43話 不測の事態に陥る
「――はああ!? 私とドットが恋人同士、だってぇえ!?」
私の向かいのソファに小さな身体を沈めて素っ頓狂な声を上げたのは、魔女のエッダさんだった。
今宵はいよいよ新月――ミランドラ公国の東端にある森の奥に、魔物の国アンドラとを繋ぐ道が現れる、月に一度の夜である。
その森の前に、人間の国を守る盾として立ち塞がるミランドラ公爵邸は、静かな緊張に包まれていた。
先の新月の夜、私がなぜアンドラへ続く道の先からこの世界にやってきたのかは分からない。
その時と状況が重なる今宵が私にどんな影響を及ぼすとも知れないため、夜が明けて道が完全に消えるまで自室から出ないようオーナーに言いつけられていた。
元の世界に帰らない――つい先日、私はそう決めたのだから。
この一月は魔物の出現率が多かったこともあり、オーナーやロドリゲスさんに加え、各班の班長であるドットさん、エッダさん、ヨルムさんもミランドラ公爵邸に集結していた。
中でもヨルムさんは、送還する魔物をアンドラまで馬車に乗せていく役目を担うらしい。
一方、エッダさんは私の部屋で待機することになったため、アルヴァさんも加わって夜の女子会と相成った。
掃き出し窓の側に、私とエッダさんはテーブルを挟んだソファで向かい合い、扉に背を向ける形でアルヴァさんの車椅子が置かれた。
「ココ、なんだって私があの犬っころと付き合ってるなんて発想が出てきたんだい?」
紅葉のような両手で紅茶のカップを持ち上げて、エッダさんが首を傾げる。
私は逆にカップを目の前のテーブルに戻し、だって、と口を開いた。
「ドットさんと、先日の奥様運び競争に出場したじゃないですか。あれ、夫婦か恋人同士でないといけないんでしょう? だから、てっきり……」
「夫婦か恋人同士? お前さん……それ、いったい誰から聞いたんだい?」
「オーナーですよ? 常連のお客さんから蚤の市のチラシをもらったんですけど、字が読めなかったからオーナーに説明してもらったんです」
「「ノヴェルが!?」」
エッダさんとアルヴァさんが声をハモらせたかと思ったら、どっと笑い出す。
ボルトちゃんとの別れにしょんぼりしていたワットちゃんが、私の足下で驚いて、バババッと背中の針を立てた。
え? え? と戸惑う私に、エッダさんとアルヴァさんがひーひー笑いながら口々に言う。
「いやー、ココ! お前さん、一刻も早く字を覚えな? じゃないと、悪い男に騙されるよ!」
「わ、悪い男……?」
「ノヴェルみたいに紳士ぶった男が、なりふり構わなくなってきた時が一番厄介なのよね! あの人、いったいどんな顔をしてココちゃんに嘘を教えたのかしら?」
「うう、嘘っ!?」
ぎょっとする私に、アルヴァさんとエッダさんは、小さい子供に言い聞かせるように続けた。
「あのね、ココちゃん。奥様運び競争っていう名前だけど、男女で出場するなら別に夫婦や恋人じゃなくてもよかったのよ? 実際先日の参加者の中には、友達同士や兄弟姉妹、ただのご近所さんって組もあったわ」
「ええっ!? でも……でも、最後の締め括りにご褒美のキスって……」
「完走できた組がたまたま近しい間柄の者ばかりと察したヨルムが、ノヴェルに気を利かせたんだろうよ。例年はあんな締め括りしないからね」
「オーナーに気を利かせて……? いえ、そもそもオーナーはどうして、私にあんな誤解をさせるようなことを言ったんでしょう……」
アルヴァさんは嘘を教えたと言うが、オーナーは嘘はついていない。
奥様運び競争というからには夫婦しか出場できないのかと肩を落とす私に、恋人同士でも可能だと言っただけなのだ。ただし、おそらくは夫婦か恋人同士でないといけないと私に誤解させる意図はあっただろう。
首を傾げる私に、エッダさんとアルヴァさんがニヤニヤしながら言う。
「そんなの、たとえ仮にでも、ココの恋人の座に収まりたかったからに決まってるだろうが」
「そーよぉ。そして、一度手に入れたその座を他の誰かに譲る気なんてさらさらないわよ、あの人」
あの頃にはすでに、オーナーに憎からず思われている自覚はあった。
けれど、いつも紳士然として余裕に溢れている彼が、私を丸め込んでまで恋人という形に拘っているとは思いも寄らなかった。
自分の顔が赤く染まっていくのをまざまざと感じた私は、これ以上茶化されるのを逃れるために二人に話を振る。
「そ、それじゃ、エッダさんとドットさんは付き合ってないんですか? すごく可愛いカップルだと思ったのに!」
「ないないっ! 犬っころは犬っころだもの! まあ、あいつのひいひいひい爺さんとなら一瞬付き合ったことがあるけどね。狼男はだめだ。がっつき過ぎててこっちの身が持たないよ。十日で別れた」
「えっ、生々しい……。じゃあ、アルヴァさんは? アルヴァさんとロドリゲスさんは絶対付き合ってるって常々思ってたんですけど!」
「残念ながら、ただいま十三連敗中でーす。十五の頃から年に一度は告白してるんだけど、ずーっとフラれっぱなしよぅ」
エッダさんがドットさんとの関係をあっさり否定する一方、アルヴァさんはアンニュイなため息を吐いて肩を竦める。意外な答えに私は目を丸くした。
