花びらは土に還る
桜吹雪のような派手さはない。だが少しずつ地味に散る桜の葉は、さまざまな色合いで趣きがある。真っ赤に美しく染まった葉も、中途半端な色づきも、やがてカラカラに乾き吹き溜まり砕けて土に還る。大量の花びらも同様。自らの葉や花びらが、自分の樹だけでなく仲間たちの養分にもなるのだ。
二一世紀の日本で咲いていたオレは、あるとき妖精界へと移植された。誘ってくれた隣のソメイヨシノも一緒だ。妖精界は魔気が多くオレたちは咲き誇った。クローンで本来は自生などできないのだが、妖精界では自然発生的にどんどん増えて自生した。休眠打破も、妖精界では不要だ。
そうしている間に、人間界でのソメイヨシノは滅びたらしい。接ぎ木でしか増えないのだから、それがなされなければ寿命で次々に枯れる。
オレをソメイヨシノへと誘った奴は、妖精界で長く共に咲いていたが唐突に行方不明だ。オレは樹の精霊になっちまったから探しに行くこともできないし、噂を聴こうにも呼び名も知らない。オレらは等しくソメイヨシノだ。
ときの経過もよく分からない。オレは毎年咲き誇り続けた。妖精たちがかわるがわる話にくるから、寂しくないはずだが、喪失感は強い。
あるときオレは妖精界から人間界に戻されることになったようだ。接ぎ木用の小枝として。
ここも、妖精が多い。
カルパム城の敷地に咲いているのだと、花の季節に妖精たちは教えてくれた。
独りになっていたオレは、妖精界からカルパム領主へのクリスマス・プレゼントにされたようだ。接ぎ木用の枝に宿らされ人間界に戻ってきた。それが妖精王の計らいか厄介払いかは謎だ。
小さな接ぎ木から育ち始めて数年。オレは、これからまだまだ咲き続けるのだろう。カルパムは温暖な上で、城の敷地は魔法的な力で温度管理されている。休眠打破など不可能だ。だが、幸い妖精界と同様に休眠打破なしでもオレは咲くことができた。
二一世紀から一万二千年が過ぎたと、行き交う様々な者たちの言葉を繋ぎ合わせて理解した。
ここはカルパム城の敷地内。カルパム領主は、一万二千年前の日本から天女の力で転移しユグナルガの国へと来たのだという。
一万二千年経とうとも。何も変わりはしない。オレは毎年咲くだけだ。
今、カルパム城の敷地では、若いソメイヨシノたちが多数育っている。だが、精霊はオレだけのようだ。隣の樹も空いている。独りだと退屈だな。だが、落葉は悪くない。
桜の葉は、ほとんどが散り落ちて枯れ枝ばかりの景色だ。だが、だからこその美しさもある。
黒く見える枝のラインは複雑で、晩秋の空に良くにあう。
植物を担当する者たちの、丁寧な剪定。オレから接ぎ木にするための枝を切っている。痛みはわからない。髪を切られるほどの感覚だ。
「探しましたよ。やっと見つけました」
あなたを探すために化身して彷徨い歩いていました、と、彼はオレに向かって囁いた。オレは今、半端な色づきの葉がわずかにあるだけの枯れ木状態だ。春に咲くのに備えている。しかも接ぎ木から育ち始めて数年で、まだ細い樹でしかない。
(……よく、オレだと分かるな)
オレの声が聞こえるだろうか? 彼は今、人に似た姿になっている。以前から精霊のような姿に化身することはあったが、そのときの姿とは違っていた。髪色も眼の色も違う。だが間違えようはない。
「何千年、何万年経ったって、あなたの眼差しを忘れるわけがないでしょう?」
蕩けるような笑みを浮かべて見詰めてくる。かつてのオレが、そんな風に彼を見詰めていたらしい。
以前の化身とは違い、なんだか表情が豊かな印象だな。だが、それ以上に、精霊としての言葉の交流が大仰になったような感覚がある。
(……どこに行っていた?)
声は響いていないが、オレの言葉は届いているようだ。会話は成り立っている。
「随分と探しましたよ。妖精界から弾きだされてしまって困りました。妖精界に入る方法が消えてしまっていましたから。永いこと独りにさせて済みませんでした」
申し訳なさそうに囁くときも、表情は甘美さに打ち震えるような気配を感じさせる。
(アンタも、妖精界で咲いていたじゃないか……)
一緒に妖精界にいたのに、なぜ入れなくなったのか分からずオレは訊く。
「隣、空いてますか?」
オレの問いめいたものには応えず彼は訊く。
また隣で咲くつもりらしいのが不思議に感じられた。とはいえ、オレはこうして秋には葉を落とし、春には満開の花を咲かせることを止めるつもりはない。
(また、桜になるのか? せっかく自由の身だったろう?)
