6話 影を渡る
「もしもーし、お二人さん。お邪魔してもいいかしらー?」
笑いを含んだ女性の声に、私ははっと我に返る。
いつの間にか、ハリネズミ……ではなくシビレモグラが飛び出していったフェンスの向こうに二人の人物がいた。
車椅子に座った美しい女性と、黒髪と眼鏡の執事っぽい雰囲気の紳士である。
「ねえ、ノヴェル。あなたが小脇に抱えている可愛い子、姉さんに紹介してくれないの?」
悪戯そうな笑みを浮かべてそう続けたのは前者だ。姉というだけあって、瞳の色こそ青だったが、ダークブロンドの髪も顔立ちもミランドラさんとよく似ている。
「っていうか……ミランドラさんは、ノヴェルさんなんですか?」
「呆れた! ノヴェル、あなたまだ名乗ってもいなかったの!? 名前も知らない男の家に連れ込まれたこの子の身にもなってみなさいよ! 姉さんは、あなたをそんな配慮を欠いた大人に育てた覚えはないわ!」
「私とて、同い年の姉に育てられた覚えはないがな。そもそも、仕方がないだろう。仔細を共有する前にココが気を失ってしまったんだから」
ココ、と初めてミランドラさんに名前を呼ばれて、小さく鼓動が跳ねる。
いきなり呼び捨てにされても違和感がないのは、彼の見た目が西洋人っぽいからだろうか。
とにかく、事務的な態度に緊張を覚えた最初の時とは、もはや別人のようだった。
その右腕はいまだ私を抱え込んだままで、パーソナルスペースも何もあったものではない。
そんなミランドラさんのフルネームは、ノヴェル・ミランドラ。
お姉さんのアルヴァさんとは双子だそうで、年は二十八歳だという。
さらに、ミランドラさん改めノヴェルさんの肩書きを聞かされた私は目を白黒させた。
「公爵って、キャラ設定じゃなかったんですか? それに、くく、君主ぅ!? ――とんだご無礼つかまつりましたっ!!」
ここはミランドラ公国。公国とは公爵が君主を務める小国のことで、つまりノヴェルさんは公爵の称号を持つ貴族であると同時に、この国の王様だったのだ。
聞いたことのない国名、魔物が存在するという世界線――そこにいきなり放り込まれたこの状況をどう受け止めればいいのか分からない。
貴族や王様なんてものに馴染みのない現代日本で生まれ育った私にとっては、もはやその言葉自体がファンタジーだった。
「あわわわ……こんなに馴れ馴れしくしてたら……私、怒られるんじゃないですか!?」
「誰が怒るというんだ……こら、大人しくしなさい。ココは慌てるとすぐ転ぶだろう」
ノヴェルさんの肩書きに慄いて距離を取ろうとするも、背中に回った腕がそれを許してくれない。さらに、すでに二回彼の目の前ですっ転んだ前科のある私は反論も封じられてしまった。
ちなみに、額と膝を手当てしてくれたのは、アルヴァさんの車椅子を押す紳士らしい。
ロドリゲスと名乗った紳士は医師であるだけではなく、先代のミランドラ公爵から仕えるノヴェルさんの忠臣。アルヴァさんも、公爵補佐として事務方のトップを務めているそうだ。
「ご面倒をおかけして申し訳ありませんでしたっ!」
抜け出すのを諦めたノヴェルさんの脇の下から、私はひたすらペコペコ頭を下げる。
すると、アルヴァさんとロドリゲスさんが笑って言った。
「面倒だなんてとんでもない! むしろ大歓迎よ! ねっ、ロドリゲス?」
「ええ、アルヴァ様。ノヴェル様もたいそうご執心のようですしね」
「ノヴェルったらねぇ、朝からずーっとあなたのベッドの横で仕事していたのよ? 目が覚めて知らない場所に一人きりだったら、きっと不安だろうからって!」
「随分と疲れが溜まっていらっしゃったのか、よくお休みでしたね。ご気分はいかがですか?」
赤の他人が家の前で昏倒した上、七時間あまりも眠りこけていたなんて、普通に考えたら迷惑極まりないことだろう。
にもかかわらず、アルヴァさんとロドリゲスさんにはこんなに好意的な言葉をもらい、ノヴェルさんに至ってはずっと付き添ってもらっていたと知って、私は嬉しいやら申し訳ないやら、なんともムズムズとした心地になった。
色とりどりの花々に囲まれた彼らを見て、自分とは住む世界の違う人達だ、なんて勝手に隔絶を感じていたのが恥ずかしい。
私はノヴェルさんの脇の下で小さくなったまま、おずおずと口を開いた。
「お気遣いいただきありがとうございます。ここのところ開店準備に忙しくて寝不足だったんですけど……おかげさまで、めちゃくちゃスッキリしました」
「それはよかった。しかし、アルヴァとロドリゲスに用があって一瞬席を外した隙に目覚めるとは……」
思い通りにいかないものだ、とノヴェルさんが苦笑いをする。
ここでふと、私はさっき感じた疑問を思い出した。
「そういえば……みなさんは、あの庭の先にいらっしゃいましたよね? ノヴェルさんもご一緒に」
「うん、君が目覚めたのに気づいてこちらに来たんだが」
「それにしては、ノヴェルさんだけめちゃくちゃ早くなかったですか? そもそもどうやって私の後ろから? 忍者なんですか?」
「にんじゃ、とは。いや、そもそもココがシビレモグラに触ろうとするからだろう。走っても間に合わないと思ったから――影を渡った」
影を? 渡る? とは!?
ノヴェルさんはこともなげに言うが、どういう意味なのだろうか。
そんな私の疑問に答えてくれたのは、ロドリゲスさんだった。
「ノヴェル様は、影から影へ自由自在に転移する力をお持ちなのです。これは、歴代のミランドラ公爵は誰も成し得なかったことなのですよ。しかし……あんな血相を変えたノヴェル様を見たのは初めてですね」
「影から影へ……転移?」
つまり、さっき彼が背後から現れたのは、部屋の中へ伸びていた私の影を介して移動したためだというのだ。
なるほど分からん、である。
「ファ、ファンタジーだ……」
「うん、ふぁんたじー、とは?」
にわかには信じがたい話に、私はパカッと口を開けてノヴェルさんを見上げることしかできなかった。
ノヴェルさんの方も、そんな私の間抜け面を遠慮なく見下ろしている。
「ココちゃんって、本当にノヴェルと目を合わせられるのね」
「いやはや、何とも感動的な光景でございます」
アルヴァさんとロドリゲスさんが何やらこそこそと言い合っているが、この時の私はノヴェルさんのことで頭がいっぱいだった。
自称〝ほぼ人間〟だという彼の、その〝ほぼ〟以外の部分は一体何だというのだろう。
貴族やら王様やらの肩書き以前に、ノヴェルさん自体がファンタジーだった。




