真の武士【一話完結】
その者は、小さな庭に住んでいた。
庭と言っても、畳三畳ほどの苔むした空間。
隅には盆栽が一鉢、灯籠がひとつ、そして井戸に見立てた茶碗があった。
朝になると、彼は盆栽に水をやり、苔に箒を入れ、
茶碗の中をのぞきこんでは、ひとり言をつぶやいた。
「……よし、本日も、静寂なり」
この男に名はない。
ただ人は彼を「小さき武士」と呼んだ。
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ある日、武士はふと思った。
「この盆栽の根は、どこまで伸びておるのか」
「水をやるばかりで、何も知らぬまま育てては、無礼かもしれぬ」
そうして彼は、庭の外へと歩みを進めた。
自らの庭より少しだけ大きな場所、
そこには、まったく異なる流儀の庭師たちがいた。
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第一の庭 ――「名札の庭」
その庭は、あらゆる草木に名札がついていた。
「誇り松」「謙虚草」「忠義苔」――
庭の主は誇らしげに語る。
「見事なものだろう。名をつけることで、植物は意味を持つのだ」
小さき武士は言った。
「名のある者ほど、沈黙を知るべきではないか」
そうして、庭を後にした。
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第二の庭 ――「戦の庭」
そこでは、二つの盆栽が刃のように絡み合い、互いを押し倒していた。
庭の主は叫ぶ。
「これが競い合う美だ! 強き枝こそが至高!」
小さき武士は立ち止まり、ぽつりと言った。
「ならば、散った葉は、何のためにあったのだろうな」
庭の主は答えなかった。
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第三の庭 ――「水なき庭」
そこには見事な石組みと白砂があり、
主は何も植えていなかった。
「心が満ちれば、草は不要。
花よりも、空白の方が深いものだ」
武士はしばらく黙って庭を見つめ、
やがてこう言った。
「それもまた道であろう。
だが、拙者の盆栽は、水を欲しがっておる」
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そして、彼は自分の庭へと戻った。
灯籠には虫がとまり、苔の間からは小さな草が芽吹いていた。
「……留守にしていた間に、少しばかり荒れたようだな」
武士はほうきを手に取り、茶碗に水を汲み、盆栽の根を見つめた。
「遠くへ出て、分かったことがある。
大切なものは、ここにあった」
彼は誰に見せることもない微笑みを浮かべ、
今日も庭を整える。
その手つきは、まるで道場のように静かで、丁寧だった。
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