45話 きっぱりと否定する
雲がかかって真っ暗だった先の新月とは違い、今宵の空には無数の星々が輝いていた。
しかしながら、ミランドラ公爵邸の背後に広がる森の最奥は、前回と変わらず濃厚で冷ややかな闇に満たされている。
本来この場所には大きな木が一本立っており、その向こうには切り立った崖があるだけなのだが、新月の夜だけはそこに道が――魔物の国アンドラとを繋ぐ道が、このように闇の姿で現れるのだ。
歴代のミランドラ公爵でただ一人、影を渡る稀有な力を持つノヴェルにとって、闇は身近な存在だった。
影を渡る時、彼もまた闇に溶け込む。
人間であるはずのその肉体を闇の侵食から守るのは、彼が生まれ持った人間らしからぬ強大な魔力だ。
逆を言えば、ノヴェルに匹敵する魔力を持つ者か、生粋の魔物でなければ闇に呑まれてしまう。
にもかかわらず……
(あの時……ココは確かに、この闇の向こうからきた)
前回の新月の夜、人間には生きて通れないはずの闇の中からノヴェルの前に現れたのは、かけらも魔力も持たない――けれど、この世界の誰一人として見られない彼の目をひたむきに覗き込む娘、ココだった。
明るくて前向きで人懐っこくて、そこにいるだけで周囲を笑顔にする彼女を、ノヴェルは気がつけばいつも目で追っていた。
いや、楽天的で危なっかしくて、目が離せなかったというのもある。
すぐ泣くくせに、恋人からの裏切りや、父親の心無い仕打ちを語る時は一切涙を見せず、それがかえって痛ましく、そしてたまらなく愛おしかった。
そんなココを、元の世界に帰さないと決断したノヴェルは、アンドラと繋がる新月の闇が影響するのを恐れ、彼女をミランドラ公爵邸に置いてきたのだ。
その側には、古い魔女エッダと自身の姉アルヴァが付いていた――はずだった。
ところが、事態は思わぬ展開を見せる。
突如、ミランドラ公爵邸の方から金色の光が現れたかと思ったら、それは翼をはためかせた一匹の大きなドラゴン――しかも、その小脇にアルヴァを抱えていたのだ。
「アルヴァ……何があった!?」
「安心して、ノヴェル! ココちゃんは無事よ! この子は、あのマノンって名前の魔物! 急に窓を割って部屋に入ってきたのっ!!」
ココが無事と聞いてほっとしかけたものの、ノヴェルは続けて姉の口から告げられたドラゴンの正体に驚きを隠せなかった。
「この子、アンドラ女王の息子だって! エッダが父親を知っているらしいから、たぶん間違いないわ!」
「女王の……!?」
思ってもみなかったマノンの肩書きに、ノヴェルは赤い目を見張った。
ミランドラ公国で捕獲した魔物は、幌馬車に乗せてアンドラに送還する。
御者を務めるのは、闇を通っても支障のないサラマンダーのヨルムで、手綱の先にいるのは彼所有のアンドラ産の馬だ。
この一月で捕まえた、蝶の魔物やその子達、魔力を糧とするスライム、ノヴェルにかすり傷を負わせたワイバーン、それからココがボルトちゃんと名付けて可愛がっていた猫のような魔物も、この幌馬車に乗せられていた。
そして、マノンという名の人の形をした魔物も、ミランドラ公爵邸の庭を出発した時には確かにその中にいたはずなのだ。
「どういうことだよ! あのにーちゃんも間違いなく幌馬車にぶち込んだはず……って、なんじゃこりゃあああ!?」
「おおお……腐って蕩けちまったのかい!?」
「違いますよ、スライムです……どうやら、まんまと騙されてしまったようですね」
地下牢から魔物を連れ出す役目を担っていたドットと御者台のヨルムが、件の幌馬車を覗き込んで素っ頓狂な声を上げた。
ロドリゲスの顔からも、いつもの穏和な笑みが消えている。
さっきまで確かにマノンの形をしていたものが、いつのまにか青いゼリー状のスライムに変貌を遂げていたのだ。
