魔物の住処
馬車は北へと走り、その日の夕方には、北の辺境の地へたどり着くことができた。
途中、立ち寄った村で耳にした話によると、魔物は長く北方の山脈にある一つの洞窟に身を潜めているらしい。古来からその山や呪われた魔物がはびこり、近づいた者はことごとく姿を消すので、今では誰も近寄ろうとしないという。
山の麓では、すでに王国の警備隊が厳重な封鎖を敷いており、村人たちを先へ進ませぬよう予防線を張っていた。私は、公爵の婚約者という立場を利用して警備網をくぐり抜け、洞窟の方角へと馬車を進めた。
やがて目的の洞窟が見えてくる。その前には、同様に警備隊が張り付いて警護していたが、私は彼らの制止を振り切り、勢いのまま馬車を降りて、ひとり洞窟の中へと足を踏み入れた。
__洞窟の中は、禍々しい気配に満ちていた。
何か得体の知れない邪気が、肌を刺すように全身を包み込む。
(…確かに、今まで遭遇した魔獣の類とは、比べ物にならない気配がするわ_。)
私は小さく息を呑み、手に持ったランプを掲げながら慎重に進んだ。北端の山脈ということもあり、空気は屋敷のある中心部よりもずっと冷たい。私は念の為、防寒と防御を兼ねて、厚手のコートと登山用のレインブーツを身に着けてきた。しかし、それも気休めにしかならないだろう。
中は真っ暗な洞窟内部は、細い入り組んだ道がどこまでも続いていて先が見えない。もう入口は遥か彼方に沈んでしまって、今から引き返そうにも、もう二度と出口にはたどり着けないんじゃないかという恐ろしさがあった。
でもユリウス様に危険が迫っている以上引き返すわけにはいかなかった。あたりの空気はさらに重くなり、まるで体を押しつぶしてしまいそうな重々しい邪気をひしひしと感じた。それでも足を緩めず先を急ぐと、やがて、視界がぱっと開けた。
そこは、まるで大広間のように広大な空間だった。
松明を掲げて奥まで照らすと、薄暗い岩肌がぼんやりと照らし出される。私は一歩踏み出しかけて、そしてそこで息を呑んだ。
_視界の奥に、異様な“何か”が見えたのだ。
それは、なんと言い表したら良いいかわからない、謎の巨大な塊。表面はうっすらと青黒い光を反射していて、よく見れば、それは硬そうな鱗で覆われている。その鱗が、まるで呼吸するように規則的に上下していて、それが洞窟内の光に反射しててかてか怪しく光っていたのだった。
(……まさか、あれが……噂の魔物……だというの?)
私は凍りついたように立ち尽くした。
天井に届くほどの巨体。その存在感は、もはや生物では形容できない規模を誇る。
(こんなの……人間が束になったって、太刀打ちできるはずがない……)
私は気圧されて一歩後退ったが、幸いにも魔物は眠っているのか身動きはとらず、こちらには気づいている様子もない。
(ちょ、ちょっと待って──。)
ここで、私ははっと気がついた。
(あれ……ユリウス様はどこ?
魔物を討伐しに、この洞窟へ先に入ったんじゃなかったの?)
目の前には、まさに“目的の魔物”と思しき巨大な存在が眠っている。けれど、あたりを見回しても――人の気配がまるでない。足跡も、焚き火の跡も、誰かが立ち入った痕跡すら見当たらなかった。
(まさか……ユリウス様たちは、まだここに来ていない?)
ぞくり、と背筋が凍りついた。
確かに冷静に考えれば、いくら早朝に出立したとしても、すぐに魔物の巣へ突っ込むはずがない。普通ならまず、住民の避難や警備の配置、調査などを済ませてから行動に移すだろう。実際洞窟の入り口や麓の村は物々しい警備体制であった_。
(では、私は…?ここで一体なにをしているのだろう?)
目の前で、魔物は今も悠々と寝息を立てている。まだ誰もこの魔物と戦っていないし、魔物も目覚めたりなどしていないというのに…!
思い返しながら血の気が引いていくのがわかった。
(まずい……!)
大事にならないうちに、今すぐにでも引き返さなければ――そう思った瞬間だった。
――ズズンッ!!
足元から、地鳴りのような轟音が響く。
洞窟全体が震え、天井の岩が砕け散りそうなほどの振動が走った。息を呑む間もなく、背後で“何か”が蠢いた。巨大な気配。空気が歪むほどの圧迫感。
恐る恐る振り返ると…
そこには――真っ赤に充血した巨大な目玉が、私を睨みつけていた。
冷たい汗が背筋を伝う。
_魔物が、眠りから覚めたのだ。




