第3章「夜の牙 ― それでも君を守りたい」
1.雨の夜、ざわめく街
夜の街を、冷たい雨が叩いていた。
ルナは傘も差さず、カフェ・ルミナリエの軒下で空を見上げる。
街灯の光が、雨粒を宝石のように照らしていた。
「……きれい。」
つぶやいた声は、雨音に溶けて消えた。
人間の世界の雨は、森の雨と違う。
湿った土の匂いの代わりに、アスファルトの冷たい匂い。
光が混じり、街全体が水面のように揺れている。
「おーい、ルナちゃん!」
彩音が店から顔を出した。
「蓮くん、まだ戻ってないけど……平気?」
「うん。ちょっと散歩してくる!」
ルナは笑顔でそう言って、傘も持たずに走り出した。
その背中を、アリアは静かに見つめていた。
「……この夜、血の匂いがするわ。」
2.街の影、走る獣
雨の中、ルナは繁華街の裏路地を歩いていた。
ネオンの色が、雨に滲んで幻想的な光の川になる。
その光の中に、見覚えのある人影を見つける。
――蓮。
傘もささず、誰かと話していた。
相手はスーツ姿の男。声が荒い。
「……俺はもう関わらない。約束だ。」
「三上、あんたが引いたら困るんだよ! “例の組織”はまだ――」
ルナは物陰に隠れた。
心臓がドクンと鳴る。
“組織”? 何の話……?
そのとき、別の声が響いた。
「おい、あの女、見たか?」
振り向くと、酔った男たちがこちらを見ていた。
「ひとりで歩いてるとか、危ねぇな……」
ルナの足がすくむ。
人間の“危険”という感覚が、まだよくわからない。
――ドンッ。
腕を掴まれた瞬間、全身の血が沸騰した。
瞳が熱くなる。耳鳴りが響く。
(だめ……出ちゃう!)
目の奥が赤く光る。
次の瞬間、ルナの身体は自分の意思とは違う動きをしていた。
――風が走る。
男たちの体が、まるで弾かれたように吹き飛んだ。
彼女の指先には、かすかに爪が伸びていた。
雨の中、銀の光が閃く。
「……なに、これ……?」
手が震える。
その瞬間、蓮が駆け寄ってきた。
「ルナ!」
ルナは怯えたように後ずさる。
「ち、違うの……わたし、やってない、わたしは……!」
「落ち着け。」
蓮がそっと彼女の肩を抱く。
「大丈夫だ。誰も見ちゃいない。」
雨音が、二人の沈黙を包んだ。
彼の手の温もりが、嵐の中で唯一の現実だった。
3.雨上がりの朝 ― 静かな告白
朝。
ルミナリエの店内。
カーテンの隙間から差し込む光が、昨夜の雨を反射してきらめいている。
ルナは毛布に包まれたまま、ソファの上で目を覚ました。
テーブルには、温かいスープとパン。
向かいの椅子には、蓮が座っていた。
「……夢じゃ、なかったんだね。」
「昨夜のことか?」
蓮の声は静かだった。
ルナは拳を握った。
「……見た、でしょ。わたしが、あんなふうに……!」
「見た。」
蓮は目を逸らさずに言った。
「けど、俺は驚かない。」
「え……?」
「俺も、普通の人間じゃないから。」
ルナの目が大きく見開かれた。
蓮は苦笑するように、テーブルに視線を落とす。
「昔、組織の実験に巻き込まれて……ある種の“再生能力”を持った。
でも、それ以来、感情が鈍くなった。
人を救っても、死んでも、心が動かない。」
静かな声。
けれどその奥に、痛みの跡があった。
「だから、お前を見てると……眩しい。」
ルナは何も言えなかった。
胸の奥で、何かが温かく広がっていく。
「蓮……」
「ルナ。お前が何者でもいい。
俺は、もう誰かを見捨てる生き方はしたくない。」
その言葉に、ルナの瞳が潤む。
手を伸ばすと、蓮の指がそれを受け取った。
その瞬間――
窓の外の雲が切れ、朝日が差し込んだ。
雨に濡れた街が、黄金色に光る。
二人の影が重なり、光の中で静かに揺れた。
「蓮。……わたし、もう隠れない。」
「それでいい。隠すより、君のままで。」
そして二人は、朝の光を背に立ち上がった。
この瞬間、彼女の中の“人狼”と“人間”が初めて一つになった。




