39話 頬を差し出す
「えええええーっ!?」
まさかもまさか、いきなりのリアルフリーフォール!
あーっ! と私の上げたあらん限りの悲鳴が、すり鉢状の裏庭に反響した。
これにはさしものメルさんも、ようやく頂上から顔を出した後続の面々もぎょっとする。
無謀だ何だといつも私に説教をするオーナーらしからぬ、突拍子もない行動だった。
いやしかし、それはあくまで私の主観であって、オーナーにとっては通常運転だったのかもしれない。
彼が無謀なわけでも自棄になったわけでもないと、すぐに証明されることになる。
メルさんトニさん夫婦を飛び越して、もう少しで水面に到達するかと思われた時だった。
オーナーが、この時を待っていたとばかりにロープを持つ手にぐっと力を込める。
常人ならば、肩を壊すなり腕を脱臼するなり、ロープの摩擦で手のひらを火傷するなりしそうなものだが、彼は涼しい顔をしたままだ。
振り子の要領で壁に叩きつけられそうになるも、靴の裏でその衝撃を受け流しつつ、しかもスピードを完全に殺すこともなく滑り下りていく。
「んんんんんっ……!!」
ガガガッとオーナーの身体を伝って響いてくる衝撃に振り落とされまいと、私は必死に彼の首筋にしがみついて歯を食いしばった。
私を抱くオーナーの腕にもますます力がこもる。
やがて、バシャン! と大きく水飛沫が上がった。
無事着地を果たしたのだと分かったが、私はビリビリとした余韻に苛まれて身動きが取れない。
辺りは水を打ったように、しんと静まり返っていた。
固まった私を抱いたまま、オーナーがバシャバシャと水の中を歩く音だけが響く。
ゴールとなる木箱の上では、ワットちゃんとボルトちゃんに挟まれたヨルムさんが、パカッと大きく口を開けていた。
その手から取り上げたトロフィーを、オーナーが高々と掲げた――そのとたん。
わあああっ!! と凄まじい歓声とともに、割れんばかりの拍手が沸き起こったのである。
「うーん……なんかちょっと、反則に近いような気もするが……まあ、盛り上がったからいいだろう!」
「さしもの俺も、この歓声に水を差す勇気はねえな」
ようやく我に返ったヨルムさんが、続いてゴールしたメルさんと苦笑いを交わす。
メルさんはトニさんを抱いたままオーナーに近づいてきて肩を竦めた。
「公にはしてやられたな。まったく……澄ました顔して、泥臭い勝ち方しやがって」
「すまないな、必ず勝つとココに約束したものでな」
そんな二人のやりとりに、くすくすと笑いながらトニさんも口を開く。
「とっても素敵でしたわぁ、公。でも……ココさん、大丈夫かしら?」
「――コ、ココ!?」
「……っ、ひぐっ……」
オーナーはここでようやく、口をへの字にしてボロボロ涙をこぼす私に気付き、ぎょっと赤い目を見開いた。
「あーあ、ノヴェルがココちゃん泣かしたー」
「お前さん、勝てばいいってもんじゃないだろう」
「ノヴェル様、先ほどのような行為はミランドラのよい子が真似するといけませんのでお控えください」
「長よぉ、何でもかんでも自分の物差しで測っちゃなんねーぜ」
身内からの評価も散々である。
当のオーナーはというと、さっきまでの余裕はどこへやら、涙の止まらない私を前に狼狽えている。
私の胸に勝ち取ったトロフィーを抱かせてみたり、それごと私を両腕でぎゅっとしてみたり、と周囲の目も気にせず宥めるのに必死だ。
ヨルムさんに預けていたワットちゃんとボルトちゃんもすっ飛んできて、私の顔にふわふわの腹毛を押し付けたり、ザラザラの舌で舐めまくったりして泣き止まそうとする。