「年の差がありすぎるって言うのよ。そういう、努力ではどうしようもない理由で断るのって、ずるいと思わない?」
「そうですね……でも、アルヴァさんとロドリゲスさんくらいの年の差カップル、私の世界にも結構いましたよ? そんなに気にすることないと思いますけど……」
ロドリゲスさんの年齢は知らないのだが、雰囲気的にオーナーやアルヴァさんより一回りくらい上だろうか。
それにしても、十三年間も一人の相手を一途に思い続けるなんて、アルヴァさんのいじらしさに私は胸を打たれる。
傍目には、ロドリゲスさんも彼女を憎からず思っているように見えるのだが、人の心は難しいものだなとしみじみと感じた。
「でもさぁ、今夜を越えたらノヴェルも一安心でしょうね。ココちゃんはうちに残ることを選んでくれたし、あのマノンって子はアンドラに戻るしで」
「マノンさん? どうしてここで、マノンさんが出てくるんですか?」
思いがけない名前が話題に上って、私はまた首を傾げた。
三日前、キッチンカーを片付けている最中にマノンさんから囁かれた、二人でこっそりミランドラ公国を出ようという誘いは、単なる冗談で済ませるのが難しいほどの真剣味を帯びていた。
オーナーが、この先もずっと私の人生に付き合ってくれると断言できるのか。
元彼氏のように、突然私を裏切るようなことがないと言い切れるのか。
あの時、マノンさんに投げかけられた言葉が気にならないと言えば嘘になる。
けれども、元の世界には帰らないとはっきりと自分の口から宣言し、帰さないとオーナーに断言してもらった今は、もう惑わされるつもりはなかった。
一方、私とマノンさんの内緒話など知らないはずのアルヴァさんが、驚いた顔をして続ける。
「えっ、もしかして気づいてないの? あの子、ココちゃんにやたらとちょっかいを出してたでしょ。ノヴェルったら、その度にヤキモキしてたのよ?」
「ちょっかいって……まあ、揶揄われたり、意地悪言われたりはしましたけど……」
「好きな子ほどいじめたいお年頃なんじゃないかしら。あのマノンって子、なんだかんだ言いつつよくキッチンカーを手伝ってたでしょ? 魔物は、やりたいことしかしないのよ」
「そんな、まさか……小学生男子じゃあるまいし……」
とはいえ、マノンさんと会話を交わしたのは、結局三日前の夕方が最後となった。
あれから彼がキッチンカーに顔を出さなくなったと思っていたら、なんと監護役も付けずにミランドラ公爵邸から脱走しようとして地下牢に放り込まれてしまっていたのだ。
最初に会った時にキッチンカーをぶつけてしまったことを改めて謝っておきたかったし、何度も店を手伝ってくれたお礼も言いたかった。
それに、最後にちゃんとお別れを言いたかったのだが、結局どれも叶わなかった。
「ともあれ、何事もなく朝を迎えられるといいんだがな」
飲み終えた紅茶のカップをテーブルに戻し、エッダさんがぽつりと呟く。
どこからどう見ても幼女なのに、ソファに座って足を組んだ姿には風格があった。
最初に会った時と同じ、真っ赤なワンピースとキャラメル色のブーツを履いた彼女に対し、私とアルヴァさんはネグリジェの上にガウンを羽織っている。
マノンさんにぶつけてしまったことで私には運転できなくなったキッチンカーは、テラスの向こうに置かれているはずだが、今は闇に沈んでしまっていて輪郭さえも見えなかった。
もうそろそろアンドラへの道は開いたのだろうか。
マノンさんも、そしてボルトちゃんも無事帰れたのだろうか。
寂しそうなワットちゃんを見下ろす私の向かいで、ふいにエッダさんが神妙な面持ちになった。
「しかし、あのマノンってやつ……どこかで会ったような気がするんだが……」
「どこかって、アンドラでじゃないの? あの子がミランドラに来たのは、今回が初めてでしょ?」
エッダさんやヨルムさんのような生粋の魔物は、新月の夜の道を通ってミランドラ公国とアンドラを行き来することができる。現在両国間に国交はないものの、敵対しているわけではないからだ。
さて、マノンさんをアンドラで見かけたのはいつだったか、とエッダさんが記憶の糸を手繰り寄せようとしていた時である。
コンコン、とノックの音がその場に響いた。
廊下に面した扉ではなく、掃き出し窓の方から。
「……っ!?」
弾かれたみたいに窓に顔を向けた私は、絶句した。
エッダさんとアルヴァさんも、ぎょっとした顔をしている。
何しろ、掃き出し窓の向こうに立ってこちらに手を振っていたのは……
「――マ、マノンさん!?」
今まさに話題に上っていた人――いや、アンドラに帰らねばならない魔物、マノンさんだったからだ。
私と目が合ったとたん、にやりと笑った彼の口からは鋭い鋭い牙が覗く。
次の瞬間――
ガシャーン! と大きな音を立てて窓ガラスが割れた。
飛び散った破片から逃れようと後退った私を追いかけるように、マノンさんが部屋の中に入ってくる。
いや――その姿はもう、この一月で見慣れた金髪の美男子ではなくなっていた。
「マノンさん――ドラゴン、だったんですか!?」
私の目の前に立ったのは、金色に輝く身体をした、赤い目のドラゴンだったのだ。




