第三章
この当時、近藤勇は頻繁に多摩の村々へ出稽古に出掛け、 剣術を教えて歩いていた。
近藤が来ないときは、代わりに沖田や土方が出向くのである。
但し、お世辞にも沖田は稽古の付け方が上手いとは言えなかった。
なまじ自分ができるものだから、人が教えた通りにできないのが苛立たしくてならない。
自然と言葉は乱暴になるし、指導も厳しくなる。
沖田が来るときは恐ろしがって道場に現れない門弟もいた。
「今日は何人休んだ?」
帰りがけに立ち寄った多摩川で、土方がからかうように吹っかけた。
「知りませんよ、いちいち勘定しているわけじゃないんですから」
川の水で洗った顔をぶるっと震わせながら、沖田はふてくされて言い返した。
「私は近藤先生とは違いますから、こういうことには不向きなんですよ」
「そんなこと言ったところで始まらねえだろ」
「むしろ土方さんのほうが向いていると思うけどな、私は」
「俺は駄目だ。器じゃねえ」
と、土方は石ころを拾って川面に投げ付けた。
土方はそう言うが、沖田は、土方には人を惹き付けてやまない、何かとてつもない力があるような気がしていた。
「帰るか、そろそろ」
「ええ、久しぶりに日野へ来たから、姉さんの所へ顔でも出して行きますよ」
土方は何も反応を示さなかった。
「土方さんも一緒に行きませんか」
と、沖田は誘ってみた。
「俺がお光さんに会ってどうするんだよ」
おかしな奴だというふうに土方は笑った。
二人は途中で別れ、土方は佐藤彦五郎家へ、沖田は姉の光の家へ、それぞれ向かった。
佐藤家は土方の姉・のぶの嫁ぎ先である。
土方の生家も「お大尽」と呼ばれるほどの豪農だが、佐藤家も日野では負けず劣らずの名家である。
幼い頃に両親を亡くした土方は、佐藤家当主の彦五郎とのぶの姉夫婦を親代りとして、 何かと世話になってきた。
光は沖田より十も年上で、夫の林太郎と共に日野で暮らしている。
土方と同様、早くに両親に先立たれた沖田にとって、光は母親代りのようなものだった。
光は近在でも評判の美人で、沖田にとっても自慢の姉である。
沖田は往来を歩きながら、土方はあとでこっそり光の顔を見に行くかもしれないと思った。
沖田はもうずっと前から、土方が光にかなわぬ恋心を抱いているのを知っていた。
夫の林太郎が近藤勇の養父・周斎の門弟だった縁もあり、 光は一時期、試衛館によく出入りして、掃除や洗濯などを買って出ていたことがある。
土方と光が知り合ったのもその頃のことだ。
もっとも、そのとき既に光は結婚していた。
沖田は、自分は人を好きになったことがないくせに、他人の恋心には敏感という妙なところがあった。
幸か不幸か、 奈美の気持ちに気付いてしまったのもそのためである。
沖田が日野でそんなことを考えていた頃、江戸の試衛館でもちょっとした出来事があった。
渋谷総司が試衛館を訪れたとき、それは起こった。
その日、沖田は出稽古、食客達もそれぞれ出払っていて、 たまたま不在だった。
声をかけたが誰も出て来ないので、 渋谷が諦めて引き返そうとした時、いきなり奥からぬっと奈美が姿を見せた。
まさか若い娘が現れるとは夢にも思わなかったので、渋谷は驚いた。
「どちら様ですか」
奈美は怪訝そうに尋ねた。
道場にやって来るのは食客連中の知り合いに決まっているから、自然と態度も邪見になる。
「私は渋谷総司と申す者ですが、沖田総司様はご在宅ですか」
渋谷は少しどぎまぎしながら言った。
「沖田様のお客様ですか」
とたんに奈美の顔がぱっと輝いた。
奈美はもともと器量はいいほうである。
表情が明るくなればそれだけ印象も良くなる。
ましてや普段の奈美を知らない渋谷に、奈美がとりわけ美しい娘に見えたのも当然のことだった。
「あいにく沖田様は出稽古に出掛けておりまして、あと二、 三日は戻らないと思いますが」
「そうですか」
「沖田様がお戻りになったら、お訪ねがあったとお伝えしておきましょうか」
「いや、結構です。また日を改めますので」
渋谷は断ったが、これで沖田と話す機会が持てる奈美は、 有無を言わさず畳み掛けてくる。
「あの、お名前は何とおっしゃいましたでしょうか」
「あ…、渋谷総司と申します」
「そうじ、はどんな字をお書きになるんですか?」
「総領の総に、司るです」
「まあ、本当に沖田様と同じお名前なんですね」
「ええ、はい…」
そんなやり取りを続けながら。渋谷はなぜか自分でもわけがわからないくらい、しどろもどろになっていた。
「それでは、私はこれで失礼します」
頭を下げると、慌ただしく踵を返した。
が、ついと振り返って、
「あの」
「はい?」
奈美はまだその場に鎮座したままニコニコしている。
「失礼ですが、貴方は沖田様のご兄妹ですか」
「いいえ、私は近藤勇の娘で奈美と申します」
渋谷がそんな勘違いをしたのがおかしかったのか、奈美は笑った。
渋谷は気恥ずかしさで赤くなったが、つられて笑った。
笑い合ったことで、いつしか二人の間には打ち解けた和やかな空気が流れていた。
しかし、渋谷は同時に、奈美が沖田の身内ではなかったということに、やや落胆してもいた。