47話 誰よりも強くなる
ザリリッ、と鋭い爪が地面に食い込んだ。
闇そのもののごとく真っ黒い毛に覆われた前足なんて、それこそ大木の幹のよう。
足一本でこの大きさなのだ。全身を現せば、いったいどれほどの巨体であろうか。
私はゴクリと唾を呑み込む。ドクドクドク、と心臓がうるさいくらいに脈打っていた。
と、その時である。
「みゃー!」
そんな可愛い声を上げながら駆け出す、小さな影があった。ボルトちゃんだ。
今宵アンドラに送還されるために幌馬車に乗せられていたはずだが、横転した拍子に外へ放り出されていたのだろう。
私があっと声を上げた時にはもう、ボルトちゃんは巨大な前足にたどり着いてしまっていた。
そうして、みゃーみゃーとしきりに甘えるような声を上げながら、それに頬擦りする。
するとどうだろう。闇の奥からも、なぁん、と重々しい鳴き声が返ってきたではないか。
私は思わずオーナーと顔を見合わせた。
「もしかして……あれ、ボルトちゃんのお父さんかお母さんの前足……?」
その時、たっと駆け出したのは、キッチンカーから降りたワットちゃんだった。
オーナーの腕から下ろしてもらった私も、慌ててその後を追う。
すでに一度別れは済ませたはずなのに、未練を断ち切るのはとても難しいことだ。
顔を近づけ鼻キスを繰り返す二匹に、私の涙腺が崩壊しないわけがなかった。
「ボルトちゃん……この一月、一緒にいてくれてありがとう……元気でね……」
「みゃあ」
別れを惜しむボルトちゃんとワットちゃんの背中をそれぞれ撫でる。
二匹の目が潤んでいるのも、気のせいではないはずだ。
私は、闇から突き出た巨大な前足もそっと撫でた。
「ボルトちゃんのお父さんかお母さんもありがとう……この子に出会わせてくれて、ありがとう」
なぁん、と再び闇の奥から返ってきた鳴き声は、心なしか優しく聞こえた。
涙、涙の別れである。
ワットちゃんを抱えてグスグス鼻を鳴らす私の肩を、オーナーがそっと抱いてくれた。
ボルトちゃんをくっつけて、巨大な前足は闇の奥へ引っ込んでいく。
その後に、送還する魔物達を乗せ直したヨルムさんの幌馬車が続いた。
カラカラという車輪の音が闇の奥へ遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなる。
辺りはしんと静まり返った。
「――いや、なんでだよ!? 約束が違うんですけど!?」
突然、静寂を破ったのはマノンさんこと小さなドラゴンの悲鳴だった。
増援としてくるはずだったらしい兄や姉達が、一向に姿を表す気配がないからだ。
マノンさんは愕然とした様子で地面に座り込む。
その前につかつかと歩み寄り口を開いたのは、アルヴァさんを抱いたロドリゲスさんだった。
「おやおや、可哀想に……兄上や姉上にからかわれたんですねえ――ぼうや?」
「ぼ、ぼうやだと!? あんた、誰に向かって……」
マノンさんが、キッと彼を睨み上げる。
しかし、その顔はすぐさま凍り付いた。
「おそらく、聞き耳を立てていらっしゃるでしょうから、ご忠告申し上げておきますね。――王子殿下並びに王女殿下の皆々様」
ロドリゲスさんが森の奥の闇に向かってそう呼び掛ける。
どんな表情をしているのかは私からは見えなかったが、彼の腕に抱かれたアルヴァさんが「わお……」と呟いたから、さぞかし「わお……」な感じなのだろう。
「世間知らずの末っ子をミランドラにけしかけて遊ぶだなんて、大人げないことをなさいますな――次は、ありませんよ?」
それは、とても優しく静かな声だった。
それなのに、さっきボルトちゃんのお父さんかお母さんの前足が現れた時よりも、ずっと私の鼓動は激しくなった。
そんな私の肩をぐっと抱き寄せ、オーナーもまた静かな声で問う。
「ロドリゲス――お前は、何者なんだ」
「ご心配なく、ノヴェル様。誓って、ミランドラに仇なすことはありませんし、今はただのあなたの部下です」
そう答えて振り返ったロドリゲスさんの顔には、いつもと変わらない穏和な笑みが載っていた。
すると、その頬にちゅっとキスをして、アルヴァさんが驚くべき事実を告げる。
「このひとはね、三百年前にミランドラ公爵に嫁いだ、アンドラ王女の父親よ。つまり、アンドラ女王の元夫」
「アルヴァ……お前、知っていたのか」
「うん。結婚してって言い続けてたら正体を明かされて、年の差を理由に断られたの。まあ、諦める気なんてさらさらないんだけど!」
「いやはや……アルヴァ様には敵いませんねぇ」
つまり、ロドリゲスさんの亡くなった娘さんというのは、最初にミランドラ公爵に嫁いだアンドラの王女様だったというのだ。
私は、ポカンとした。
おそらくオーナーも同じ心境だっただろうが、パカッと口を開いた私の顔を見て冷静になったのだろう。
私の間抜け面はオーナーの沽券を守ったのだ。
ちなみに、マノンさんも顎が外れそうなくらいになっている。
