろうじて残っていた冷静な部分が、そんな場合ではない感想を抱いてしまうほど、今日香が目にも留まらぬ速さでドアを開けた。
「あんた、いつから知ってたの? こいつが殺人犯だって‼」
今日香が母親を「あんた」、父親を「こいつ」と指差しながら問い質す。
どうしてお姉ちゃんは、お父さんが殺人犯であることをあっさり飲み込めるのだろう。私はまだ……というか、今後も受け入れ難いのに。と、平凡な日常では起こりえない現状に、明日実は声を失った。
「お母さんは、初めから知ってた」
恭介の返答に今日香は激昂。
「頭おかしいんじゃないの⁉ 知ってて犯罪者と結婚するとか‼」
今日香がながら明寿香を詰る。
「私がお父さんと結婚しなかったら、あなたたちは生まれてなかったのよ⁉ それなのに感謝もないの⁉」
何故こんな家に生まれなければいけなかったのだろう。前世で大量虐殺でもしてしまったのだろうか。と幼き頃から頭を抱えていた今日香に、明寿香が無理筋でしかない感謝の要求をした。
「感謝⁉ はぁ⁉ 犯罪者の家庭に産まれたい人間がどこにいるんだよ⁉ 感謝なんかするわけないだろ‼ 【育ててくれた恩】【親への敬意】【親孝行】を要求するなら、それなりの生活をさせろよ。産んだら無条件に貰えると思うなよ、馬鹿が。あぁ、そうか。あんた、晩婚だったよね。貰い手が犯罪者しか残ってなかったわけか。人殺しの方も、犯罪者な上に稼ぎも悪いんじゃ、そりゃあ年上のババアを相手にするしかないわな。それにしたって、よくもまぁ犯罪者に両股広げられたもんだよね。正気の沙汰じゃないわ」
当然今日香は口汚く言い返し、両親諸共辱める。
「お前はいつもそう。昔からそうだ。金のことばっかり。世の中にはお金で買えないものがあるってことに、その歳になってもまだ気付かないのか」
明寿香を庇うように、恭介が口を開いた。
「出た出た。『愛はお金では買えない』とかその類の台詞は、お金を稼げる人だけが使っていいものなのよ。貧乏人が言ったら、己の稼得能力のなさの言い訳にしか聞こえないのよ。大体、家族愛があるんだったら、その愛とやらで家族に貧しい思いをさせないように稼いで来いよ」
尊敬など一度もしたことのない両親の過去を知り、軽蔑の念に囚われた今日香の口からは、長年に渡って溜まりに溜まり続けた鬱憤が、決壊したダムのように噴出した。
「そんなことはどうでもいい‼ 私たち、これからどうなっちゃうの?」
堪らず明日実が声を荒げた。今、親の不甲斐なさを責めている場合ではない。
「どうもならない。今更捕まることなんて絶対にない。今まで通りよ」
今日香が明日実の肩にポンと手を置いた。
「だって、自首するって……」
明日実が恭介の方へ目をやると、
「父親がクズなんて嫌だろ。明日実にだけは、そう思われたくないんだよ」
恭介はやるせなげに床に視線を落とした。
「明日実にだけはって……。人を殺してる時点で、地球上の全人類にとってのクズだって分からない?」
今日香が嫌味たっぷりに溜息を吐いた。そんな今日香を、恭介と明寿香が奥歯を噛み締めながら睨んだ。
「……ちょっと分からないんだけど、お父さんが園山さんに苛められてたのって、中学時代って言ってたよね? でも、園山さんが死んだのは二十九歳のとき。卒業して十年以上も経ってから、なんで殺したの? 卒業後も何か嫌がらせされてたの?」
しかし、明日実は構わず自分の疑問をぶつける。
「苛める方はすぐ忘れるけど、やられた方は一生忘れないって、よく言うでしょ。お父さん、ずっと赦せなかったんだって。園山とは卒業後、一度も会ってないし連絡も取ってない。お父さんが園山を刺したのは人気のない、防犯カメラもない場所。目撃者もなし。中学時代、園山から苛めを受けていたからその恨みがあるだろうと、警察からお父さんも事情聴取されたんだけど、卒業後一切関わりを絶っていたこと、卒業後十四年経っていたこと、苛めをするような奴だから、怨恨を抱いている人間が他にもいたことで、お父さんは捜査線上から外れたの」
恭介から全てを聞いているだろう明寿香が代弁する。そんな明寿香の姿が何故か得意気に見えて、今日香の不快感が増した。
「執念深っ。気持ち悪い。本当に気持ち悪い」
今日香が途轍もなく汚らしい何かを見るかのような目を恭介に向けるから、
