8話 頭をポンポンする
青々と生い茂った木の葉が幾重にも重なって、キッチンカーの白い屋根に濃い影を落としている。
地面にはくっきりとブレーキ痕が刻まれており、今朝方の出来事は夢ではないのだとまざまざと思い知らされた。
コーヒー色の車体を、ノヴェルさんが物珍しそうに撫でる。
そんな彼の足下では……
「ああうー……どうしようー……」
体育座りをした私が頭を抱えていた。
ノヴェルさんとともにキッチンカーに戻ってきたまではよかったのだ。
マノンさんに怪我はなかったと聞いたし、一眠りしたおかげで事故を起こしたショックからも完全に立ち直った――そう信じて疑わなかった。
けれども、意気揚々と運転席に乗り込んで、いざパーキングブレーキを解除しようとしたとたん、私の身体はまたもや言うことを聞かなくなってしまったのである。
「立ち直りが早いのだけが取り柄だったのに……!」
「仕方がないだろう。それだけ、今朝の体験がココにとっては衝撃が大きかったということだ」
立てた両膝に顔を埋めてぐすぐす鼻を鳴らす私に、ノヴェルさんが寄り添ってくれる。
無謀さを指摘した彼に対し、時間が経ったら平気になるかもしれないとか、絶対うまくやってみせるとか、自信満々に大見得を切った今朝の自分がとてつもなく恥かしくなった。
「誰にだって、思い通りにいかないことはあるだろう。あまり気に病まない方がいい」
「ううう……はい……」
しょげ返った私の頭を、ノヴェルさんが優しくポンポンする。
そんな中でふと、トラウマに見舞われる私を前にした彼が、自身も覚えがある症状だと言っていたことを思い出した。
――もしかして、ノヴェルさんも過去に何かトラウマを負うような経験をしたんですか?
そう尋ねかけて、けれどすんでのところで言葉を呑み込む。
彼にとっては思い出したくないことかもしれないし、そもそも出会って間もない相手の過去に安易に踏み込むべきではないだろう。
ともあれ、いつまでも凹んでいるわけにはいかない。
私は両の頬をパンパンと叩いて気合いを入れると、勢いよく立ち上がった。
「私の人生、思い通りにいかないことばかりだけど……まだまだこれからですもんね!」
「うん、立ち直ったな。よしよし」
私の頭の上に乗っていた木の葉を摘んで、ノヴェルさんが満足そうに頷く。
それから二人して、地面に残されたブレーキ痕を遡った。
ブレーキ痕はやはり大きな木の前で唐突に途切れており、今朝は闇にしか見えなかったその向こうは切り立った崖になっている。
抜け穴も隠し扉も見当たらない硬い岩肌にペタペタと手のひらで触れながら、私は隣に立ったノヴェルさんを見上げた。
「私……本当にどうやってここへ来たんでしょうか。この先から、ずっと一本道を走って来たんです。本当に、本当なんですよ?」
「うん、ココが嘘をついているとは思わないよ。私も、木の向こうから……いや、木が戻る直前に君の乗ったキッチンカーが飛び出してきたのを目撃している」
崖の前に道を塞ぐように立っているのは一見何の変哲もない常緑樹だが、実は新月の夜の一定時間だけ姿を消す、摩訶不思議な木なのだという。
「今は見ての通り木はあって、その背後にも道はない。しかし、昨夜は存在していたんだ――ミランドラとアンドラを繋ぐ道がな」
「アンドラとを繋ぐ道……」
魔物の国アンドラは別次元にあり、人間の住むこの次元と繋がるのはミランドラ公国だけ。しかも、確実に繋がるのは新月の夜のこの場所だけなのだという。
国民が魔物であるというだけで、アンドラの基本的な構造は人間の国とさほど変わらない。
ただ、家柄や血筋よりも物理的な力が重視されるため、権力から溢れた低級の魔物などが身体的能力の劣る人間の世界で好き勝手しようと、ミランドラ公国にやってくるそうだ。
逆にいうと、人間と見紛うマノンさんのような高位の魔物がくるのは珍しいらしい。
「ミランドラ公爵邸は言ってみれば、そんな魔物の脅威からミランドラ公国やカルサレス帝国を守る盾だ。代々のミランドラ公爵は魔物の血を受け継いでいるがゆえに彼らに対抗する力を持っている」
「魔物に対抗する……ってことは、ノヴェルさんは魔物と戦ったりするんですか!?」
「必要とあればな。それで、今一度確認したいんだが……ココは、アンドラから来たのではないんだな?」
「は、はい! 私は日本という、魔物も魔力も存在しない国のしがない一般人です!」
私がなぜミランドラ公国に不法侵入する魔物と同じルートを辿ってしまったのかはさっぱり分からない。
しかもどうやら、来た道を遡れば元の世界に戻れるというような単純な話でもないらしい。
「私が知る限り、アンドラに続く闇の先に人間が行けた例はない」
「わ、私は……元いた場所には戻れないってことでしょうか……?」
「それは、私にも分からない。ただ、次にアンドラへの道が開くのは一月後――次の新月の夜だ。一月の間は、ココが元の場所に戻れるか否かを検証する手立てもないということだけは確かだな」
「ひ、一月……」
魔物が実在するなんて――そんな理の違う世界に来てしまっただなんて、できることなら夢やドッキリだと思いたかった。
けれども、私を取り巻く状況は、自分が超現実的事態に置かれていることをありありと突き付けてくるのだ。
またもやその場に体育座りをして頭を抱えてしまいたい衝動に駆られる。
しかし……
「一月も帰れないとなると……ココの家族や周りの者はさぞ心配するだろうな」
ノヴェルさんが労るようにそう呟いたとたん、私は逆に冷静になった。
「私を心配する人……」
そう口にしても、あいにく誰の顔も浮かんでこない。
友達はそれなりにいたと自負しているが、みんな就職したばかりだから自分のことで手一杯だろう。元彼氏とは、浮気が発覚して以来一切連絡を取っていない。
私がいなくなったことに、果たして誰が気づいてくれるだろうか。
なにしろ、私には……
「心配するような家族は、もう誰もいないから平気です」
こともなげに言ったつもりだった。
だが、うまくいかなかったかもしれない。
だって、痛いくらいにノヴェルさんの視線を感じた上……
「ミランドラにいる間、ココの生活と安全は私が保証しよう。何も心配することはない」
そう言って、また頭をポンポンされてしまった。




