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風の挽歌  作者: zazie
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第五章

その後しばらく、沖田は渋谷に会うことなく日は流れた。

渋谷がいなければ、奈美も沖田に寄り付かない。

本当は話がしたくて仕方ないのに、二人きりになるのは嫌なのだ。

渋谷をだしにして、奈美はそれでいいかもしれないが、 渋谷にしてみれば、好きな女は他の男に想いを寄せ、しかも自分がその男とのつなぎ役にされているとあっては踏んだり蹴ったりである。

渋谷がそのことに気付いていないはずがないと沖田は思っている。知らぬは奈美ばかりだ。

気付いているのなら、渋谷はもう沖田の所へは来ないかもしれない。

それならそのほうが沖田にとっては都合がいい。

余計なことは考えたくなかった。

誰にも惑わされずに剣の修業に打ち込めれば、沖田はそれで満足だった。


剣術は稽古さえ怠らなければ試合の勝負などどうでもいい、肝心なのはいざというとき役に立つかどうかだ――という、近藤勇の養父の周斎の言葉が物語るように、天然理心流は勝つか負けるか、二つに一つの実戦剣法である。

剣術は刀の振り方や握り方など、基本的なことはどの流派もさしたる違いはない。

ただ、エリートが集う三大道場に比べると、やはり天然理心流は武骨で荒っぽいと言わざるをえないだろう。

その分、力を重視し、精神的にも誠を重んじる。まさに「心技体の一致」である。

当然、稽古も熾烈を極め、あまりの激しさにぶっ倒れる門弟などざらである。

沖田は門弟の中では最年少だったが、既に師範代をつとめるほどの実力を備えていた。

さすがの土方歳三も、剣においては沖田よりも格下であり、本気で立ち合ったら近藤勇でさえも沖田には勝てるかどうかわからないと、永倉新八はのちに語っている。


残暑の厳しい昼下がりだった。

沖田は稽古を抜け出して井戸へ水を飲みに行った。

突然声をかけられたのは、道場へ戻ろうとした、ちょうどその時だった。

「こんにちは」

振り向くと、にこやかな笑顔を浮かべてそこに立っているのは紛れもない、渋谷総司だった。

「しばらくお会いできませんでしたが、お元気そうですね」

沖田は、渋谷がいつもと変わらずまるで屈託のないことに、やや呆気に取られた。

同時に、渋谷の明るさに、なぜか無性に苛立たしさを覚えてもいた。

「伺ったらちょうど稽古の最中だったので、少し拝見させてもらっていたんです。あまり激しいので驚きましたよ」

渋谷は素直に感嘆している様子だった。

「山南さんがおっしゃっていたように、貴方は相当剣の腕が立つようですね」

「君もかなり使うんだろう」

「さあ、どうでしょう。それは人が決めることですからね。自分ではわかりませんよ」

渋谷はいやに勿体ぶるような言い方をした。

「ぜひ一度、貴方と勝負がしたいな。前にもお願いしましたが」

渋谷が勝負という表現をしたことに、沖田は何か引っかかるものを感じた。

「何の勝負だ?」

「別に意味はありませんよ。勝負は勝負です」

渋谷は相変わらず笑みを絶やさなかったが、沖田にはその裏に何か渋谷の思惑が見え隠れしているように思えてならなかった。

そんな考え方をしてしまう自分がおかしかった。奈美のことに気を回し過ぎているのかもしれない。

その奈美が洗濯物の籠を抱えて、偶然沖田と渋谷の前に現れた。

「まあ渋谷様。いらしていたんですか」

奈美は嬉しそうだった。

もちろん渋谷が来たことが嬉しいのではなく、渋谷が来たことで沖田に接する機会が得られるのが嬉しいのである。

立ち話を始めた渋谷と奈美をそのままにして、沖田は道場へ戻るつもりだった。

だが、動くことができなかった。

周囲に凄まじい殺気を感じ取ったのである。

沖田は注意深く辺りの様子をうかがった。

どこかに何者かが潜んでいる。

下手に行動を起こすとかえって危険だ。

渋谷も奈美も不穏な気配に全く気付いていない。

沖田は警戒しながら、井戸に立て掛けておいた木刀に手を伸ばした。

その時、渋谷の背後の生垣から、突然黒い影が躍り出た。

沖田は木刀をつかむより先に、咄嗟に叫んでいた。

「危ない!」

さすがに渋谷も判断が早かった。

間一髪のところで、自分に向かって振り下ろされた刀をかわしていた。

普通の人間なら斬り下げられていたことだろう。

渋谷に襲いかかった人物の顔がはっきりと見て取れた瞬間、沖田は息を呑んだ。