「……もう、明日実にも知られちゃったしな。ずっと気に喰わなかったんだよ、今日香のその態度が。俺、ひとり殺ってるから、何の抵抗もないんだ。今日香のことも殺してやろうか?」
堪忍袋の緒が切れた恭介が、ニヤリと不気味な笑みを浮かべながら今日香に近づいた。
「私はお姉ちゃんのこと好きなんだけど」
明日実が今日香を守るように、恭介と今日香の間に自らの身を滑り込ませた。恭介は人を殺した過去がある。だから、明日実には恭介の言葉が冗談なのか本気なのか分からなかった。しかし、恭介が自分を溺愛している自覚があった明日実は、自分のお願いならば恭介は聞き入れると分かっていた。姉を殺されるのは嫌。それは本当。だが、明日実は、恭介に罪を重ねられるのが嫌だった。
明日実の肩越しに、今日香が恭介に向かって「ふふん」と嗤った。今日香の勝ち誇った笑顔より、明日実が今日香を庇ったことにショックを受けた恭介が、小さな溜息を吐いた。
「……こんな父親、嫌だよな。やっぱり、自首した方がいいよな?」
恭介が肩を落とした。
「……待って。そんなことをしたら、お姉ちゃんはどうなるの? お姉ちゃん、結婚するんだよ?」
本人がすべきと言っていた今日香の結婚報告を、明日実が口にした。
「……え?」
恭介の口角が少しだけピクリと上がった。自分の過去が相手方に知られれば、今日香の結婚などたちまちに破綻する。散々自分を蔑んできた今日香の嘆き悲しむ姿が恭介の脳裏を過ったのだろう。恭介が押えきれない笑みを零した。
「私の結婚は勿論のこと、明日実も一生結婚出来ないだろうね」
今日香はそれを見逃さず、明日実を引き合いに出し、「お前のせいで明日実も犠牲になる」と恭介に念を押した。恭介の顔が一瞬にして引き攣る。
「そういうところよ。物事の先を読めない短絡的な性格? 頭脳? だから、お金もしっかり稼げない。人も殺す。四方八方に迷惑をかけるのよ、あんたは‼」
怯んだ恭介にダメ押しするかのように、今日香が畳み掛けた。
「明日実も明日実よ。何が『お姉ちゃんはどうなるの?』よ。この期に及んで姉を慮る健気な妹のフリするんじゃないわよ。いい加減気付きなさいよ。こんな奴らに良い娘と思われたところで何の得にもならないのよ。本当は自分の結婚はおろか、殺人犯の娘と知れたら学校なんて通えない。後ろ指指されながらも通って卒業したとして、就職なんか出来る? 奨学金の返済はどうなる? って、頭の中を駆け巡らせてたくせに」
今日香の標的が急に明日実へと変わった。
「それは……」
図星を射られて明日実が言葉を詰まらせる。
「何が『自首しようと思う』よ。明日実の『反省すべき。償うべき』なんて言葉は、所詮他人事だと思ってたから出てきたものなのよ。自分の身に降りかかってきた途端に出てきた言葉なんて『待って』だったでしょう?」
言葉の出て来ない明日実を放って、今日香は再度恭介に言葉を放つ。
「明日実が考えてること、私が代弁してあげるよ」
今日香がチラリと明日実に目をやり、再び恭介に視線を戻した。
「自首なんて困る。だけど、殺人犯が父親だなんて気持ちが悪い。いっそのこと、死んでくれ」
「…………」
今日香が言い放った言葉に、明日実は「それはお姉ちゃんが思ってることでしょう」と打ち消せなかった。当然今日香もそう考えているだろう。それに明日実も「親にそんな思いを抱くなんて」と葛藤しながらも同意してしまったからだ。
「…………」
今日香に反論してくれない明日実を見た恭介に言葉はない。恭介は、明日実ならきっと「そんなことない‼」と否定してくれるはずだと思っていた。明日実に『死んでくれ』を暗に肯定された恭介の落胆は大きかった。
「どうしてそんな酷いことが言えるのよ‼」
言葉を失くした恭介を、明寿香が庇う。
「イヤイヤイヤ。最も酷いことをした人間がそこにいるだろうが」
今日香が顎で恭介を指した。恭介の所業は【酷い】どころの騒ぎではない。今日香に【最も】を用いられてしまうと、返す言葉などない。
「…………」
とうとう明寿香も黙ってしまい、無音の空間になってしまった居間。
「来週の日曜日、翔真を家に連れてくる。余計なことは言わないで。ただ座ってて。何もしなくていい。黙って置物になってて」
もう話すことは何もないと判断した今日香が、恭介と明寿香に向かってそう言い残し、ひとりで居間を出て行った。
パシンと扉の閉まる音が鳴り響く。
「…………」
