7話 顔が綻ぶ
盛大に転んで土だらけになっていた私の服は、ミランドラ公爵邸のメイドさんが洗濯してくれているという。
アルヴァさんが代わりの服を貸すと申し出てくれたものの、彼女の衣装部屋にあるのはどれもゴージャスな、それこそ舞台衣装みたいなドレスばかりだったため丁重に……
「ご覧ください。これが、服に着られている、という状態ですよ」
「うん……アルヴァに押し切られたんだな。姉のわがままに付き合わせてすまない。彼女は昔から妹をほしがっていてな……」
断りきれず、レースとフリルがてんこ盛りのブラウスを着せられてしまった。
可愛いのは可愛いのだが、フェミニンな服を着慣れていないためどうにもこうにも落ち着かない。
アルヴァさんは妹ができたみたいとはしゃいでいたが、私には姉どころか堂々と兄弟と呼べる相手は一人もいないため、どう反応していいのかわからなかった。
一方で下は、比較的身長の近いメイドさんから私物のズボンを貸してもらえた。
なにしろ、私はこれから森の奥に置いてきたキッチンカーに戻って、もう一度運転を試みるつもりなのだ。ただでさえ運転が下手なのに、丈の長いスカートを履いては余計足元がもたついてしまうだろう。
カーンカーンと午後二時を知らせる鐘の音を遠くに聞きながら、ノヴェルさんとともに今朝方通った道を遡る。
その途中、私はずっと気になっていたことを尋ねた。
「マノンさんは、あれから大事なかったでしょうか?」
「彼に怪我はないよ。そもそも、怪我を負うほどぶつかってはいないはずなのだが」
招かれざるものだというマノンさんだが、現在ミランドラ公爵邸内にて拘留中らしい。ともあれ、彼に怪我がないならばそれに越したことはない。
ちなみに、ノヴェルさんとマノンさんはバンドを組んでもいなかった。
次いで、私はおずおずと続ける。
「あと、私が気を失う直前、何だか、あの、ペトッてしたトカ……いえ、とっても個性的な方を抱っこしたような気がするんですけど……」
「ヨルムのことだな。そんなに言葉選びに苦心せずとも、トカゲと言って差し支えないぞ。なにしろ、サラマンダーだからな」
「でも私、顔を見るなり気絶するなんて、とんだ失礼な真似を……。気を悪くされていないといいんですけど……」
「いや、あれはいきなり飛びついたヨルムが悪い。それに、むしろ喜んでいたぞ。なにしろココは、驚いても気絶しても、抱えていた彼を放り出したりしなかったからな」
私が卒倒するきっかけとなったサラマンダーのヨルムさん。
ペトッとした手触りの肌とトカゲみたいな顔は、着ぐるみではなかった。
そして……
「あれは古い魔物だ。長くこの地で人間と共存している、無害な存在だがね」
ヨルムさんは、魔物らしい。
さらに、私には人間にしか見えなかったマノンさんまで、魔物らしいのだ。
ミランドラ公国がカルサレス帝国なる巨大国家と魔物の国アンドラの境界に位置し、カルサレス皇帝の命を受けて人間と魔物の秩序を守っているという話は聞いた。
ミランドラ公爵家はカルサレス帝国議会にも席があり、現在帝都の屋敷には前ミランドラ公爵夫妻――ノヴェルさんとアルヴァさんのご両親が住んでいるらしい。
「三百年前の世界大戦において、カルサレス帝国は魔物の力を借りて大勝を収めたんだが、その際にアンドラの協力を取り付けたのが当時のミランドラ公爵だったんだ」
「な、なるほど……」
「その褒美として、カルサレス皇帝から公国を名乗ることを許されたらしい。さらに、アンドラの王女を妻に迎えたため、以降のミランドラ公爵家には魔物の血が入っている」
「ということは……ノヴェルさんやアルヴァさんにも、その魔物の王女様の血が流れている、ということですよね?」
つまり、自称〝ほぼ人間〟だというノヴェルさんの、その〝ほぼ〟以外の部分は魔物だったのだ。
やはりノヴェルさん自体がファンタジーなんだ! とおおいに納得した私だが、また一つ気になることが出てきた。
「トカゲ……じゃなくてヨルムさんとかさっきのシビレモグラとかは、魔物だけどこの国に普通に住んでいるんですね?」」
「ヨルムやシビレモグラは、ミランドラ公国ができる前から住んでいるからな。彼ら以外にも古くから人間と共存してきた魔物や、三百年前の世界大戦においてカルサレス帝国のために尽力し、その後この国で人間と番った魔物の子孫も大勢いるぞ」
「それなのに、マノンさんみたいに不法侵入とされる魔物がいるのはどうしてなんですか?」
