9話 キッチンカーを運転する
「ココ、おいで。ひとまずこれを移動させよう」
キッチンカーの運転席のドアを開き、ノヴェルさんが私を手招きをする。
運転席に座りたいようなので、彼の長い足に合わせて座席を後ろに下げた。
早速乗り込んだノヴェルさんの赤い目が、興味深そうに車内を見回す。
「これがどういう原理で動くのか、説明してもらえるだろうか」
「車が動く原理……あっ、はい! これを買う時に中古車販売店の人が簡単に説明してくれたんですよ。ええっと、確か……」
電気自動車は、電気でモーターを動かして駆動力を生み、それによってタイヤが回ることで車が走る仕組みになっている。
自動車の歴史を遡れば、ガソリン車よりも先に電気自動車が開発されたというが、当時は走れる距離が短く速度も不十分だったため普及しなかったらしい。
現在では、容量が大きいのに小さくて軽いリチウムイオン電池を駆動用バッテリーにすることによって、一度の充電で長く早く安定した走行が可能になった。
「モーターというのはつまり原動機のことだな。魔力でそれを制御することはおそらく可能だが……この重量の物体を完全に魔力のみで走らせ続けるのは現実的ではないな。距離にもよるが、消耗が激しすぎるだろう」
「魔力というのは、消耗品なんですか?」
「そうだな。例えば、ココが走り続ければ体力を消耗してやがて足が止まるだろう? 魔力もだいたいそれと同じだと思っていい。休めば回復するが無限ではない」
「な、なるほど……」
魔力に関してはちんぷんかんぷんな私にも、魔力イコール体力としたノヴェルさんの説明はとても分かりやすかった。
彼は続いて、車の運転の仕方の説明を求めてくる。
「アンドラとの境界であるこの周辺にキッチンカーを置いておくことはできないから、屋敷の正門の方に移動させたいのだが……ココは難しいな?」
「う、はい……すみません……」
「謝らなくていい。どうしようもないことなのは、私も嫌というほど知っているからな。それで、提案なんだが――このキッチンカー、私が運転してもいいか?」
「はい――じゃなくて! ええっと……」
私は反射的に頷きそうになったものの、どうにか思い止まってしどろもどろに言った。
「あ、あのですね、私の世界の規則ではですね、車は一定の教習と試験を受けて免許を取得した人しか、運転してはいけないことになってましてですね……」
「確かに、この重量でさらに速度の出る物を公道で走らせる場合は、それなりの技術がなければ危険だろうな」
「はい……ですので、マノンさんにぶつけた私が言うのもどうかと思いますが、免許をお持ちでない方に運転を任せてしまっていいのかどうか……ちょっと判断しかねます」
「そうか……わかった。ココの立場は理解した」
郷に入っては郷に従うという諺がある。
しかし、違う世界の理を持ち出すなと一蹴するのではなく、まずはちゃんと私の意見を受け止めてもらえたことにほっとする。
その上で、ノヴェルさんは続けた。
「とはいえ、先にも述べた通り、やはりキッチンカーは移動させねばならない。唯一、正統な資格を持つココが不可能な今、その責を負うべきはこの国の責任者たる私だと考えるが、如何だろうか?」
「……おっしゃるとおりだと思います。ノヴェルさんに責任を負わせるのは本意ではありませんが、現状では他に手立てがありませんので」
私の答えに、ノヴェルさんが満足そうに頷く。
そして、おそらくは私を安心させるためだろうが……
「運転中に危険を感じた場合は――魔力で何とかしよう」
と、安易にまたファンタジーなことを言った。
かくして、キッチンカーはノヴェルさんの運転によって場所を移動することと相成った。
幸いオートマチック車なのでさほど操作は複雑ではない。
私は助手席に乗り込んで、運転の仕方を口頭で伝えることにした。
「でも、まずはシートベルトしましょうね。危ないですからね。これは絶っっ対です!」
「分かった。……いや、分からないからココがやってみせてくれ」
「了解です。ではでは……えっと、少々前を失礼しますね?」
「うん」
私は助手席から身を乗り出して、運転席のシートベルトを掴む。
ノヴェルさんとハンドルの間に上半身を押し込む格好になり、必然的に互いの身体が密着した。
意識すると恥ずかしくなってしまうので必死に無心になろうとするのに、ノヴェルさんが何やらじっと見つめてくるせいで落ち着かない。
堪え兼ねた私がそろりと顔を向ければ、もう何回目になるだろう――また、彼と目が合った。
とたん、その端整な顔が花が咲くみたいに綻ぶ。
「ココの目に、私が映っているな」
そんな、存外無邪気なノヴェルさんの感想に、私ははっとした。
自分より魔力が大きい相手と目を合わせることができないらしいこの世界において、ノヴェルさんが目を合わせたのは私が初めてだというようなことを言っていた。
つまり、彼は周囲の誰よりも大きな魔力を持っており、これまで誰かの目に映っている自分を見たことがなかったのだろう。
そう思うと、自分の目を熱心に見つめてくる彼がとたんにいじらしくなって、私はその赤い目を覗き込み返して囁いた。