そんな風に訊いたもののオレは自由の身に戻ることなどカケラも望んでいなかった。思いのほかソメイヨシノとしての暮らしが気に入っている。
「あなたを探すためにやむなく、ですよ。隣、空いていますか?」
うっとりとした表情で訊いてくる。
(精霊がいるかいないかなど、アンタには簡単に分かるだろう?)
「いいえ? そういう能力は全て、あなたを探すために売り渡してしまいました」
売り渡した? それで精霊に戻ったとして大丈夫なのか?
「視覚のほかは、色々失っていますが問題ありませんよ」
「オレは、お前を精霊に戻せるのか? 隣は空いてる。まだ、誰もきていない若い樹だ」
「では、誘ってください。私を養分に……」
「オレの時のように? ああ、そうだったな」
「そう。甘い声で誘ってください」
「今は精霊じゃないのか? 養分になれるとは」
「人間に近いですよ。転生しながら探しました。あなたが妖精界からでてくださって助かりました」
妖精界からでる他に再会の手がなかったのだとしたら、オレが人間界に来たのは間違いなく妖精王の計らいだ。
「じゃあ、オレらの養分となれ。隣で咲いてくれ」
オレは誘い、隣へと誘導しようとする。
「あ……少しだけ待ってください。養分になる前に……、抱きしめさせて」
彼は、笑み、それから切実そうに囁いた。
「好きなようにすればいい。養分になり隣に宿れば、春には共に咲き誇れる。まだ若い桜だが」
ときの流れなど些細な感覚だ。
ギュっと、思ったよりも強い力で抱きしめられている。大木だった頃の感覚で扱われてはたまったものではない。
「おいおい、オレの樹はまだ若いんだ。そんなに強い力だと折れちまうぞ?」
彼は頷いたが、今度は苗木に近いような若いオレの樹にキスをした。驚きに枝が震えたが、風のせいだろう。
「樹に戻ったらこんなことはできませんからね……」
「何を言ってる? もっと甘美だろう?」
触れ合えずとも、共に咲く花の盛りの甘美さは語り尽くせぬ味わいだ。
だが、そう言いながらも、オレは樹皮に触れてくる唇の繊細な快感をコッソリ隠す。
「いいえ? どちらも、甘い甘い泥沼のような甘美さですよ」
決して忘れません、と、彼は言葉を足した。
うっとりと、唇が樹皮を這った。軽く舌の触も感じられる。
「舐めたって美味くはないぞ?」
「味は、味覚も売り渡したのでわからないですね。でも、あなたの感触はわかる」
「精霊に戻れば……売り渡したものは戻るのか?」
「もちろんです」
互いに名がないことには慣れていたが、こういう時には名を呼びたいものだ。焦れったい思いは、たぶん伝わってしまうだろう。
「あなたは、名前を覚えていますか?」
ソメイヨシノ……
そう。私もです。
ああ、じゃあ、お前はソメイ、オレはヨシノでどうだ?
「ああ、それも悪くはないですね、ヨシノ……」
自分で提案しておいて名を呼ばれてクラクラした。身体が揺れ、枝に残っていた色づいた葉を散らす。
「さあ、私の養分を食べて、春に備えましょう?」
今度は、あなた……ヨシノの養分になれますね。方法は覚えているでしょう?
相変わらず下手だから、苦しかったら済まない……。
鳥たちが一斉に飛び立つ景色のなか、オレはソメイを隣の樹に誘い、精霊の形にして入れる。骸は自然に地下へ。互いの根が触手のように地中で遺骸を抱き絡める。
「あなたから与えられる苦しみなら、喜んで味わいますよ? 貴重な体験ですからね。嬉しいです」
骸になって根に抱えられ、ソメイの苦痛顔は途中から精霊のものに変わっていた。しばし身悶え続け、懐かしい薄紫の眼を潤ませている。
「ああ、また隣で咲けますね……」
樹に宿ったソメイは苦痛の終わりに喘ぎながらも歓喜めく声。永い時のなかでの彷徨いが終わったことに安堵しているようだった。