「この世界において、魔物の血を引く者が市民権を得られるのはミランドラだけだ。今ここに生きる者達と人間の秩序を保つためにも、我々はこれ以上魔物が増えることを望まない」
かといって、カルサレス帝国に忍びこまれても困るため、新たにやってきた魔物は全てアンドラに送還することになっている、とノヴェルさんは言う。
三百年前の世界大戦で手を貸したとはいうものの、魔物の国アンドラとミランドラ公国は――その主君国であるカルサレス帝国は、敵対しているわけではないが国交もないらしい。
ふむふむと頷く私を、ふいに立ち止まったノヴェルさんが赤い目でじっと見つめた。
「私は……最初、君も魔物なのではないかと疑っていた」
「えっ!? に、人間ですよ? 少なくとも二十二年間、人間だと思って生きてきましたけど……」
私はおろおろしつつも、合点がいった。
最初、ノヴェルさんの態度が事務的で硬かったのは、私もマノンさんと同じ招かれざるものではと警戒していたからだろう。
彼はゆっくりと瞬きをして続ける。
「この世界に生まれたものは、魔物はもちろん、人間も動物も植物も、必ず魔力を持っている」
「魔力……また、ファンタジーな単語が出てきちゃった……」
「もちろん個人差はあるし、普通の人間や動植物が持つ魔力は微微たるものだ。しかし――ココからは魔力が全く感じられない」
「そ、そうですか……ええっと、私的には、それが普通なんですけど……」
魔力がないということは、この世界においては悪いことなのだろうか。
何だかどんどん不安になってきて、私は縋るようにノヴェルさんを見上げた。
自然と、こちらを見下ろしていた赤い目とかち合う。
しばしの沈黙の後、ノヴェルさんはもう一つ瞬きをしてから口を開いた。
「ココは……私の目を見ても平気なんだな?」
「えっ? あっ、いやだったですか!? ご、ごめんなさいっ!!」
私は平気だが、他人と目を合わせるのが苦手だという人は少なくない。
何度かノヴェルさんと目が合った覚えがあるが、その度に不快な思いをさせていたかもしれない、と私は慌てて顔ごと視線を逸らそうとする。
ところが、さっと伸びてきた大きな手のひらが、私の頬を包み込んでそれを阻んだ。
いきなりのことに息を呑んで固まる私に、ノヴェルさんが静かに言葉を続ける。
「この世界に生きるものは本能的に、自分より魔力の大きい相手とは目を合わせることが難しい」
「へ、へええ……」
「魔力の大きい者が小さい者の視線を搦め捕ることは可能だが、その場合は後者に並々ならぬ精神的負荷がかかるため、忌避される行為だ」
「な、なるほど……」
とはいえ、一般的な人間の魔力の保有量は微微たるもので、そもそも大きく差のある相手と出会うこと自体が稀だという。
また、互いの魔力の差が小さい場合は、目を合わせてもほとんど負荷がかからない上、慣れれば全く問題はなくなる。
と、そこまで聞いてはっとした私の目を、ノヴェルさんはわざわざ長身を屈めて覗き込んできた。
「――ココ、私の目を見てどう思う?」
「どう? どうって……えーっと……」
息がかかりそうな距離まで迫った端整な顔に、頬が熱くなるのを感じる。
うろうろと視線を彷徨わせていると、ココ、と窘めるみたいに名を呼ばれた。
魔力が全くないらしい私が、魔力があるはずのノヴェルさんの目を見ても平気なのは、違う世界で生まれた人間だからだろうか。
どうにか視線を正面に戻した私は、ゴクリと唾を呑み込んでから口の中で言葉を転がした。
「ノヴェルさんの目はですね……濁りがなくて、艶やかで、とってもキレイな色だと思います。それから――リンゴ飴みたいで、おいしそう」
「おいしそう? リンゴアメ、とは……?」
「小玉のリンゴに、砂糖と水を煮詰めたものをまとわせるんです。赤くて可愛くておいしいんですよ。私は好きです」
「そ、そうか……」
私の言葉に、ノヴェルさんは一瞬虚をつかれたような顔をしたが……
「はは……」
ふいに、小さく声を立てて笑ったのだ。
「なるほど、ココが好きなものか……それはいいな」
「はわ……」
その端整な顔が綻ぶ瞬間を至近距離で目撃した私は、たちまち言葉を……いや、語彙力を失う。
思わず両手を合わせて拝んだ私に首を傾げつつ、ノヴェルさんがしみじみと呟いた。
「こんな風に目を合わせたのも、この目を何かに例えたのも……もちろん、おいしそうなんて言ったのも、全部ココが初めてだ」