いつぞや試衛館にやって来た、あの道場荒らしの男だったのだ。

男はあの時、渋谷を見た途端に尻尾を巻いて逃げ出してしまった。

玄武館で散々に打ち負かされたというが、恥をかかされたことを逆怨みして仕返しに来たのだろうか。

それにしても、待ち伏せして丸腰の人間を襲うなど、全くもって卑劣極まりない。

もっとも、そんな男だからこそ道場荒らし風情に成り下がっているのだ。

奈美は状況を悟るや、悲鳴を上げて洗濯籠を放り投げた。

そして、遮二無二沖田にしがみついてきた。

沖田のほうもこの時ばかりは、好きだの嫌いだの、そんなことを言っている場合ではなかった。

奈美を伴って、直ぐさま庭の隅に逃れた。

「よせ、何の真似だ」

男と対峙しながら渋谷は叫んだ。

男は耳も貸さず、縦横無尽に刀を振り回す。

何やら尋常ではない、ただならぬ様子としか言いようがなかった。

まるで獲物に食らいついて離れない狂犬やまいぬである。

刀さえあれば――と沖田は歯噛みした。これではどうすることもできない。

木刀のひしめき合う音や、気合の掛け声にかき消されているのか、外で起きているのことに道場の者たちは全く気付いていないようである。

とにかく誰かを呼びに行かなければならない。

沖田は踏み出そうとしたが、しがみついたままの奈美がそれを許さなかった。

「行っては嫌です沖田様、ここにいてください」

「奈美さん、後生だから離してください。早く誰かを呼んで来ないと大変なことになる」

「嫌です、私を一人にしないでください」

奈美は怖がって沖田を引き留めるばかりだった。

大声で人を呼んで下手に騒いだりすれば、男はこちらにも刃を向けてくるかもしれず、それこそ一大事だ。

渋谷は男の振り回す刀をかわしながら、隙を見て男の懐に組みついて行った。

勢い余って、男もろとも渋谷は地面に倒れ込んだ。

男が身動きの取れなくなったところを、渋谷はその手を払って刀をふるい落とした。

落とすや否や、 その刀を拾って応戦の構えを見せた。

このあたりの素早さは、やはりさすがと言わざるをえない。

男は動じることなく脇差を抜いた。

両者共に刀を構え、これでようやく五分と五分の戦いとなった。

渋谷は冷静に平星眼を取ったが、男はむやみに斬り込んで来る。

間合いも何もあったものではない。

とにかく渋谷を倒すことしか頭にないようだった。

沖田はいつしか、助けを呼びに行くことも忘れて渋谷の戦いぶりに見入っていた。

この男の太刀筋を見ておきたいという思いが、沖田をその場にとどまらせたのだ。

玄武館で打ち負かされているくらいだから、言うほどの腕ではないのだろう。

なりふり構わず刀を振り回す男に、 次第に疲労と焦りの色が見え始めた。

渋谷は自分から攻勢に出ることはなく、あくまでも慎重な構えである。

その冷静さが、ますます男を苛立たせていた。

いよいよ進退極まると見るや、刀を大上段に取り、大声で何かわめきながら、 捨て身の構えで渋谷に向かって来た。

そのとき、渋谷が低く身を沈めた。

渋谷に見入っていた沖田は、思わずはっとした。

渋谷の様子に男への殺意が感じられたのである。

「やめろ、斬るな!」

沖田は叫んでいた。しかし、遅かった。

男に刀を振り下ろす隙も与えず、渋谷は身を低くした体勢から刀を摺り上げた。

摺り上げた太刀は、男の体を一直線に斬り上げていた。

血が吹き飛び、男はもんどり打って、まるで切り倒された大木のように、どっと地面に崩れ落ちた。

既に絶命しているようだった。

ほんの一瞬、不気味なほどの静寂が流れた。

流血沙汰となったことで、奈美が割れんばかりの悲鳴を上げた。

その声で静寂は現実に引き戻された。

渋谷はさほど動揺もない様子で、荒く息をつきながら沖田のほうを見た。

血刀を下げ、体中に返り血を浴びた凄まじいその姿に、沖田は思わず目を逸らした。

逸らした視線の先に、奈美の肩に回している自分の手を見て、慌ててその手を離した。

奈美はまだ沖田にしがみついたままだ。

沖田が再び顔を上げると、今度は渋谷のほうが目を伏せた。

その目に沖田は、諦めにも似た寂しげな翳りを見て取った。

ようやく異変に気付いた道場の面々が駆け付けて来ても、 沖田も渋谷もその場に立ち尽くしたままだった。

この瞬間に二人は、曖昧だった自分達の関係をはっきりと意識することになったのである。

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