「なぜ、アンドラ女王の夫であったような高位の魔物が、ミランドラ公爵家に仕えているんだ。父や母も、このことを知っているのか?」
「ええ、前公爵ご夫妻はご存知ですよ。私は、あなたとアルヴァ様が生まれたためにミランドラ公国に参りました。お二人の出生に、女王陛下が手を加えたと知ったものですから」
これまで三百年間、ミランドラ公爵家の最初の子供は例外なく多胎児として魔力を分け合って生まれてきた。
にもかかわらず、オーナーとアルヴァさんに限り、前者が全ての魔力を受け継いでしまったのは、アンドラ女王が干渉したせいだというのだ。
人間の身には余る強大な魔力を意図的に押し付けられたオーナーを、そして意図的に無力にされてしまったアルヴァさんを案じたロドリゲスさんは、この姉弟の人生に寄り添うと決めたという。
「どうして……どうして、女王様はオーナーとアルヴァさんにそんなことをしたんでしょう……」
思わずそう問う私に、ロドリゲスさんは困ったような笑みを浮かべて言った。
「陛下のお気持ちが分かるのは……もしかしたら、この世界で誰よりも大きな魔力を持ったノヴェル様だけかもしれませんね」
大きな魔力を持って生まれたがゆえに、誰とも――親兄弟とも目を合わせることもできないというオーナー。
彼と同じように、いやもしかしたらそれ以上に、魔物の玉座に座るアンドラ女王は孤独なのかもしれない。
「陛下は、ノヴェル様が生まれた時から――いいえ、生まれる以前から、あなたに期待をかけているのです」
「いかに魔力が大きかろうとも、私は人間だ。それ以上のものには……なれない」
「そうですね。あなたはご自分にそう言い聞かせてきた。これ以上、人間の理から外れることを恐れるあまり、淡々とした日々の中で向上心を失い成長を止めてしまった。陛下はそれを憂い――その結果、ココさんが今ここにいる、と私は推測します」
「ココがこの世界に来たことに、私が関係しているというのか?」
ロドリゲスさんは推測に過ぎないとは言うものの、キッチンカーが世界を渡ってきた理由に突然言及されてしまっては驚きを隠せない。
目を丸くする私とオーナーに、ロドリゲスさんは穏やかに続けた。
「陛下は、ノヴェル様がありのままの自分を受け入れ、魔物の血を引くものとしてさらに強くあることを――そしていつか、陛下ご自身を凌駕することを望んでおられます」
魔力が皆無な異世界人である私が呼ばれたのは、魔物の血を引くとか魔力が強いとか、全部抜きにしてオーナーを受け入れられる存在を求めたため。
つまり、私をこの世界に連れてきたのはアンドラ女王であり、私がオーナーの目をまっすぐに見られることも、私達が心を通い合わせることも、彼女の筋書き通りだったというわけだ。
「私のせいか……私のせいで、ココはこちらの世界に引っ張り込まれてしまったのか……?」
オーナーはとたんに責任を感じ始めた様子だったが、私は他にもっと気になることがあった。
「ロドリゲスさん……私が選ばれたのは、偶然ですか? 必然ですか?」
「おそらくは、偶然だと思います。先の新月、マノンさんという高位の魔物が通ることで乗じた歪みに、ちょうど深い闇の中にいたあなたが引き込みやすかったのでしょう」
つまり、私じゃなくて別の異世界人でもよかったのだ。
はっとした私は、隣にいたオーナーの脇腹にしがみついた。
「わああっ、だめだ! だめですよ、オーナー! 絶対! だめ! ですっ!!」
「うん、ココ? だめ、とは?」
「だって! 一歩間違えれば、私じゃない誰かが今こうしてオーナーの側にいたかもしれないんですよ? そんなの、だめです! めちゃくちゃ……めちゃくちゃめちゃくちゃ、嫉妬します!」
「ココ……」
オーナーの胸の奥から聞こえる鼓動が早まったかと思ったら、ぎゅっと抱き返される。
彼は、私の額にぐっと唇を押し当てて言った。
「私とて、ココ以外をこうして抱き締めるなんて考えられない――いや、考えたくもない。アンドラ女王の思惑など知ったことではないが、ココを呼んでくれたことだけは感謝してもしきれないな」
アンドラ女王が本当に私をこの世界に連れてきたのだとしたら、もしかしたら戻る術も彼女が持っているのかもしれない。
私の意思も事情も顧みずに世界を渡らせた魔物の女王様が、いつどんな気まぐれで、私をこの世界から放り出そうと思い立つかもしれない。
それを思うと、無力な私は不安になってしまうが……
「ココさんと出会って、ノヴェル様の世界は確実に広がりました。ココさんに振り回されて、さまざまな表情を浮かべるあなたにミランドラの民は親しみを覚え、あなたもまた彼らを改めて尊く感じたでしょう。陛下のためではなくていいのです。ご自身と、ココさんと、それに連なる多くの大切なもののために、強くおなりなさい」
「ああ……ココも、ミランドラも、私が守ろう。世界からも――もちろん、アンドラ女王からもな」
ロドリゲスさんの言葉にきっぱりとそう答えたオーナーの頼もしさが、全部吹き飛ばしてくれたのだった。