これは、先の新月の夜に捕らえて地下牢に入れられていた個体で、月の半ばにカルサレス帝国の国境へと続く森で捕獲した緑色のスライムとは別物だ。
あちらは魔力を吸い取るものだったが、こちらはどうやら擬態を得意とするらしい。
「まさか……先日脱走を図ったのは、地下牢に入ってこのスライムに姿を写させることが目的だったのか?」
「そのまさかだよ。時間稼ぎにはなったでしょ? あとね、もう一匹の緑色のやつからは魔力をどっさりもらったんだよね」
その言葉通り、マノンだという金色のドラゴンは力を漲らせて輝いていた。
比喩ではなく、実際に彼の身体全体が光り輝いていたのだ。
それはまるで、隠れた月の代わりのように辺りを眩く照らし続けた。
新月にふさわしくない明るさに、闇までもザワザワと騒ぎ始める。
「どう? これだけ光っていれば、僕の側には影なんてできないでしょ。あんたにいきなり距離を詰められるのは、さすがに困るからね」
「――何が目的だ」
マノンは翼をはためかせ、空中に留まっている状態だった。
さしものノヴェルも、飛び上がって届くような高さではない。
とはいえ、影さえあれば、高さも距離も彼の前では無意味になる。
マノンはそんなノヴェルの能力を正しく理解した上で、発光することによって自分の側に影を作らない対策を取ったというわけだ。
目的を問われたマノンは、待ってましたとばかりに続ける。
「このオネーサンをそこの闇に放り込まれたくなかったら――ミランドラがアンドラに下るか、それともその魔力の全てを差し出してただの人間に成り下がるか、どっちか選んでよ」
「――何だと?」
「おやおや、突拍子もないことを言い出しましたね」
ノヴェルは、隣に来たロドリゲスと顔を見合わせる。
そんな二人を見下ろして、マノンが続けた。
「かつて魔物の力まで利用して領土を広げた、あの野心家なカルサレス皇帝の末裔が、世界の半分を掌握しただけで満足しているわけがなかったんだよね」
「……何が言いたい?」
「とぼけなくていいよ。アンドラはもう知っているんだ――カルサレスが再び世界大戦に打って出ようとしていることも、そのためにまた魔物を利用しようと企んでいることもね」
「……」
今度は、ノヴェルもロドリゲスも口を噤んだ。
というのも、カルサレス帝国で再び戦争の気運が高まっていることも、そのために魔物の力が必要だという声が上がっていることも、事実だったからだ。
現カルサレス皇帝は好戦的な人物で、三百年前の大戦で勝利を収めた先祖に心酔していた。
いつかその偉業を倣おう――いや、それを超えて世界を掌握する大王になりたいという野望を抱いていたのだ。
そんな夢物語が現実味を帯びてきたのは、東の果ての小国で起こった小競り合いが発端だった。
これを属国としていたのは、カルサレス帝国の東と国境を接する巨大な宗教国家。
大陸での覇権を二分する相手である。
小国での小競り合いがやがて東側諸国を巻き込んだ独立戦争へと発展していくと、これを見ていたカルサレス皇帝は、背後からかの宗教国家を叩こうと思い付いた。
ミランドラ公国にも、三百年前の世界大戦で先陣を切ったベルセルクの末裔達を前線に差し出す準備をするよう勅命も届いている。
しかし、ノヴェルはきっぱりと言った。
「カルサレスが戦争を起こすことも、私が魔物の末裔達をそれに差し出すことも、ない」
現在カルサレス帝国議会では、皇帝に賛成するものと反対するものとで意見が分かれている。
ノヴェルの代わりに帝国議会に参加している前ミランドラ公爵は後者であり、領事館で幾度か行われていた会談の内容もこれについてだった。