「ノヴェルさんの目にも、私が映っていますよ」
ブレーキペダルを踏みながらカギを回すと準備完了。
パーキングブレーキを解除すれば発進し、アクセルを踏めば加速する。
そうして、キッチンカーが危なげなく走り出したところで、ふとノヴェルさんが口を開いた。
「ココ、君のことをもう少し尋ねてもいいだろうか?」
「はい、なんなりと」
「さきほど君は、心配するような家族はもう誰もいないと言ったが……」
「あ、はい。そうですね……」
ノヴェルさんは聞き辛そうな様子だったが、別に秘密にすることでも、今更傷つくことでもないため、私は何でもないように続ける。
「生まれてすぐに母が亡くなり、母方の祖父母に育てられました。父は忙しい人でもう何年も会っていませんし……祖父は私が幼い頃、祖母も去年亡くなりましたので、実質天涯孤独みたいなものですね」
「……そうか」
「で、その祖父母の遺産も全部注ぎ込んで出来上がったのが、このキッチンカーです!」
「……うん、思っていた以上に無謀だった」
ノヴェルさんが前を向いたまま深々とため息を吐いた。
キッチンカーの速度は、ひとまず時速三十キロ以内をキープ。
それでも、今朝方マノンさんも加えて三人で歩いた道のりは車だとあっという間だった。
そのまま裏門を潜ったキッチンカーは、敷地内に作られた馬車道を通り、花々が咲き乱れる庭園を横目に正門を目指す。
そんな中、今度は苦笑混じりにノヴェルさんが口を開いた。
「それで? ココはなぜ、膨れっ面をしているんだろうか」
「そんな顔してないですし。ノヴェルさんは初めてなのに運転お上手だなーって思っているだけですし。別に羨ましくなんかないですし」
「そうか、拗ねているのか。しかし、運転自体はさほど難しいことでは……いや、ココを貶しているのではないぞ?」
「……私の運転技術が全然上達しなかったのはどうしてなんでしょう? 根本的に向いていないんでしょうか?」
私が初めて車を運転した時なんて、なかなかアクセルを踏み込む勇気が出ずに、もっとしっかり踏んで、と何度も教官に注意されたものだ。
対するノヴェルさんは、万が一の場合は魔力で制御できると踏んでいるからか、アクセルの踏み込みにも迷いがない。
そのため走りはスムーズで、助手席に座っていても安心感があった。
やがて、横道から荷車が出てくるのに気づいてノヴェルさんがブレーキを踏んだ。
ぽっくりぽっくり、ロバが前を横切っていく光景は実にのどかだ。
御者台の老紳士が帽子を脱いで会釈するのに、鷹揚に頷いて返すノヴェルさんの横顔を助手席からまじまじと眺めて、私は口を開いた。
「運転するの、楽しいですか?」
「うん、そう見えるか?」
「はい、見えます。とっても」
「ふふ……そうか」
ミランドラ公爵邸の敷地内には、あちらこちらに人がいた。
みんな、シンプルながらも小綺麗な格好をしている。
彼らは、いきなり登場したキッチンカーに驚いて、二度見どころか三度見四度見と繰り返した。
なにしろ、この世界では車といえば馬が引く馬車を指すらしいのだ。
とはいえ、キッチンカーに乗っているのがノヴェルさんだと気づくと、一様に安堵の表情になったのが印象的だった。きっと、ミランドラ公爵様は民からの信頼が厚いのだろう。
「はしゃいだ気持ちになっているのは否めないな。なにしろ、こんな風に自分の手で乗り物を操るのは、私にとって新鮮なことなんだ」
ハンドルを握るノヴェルさんの表情は生き生きとしていた。
助手席の私も、何だか幸せな心地になる。
そんなノヴェルさんは、お世辞抜きで運転がうまかった。
正門脇の壁に沿った縦列駐車を一発でやり遂げた時なんて、バーンと両手両足を地面に投げ出したい気分になったものだ。
「……ノヴェルさんに教えることはもう何もないです。免許皆伝です」
「だから、なぜそんなに不満そうなんだ。もっと素直に褒めてくれないか?」
ハンドルに凭れてクスクス笑いながら、不貞腐れた私の顔をノヴェルさんが覗き込む。
やがて、屋敷の方からロドリゲスさんに車椅子を押されてやってきたアルヴァさんが、運転席の窓を覗き込んで目を丸くした。
「ノヴェルのこんな楽しそうな顔……初めて見た」
次第に、キッチンカーの走行を見守っていた人々も集まってくる。
そんな中、またカーンカーンカーンと鐘の音が響いた。
鐘はやはり時報で、朝の六時から夕方の六時まで一時間ごとに鳴るそうだ。
現在、時刻は午後三時。
こちらの世界でも、午後のお茶の時間に当たるらしい。
それもあって、集まった人々を見回したノヴェルさんからある提案が飛び出した。
「ココ、君のキッチンカーというのは見たところ食品を扱うようだが、何を提供する予定だった?」
「クレープ……って、ご存知ですか?」
「いや、そのクレープというものを私は口にしたことがないのだが……今から、ここにいる者達に提供してもらうことは可能だろうか?」
「い、今から……あっ、はい! 喜んで!!」
かくして、急遽私は、ミランドラ公爵邸敷地内にてキッチンカーを開店することになったのである。