三人残された居間で、言葉を発する者はいない。
明日実が何となく恭介の方に目をやると、その視線に気付いた恭介と目が合った。明日実の背中がゾクゾクと震えた。
恭介への認識が【父親】ではなく【殺人犯】に変わってしまった。恐怖の余り、自室に逃げようと走り出した明日実の足が縺れる。よろけながら自分の部屋に滑り込むと、父親が入って来られないようにと、壁際に設置していた本棚をドアの前にスライドさせた。殺人犯を同じ家に住んでいることが怖くて仕方ない。更に、その殺人犯の血が自分にも流れているかと思うと、発狂しそうになり、明日実は自分の身体を血が出るほど掻き回した。
父親を脳内から追い出そうと、大学の課題のレポートを書こうとしたが、全く集中できない。ベッドに飛び込み、布団に頭を埋めるも眠れるはずがなく、明日実は頭も心も大混乱に陥った。枕に顔を押し当て、叫ぶ声を吸収させながら泣き喚き、一睡もすることなく翌日を迎えた。
この日、一限から授業のある明日実は、腫れた目を擦りながら大学へ行く準備をした。安いジーパンとパーカーに着替え、百均で買ったブラシで髪を解かす。いつも通りの明日実の朝。
一秒も寝ていないくせに、「昨日のあの出来事は夢だったのではないか」と都合の良い解釈をし出した寝不足の明日実が、トボトボとした足取りで居間へ向かうと、出勤前の今日香が、恭介と明寿香とともに、白米をきゅうりの浅漬けをお供にしながらかっ喰らっていた。
現実逃避を図った明日実は、普通に飯が喉を通る状態だった為、台所に足を運び、炊飯器から自分の茶碗にご飯をよそうと、その上にごま塩を振りかけ、今日香の隣に移動した。
「いただきます」
モグモグとごま塩ご飯を咀嚼する明日実を、今日香がじっと見つめた。
「……何?」
明日実が今日香に視線を返す。
「イヤ、普通に飯食ってるなと思ってさ。明日実のことだから、食欲失くすかと思ったら、しっかりご飯に味付けまでして食べてるな、と」
「……やっぱり、夢じゃなかったんだ」
現実逃避を強制終了された明日実が、持っていた箸と茶碗をテーブルに置いた。
「イヤイヤイヤ、夢オチなわけないでしょ。夢で片付けようとしてたの? なかなかダイナミックでアクロバティックね、あんた」
今日香が右頬に蓄えていた白米を噴き出さぬように注意を払いながら「プッ」と笑った。
「お姉ちゃん、よく何事もなかったかのようにご飯食べて笑ってられるよね」
明日実は今日香の神経の図太さが不思議でならない。
「昨日言ったでしょう。『何も変わらない』って。この男に自首する勇気なんてないわよ。そんなもの無かったから、今まで黙って平然と娑婆の空気吸って生きてきたのよ。刑務所の苛めなんて中学校の比じゃないわよ。ご飯の上にフケとか精子とか巻き散らかされて『ホラ、食えよ』とかが日常茶飯事らしいじゃない。この男がそれに耐えられると思う? 中学の苛めで人殺すような男よ?」
今日香が恭介を挑発するようにチラチラ見ながら、明日実に応えた。
「うっ……」
今日香の言うご飯を想像し、明日実はさっき一口だけ食べたごま塩ご飯をリバースしそうになった。
明日実が胃を摩りながら苦しんでいる横で、今日香は奥歯できゅうりの浅漬けのポリポリという良い音を鳴らした。
よくもこの状況でモリモリと朝ご飯が食べられるものだ。と、明日実は今日香の食欲が信じられない。
因みに、今日香は家に食費を入れていない。というのも、今日香は幼き頃に両親に「貯金しておくね」と言われて預けていたお年玉を全て使われていたことを根に持っており、「今すぐ盗んだお年玉を一括で返せ。それも出来ない盗人が金をせびるな」と激怒した為に、実際のところ、食費どころか生活費も入れていない。今日香の言い分としては「散々お金で苦労をかけ、希望の進路を歩ませることもしなかったくせに、働きだした私のお金で生活を楽にしようなんて、ふざけたことをぬかすな」とのことだった。両親に強い恨みのある今日香は、無いに等しい両親の臑を、歩行不能になるまで齧り、骨の髄までしゃぶりつき、最終的には粉々にする気だ。
そんな今日香は結婚して家を出る予定。今日香がいなくなれば、生活もほんの少しだけ楽になる。このまま、何事もなく結婚……なんて本当に出来るのだろうか。明日実は、隠し事をしなければならない罪悪感で、最早朝食どころではない。




