第二章
それ以来、渋谷総司は度々試衛館に姿を見せるようになった。
近藤勇は特別気に留める様子もなく黙認していたが、 門弟達はあまり快くは思わなかった。
特に土方は露骨だった。
渋谷は下総の豪農の次男ということである。
小金(現在の松戸市)在の浪人・一月逸平に学び、剣だけでなく学問もおさめているが、 土方に言わせれば「所詮農民じゃねえか」ということになる。
土方だって農民の、それも四男坊なのだから人のことなど言えた義理ではないのだが、そういう妙なプライドだげは高かった。
のちに土方は新選組副長となり、幕臣の身分にまで取り立てられることになるが、いずれのし上がる自分を、このときから既に予見していたのかもしれない。
他の連中にしても、他流の人間が堂々と出入りしているのだから面白いはずがない。
子飼いの土方歳三や沖田総司を除いては、試衛館の食客連中は意外にも他流からやって来た者が多い。
前述の通り山南敬助と、そして藤堂平助は北辰一刀流、永倉新八は神道無念流、原田左之助は宝蔵院流槍術を、それぞれおさめている。
みんな近藤勇の人柄に魅かれて居着いてしまった連中だ。
それだけに中途半端にやって来られるのは我慢がならないのである。
尤も、山南は渋谷を天然理心流に入門させるために連れて来たわけではなく、渋谷もまた玄武館を抜ける気などさらさらない。
そのことが彼らの不満に拍車をかけた。
郷を煮やした藤堂平助が、あるとき渋谷をつかまえて、試衛館の門弟になったらどうだとけしかけたことがある。
藤堂も同流の山南に連れられてやって来た試衛館が気に入り、入門した口だ。
立場は全く渋谷と同じなのである。
だからこそ渋谷を引き入れることに人一倍躍起になった。
「この道場へはいつも、練兵館塾頭で大村藩士の渡辺昇という人が助太刀に来るそうですね」
渋谷は藤堂の無理難題をかわすように、けろりとした顔でそんなことを言った。
「そうだが、それがどうした」
「その方に入門してもらおうと思ったことはないのですか。 事ある毎に呼びに行くのでは大変だし、常に道場にいてくれたらそうした手間も省けるのですから」
「そんなことできるわけがないだろう」
さすがに藤堂もムッとした。
「だったら、私も同じですよ」
「何が同じなんだ」
「頻繁に出入りするからといって、必ずしもそこへ与しなければならない理由なんてないってことですよ。そう思いませんか」
もっともらしいことを言われて、藤堂は言葉を詰まらせた。
「それに私自身まだ修業中の身ですから、申し訳ありませんが、そう易々と他流に移ることはできかねます」
渋谷は悪意のない笑顔で、完全に藤堂を煙に巻いてしまった。
どうやら口では渋谷のほうが上のようだった。
そこはやはり生神の玄武館育ちである。
千葉周作が水戸藩主の徳川斉昭に召し抱えられていたため、元来、北辰一刀流は水戸藩士が多い。
彼らは「議論倒れ」と言われるほど論争を好む傾向がある。
そうした人間達のあいだに立ち混じっていれば、自然と弁も立つようになるというものだ。
渋谷はその調子で、山南と国事のことばかり論じていた。
国事とはつまり攘夷のことだ。
この時代、攘夷は天下の公論である。
剣客のみならず町人や、それこそごろつきのような者まで揃って攘夷を口にした。
沖田はその度に彼らの論説を聞かされる羽目になった。沖田は国事などには興味もなかったが、もともと山南から聞かされることが多かったので、別に苦痛だとは思わなかった。
それに興味があるとないとにかかわらず、沖田は人の話を聞くのが嫌いではない。
余計な口を挟まず、黙って相槌を打っているから相手も話がしやすいのだろう。
沖田の前では不思議とみんな饒舌になった。
いつもむっつりしている土方でさえ、沖田の前ではよく喋るのだ。
或いは渋谷もそうなのかもしれない。
同じ名前ということで、渋谷は随分と沖田に親しみを感じているようだった。
もっとも、沖田にとってはそれは親しみの対象にはならなかった。
沖田の、親の付けたもともとの名前は「宗次郎」 という。
九歳で試衛館の内弟子に入って以来、近藤勇が 「そうじ」と呼ぶようになったため、いつの間にかそれが通り名になってしまったのだ。
正式に「沖田総司」と改めたのはごく最近のことである。
だからといって宗次郎の名に未練があるわけではなかった。
名前ばかりではなく、沖田はあまり物事に執着しないたちである。
むしろ冷めていると言ってもいい。
沖田を弟のように可愛がっている土方歳三でさえ、沖田のことを「つかみどころのない奴」だと評するのはそういう側面なのだ。
だから渋谷総司のことも特別どうとは思わなかった。
向こうが自分を慕ってくるのだから、それをわざわざ撥ね付ける必要もないと、そのくらいにしか考えていなかった。
そういう沖田にも、たった一つだけ執着したものがある。
それが剣だった。