さらに、先日ココのクレープを所望した高貴な御仁というのが、この反対派の筆頭である。
とにかく、マノンが言うような事態にはならないしさせない、とノヴェルは断言する。
そんな彼を、金色のドラゴンは胡乱な目で見下ろした。
「この一月、あんたを――ミランドラを観察していて確信した。影を渡れるあんたはアンドラに来ることも、並み居る魔物達と渡り合うことも不可能じゃないだろう。たかが人間一匹と侮っていたよ」
それなのに、と彼は続ける。
「人間ってのはさ、結局は肩書きの前では従順なんだよね。自分より弱っちいやつでも、相手の方が身分が高かったら従うんだ――まったく、魔物には理解できない秩序だよね」
この世界の誰よりも大きな魔力を持つノヴェルも、カルサレス皇帝家に忠誠を誓っている。
それは、物理的な力が権力と直結する魔物の世界では考えられないことなのだろう。
「捨てちゃいなよ、そんな理不尽な秩序なんて。アンドラに下れば、あんたがこの世界の覇王になれるかもしれないよ? そしたら、こんなにちまちま雑魚魔物を捕まえ続ける不毛な毎日からおさらばできるんじゃない?」
そう告げたマノンの表情は、子供のように無邪気にさえ見える。
しかし、魔物の甘言にノヴェルが揺らぐことはなかった。
「勘違いしているようだが」
光に慣れてきた彼の赤い目が、マノンをまっすぐに見据える。
ぱっ、と本能的に目を逸らしたドラゴンは、とたんに悔しそうに顔を顰めた。
自分はノヴェルに敵わない、人間のはずの彼よりも弱い、と証明したのと同じだからだ。
月のように空に浮かんで輝くドラゴンに気づいたのか、ミランドラ公爵邸の方も何やら騒がしくなってきた。
ノヴェルは、それを背に庇うようにしてマノンと対峙する。
「私はミランドラ公爵――このミランドラ公国の主だ。ここには、多くの人間が魔物やその末裔と共存を果たしている。私が人間としての秩序を守ることは、今いる彼らの日常を守ることだ。これは、けして譲ることはできない」
もしも、アンドラのような力がものを言う世界になってしまえば、魔物やその末裔とそれ以外の人間の間には必ずや軋轢が生まれるだろう。
そんなもの、きっとミランドラ公国の誰もが望まない未来だとノヴェルは断言する。
マノンの赤い目がすっと細まった。
「つまり、交渉決裂ってこと?」
「お前の要求を呑むことはできない」
「じゃあ、このオネーサン、アンドラにもらって帰るけどいいよね? あっちに着く頃には、息してないかもだけど」
「そんなことはさせない――これ以上、アルヴァの何も犠牲にさせない」
その時である。
幌馬車の中で待ちぼうけを食らって焦れたのか、いきなりワイバーンが暴れ出した。
その拍子に幌馬車が横転し、ぎゃっと悲鳴を上げてヨルムが御者台から投げ出される。
これが合図となった。
その場に居合わせた全員が、同時に動き出したのだ。
マノンはアルヴァを抱えたままアンドラに通じる闇へと飛び込もうとし、アルヴァは逃れようとその腕に噛み付いた。
ロドリゲスはマノンの行く手を阻もうと闇に向かって駆け出し、ドットは一人幌馬車から逃げ出した連中の確保に向かう。
そして、ノヴェルは――
「アンドラ女王には悪いが、今回ばかりは無傷で帰せないな」
瞬時に作り出したハルバードの鋒をマノンに向けて狙いを定めた――刹那。
ビー! ビッ、ビッー!!
「――っ!?」
突如けたたましい音を立て、ミランドラ公爵邸の方からすごい速さで何かが近づいてきた。
ピカッと光るのは二つの大きな目玉――いや、灯りだ。
灯りはみるみる近づいてきて、やがてマノンの光を受けてその全貌が照らし出される。
キッチンカーだった。
そして、それを運転しているのは……
「――ココ!?」