それを会場のど真ん中でやっているのだから、観衆がざわめくのも無理はなかった。
「ココ、すまない。怖かったな。私が悪かった……」
「うう、こわかった……びっくりした……」
オーナーの行動は突飛すぎるし、私のような凡人にとっては非常識極まりない。
腰を抜かすかと思ったし、身体はビリビリするし……まだまだ、言いたいことはたくさんあるけれど。
ごしごしと手の甲で涙を拭ってから、私はワットちゃんとボルトちゃんを両腕に抱えて顔を上げる。
「でも――優勝できて、うれしい!」
泣き笑いでそう告げた私を、オーナーは一瞬感極まったような顔で見つめてから、魔物達ごとぎゅっと抱き締めてくれた。
「ほい、お待ちかねの賞品。無限シナモンな。その名の通り、無限になくならないアンドラ産のシナモンだ」
シナモンは樹皮を薄く剥いで乾燥させたもので、スティック状に巻かれている。
無限シナモンはその状態でも樹皮が成長し続けるため、半永久的に使える摩訶不思議でとっても経済的な代物らしい。
ヨルムさんのプニプニの手から、キャラメル色のシナモンスティックを恭しく受け取った私は、オーナーの了承を得てからポキッと半分に折った。
そしてそれを、メルさんとトニさんに差し出す。
「これ、半分こしましょう。無限に使えるんですから、半分でも十分ですよね?」
「まあ、ココさん。ありがとう」
この間にも、残りのチームがちらほらとゴールする。
とはいえ、蓋を開けてみれば、半分以上のチームがゴールまで辿り着けずに脱落していた。
主催者のヨルムさんが競技会の終了を宣言し、会場はもう一度大きな拍手に包まれる。
ようやく、一同が池から引き上げようとした時だった。
「待て待て、まだ締め括りが済んでないわ」
木箱の上に立ったヨルムさんが、そう言ってストップをかけた。
私はオーナーと顔を見合わせる。
すると、ヨルムさんはぽつりぽつりと空いた丸い鼻の穴から、ムフーッと息を吹き出しつつとんでもないことを言い出したのである。
「頑張った相方に、ご褒美のキッスを!」
「キ、キキ、キッッッス!?」
声を裏返して叫んだのは、どういうわけか私だけだった。
アルヴァさんはロドリゲスさんの頬に真っ赤な口紅の跡を残し、エッダさんもドットさんのほっぺにムチューと唇を押し当てる。
後からゴールしたチームもささやかにキスを交わし、キャンベル夫婦に至ってはがっつり唇を合わせていた。
「あわわわ……」
「何ちゅう、ウブな反応……さっき、男の腹に足を回していた子とは思えんわ」
目のやり場に困ってひたすら視線をうろうろさせる私を、ヨルムさんが生温かい目で見上げる。
「――ココ」
ふいに、名を呼ばれた。
おそるおそる顔を上げた私は息を呑む。
目に飛び込んできたのは、ん、と左の頬を差し出すオーナーの姿だった。
「あわ、ああわ……」
大袈裟ではなく、会場中の視線を集めている自覚があった。
ほっぺとはいえ、公衆の面前でキスをするなんてのは、生粋の日本人である私にはあまりにもハードルが高い。
至近距離から感じるワットちゃんとボルトちゃんの視線だって熱すぎた。
とはいえ、ここで恥ずかしいなどと言って駄々を捏ねようものなら、それこそオーナーの面子を潰すことになるだろう。
今にも顔から火が吹き出しそうだったが、覚悟を決める。
「――オーナー! 失礼しまぁす!!」
私の気合いの入った一声が、会場中の笑いを誘う。
やけくそ気味に唇を押し付けたオーナーの頬は、温かかった。
もう一度大きな拍手が贈られる中、彼の端整な顔に笑みが溢れる。
「頑張った甲斐があった――最高のご褒美だ」
ノヴェルのこんな笑顔、初めて見た――そう、姉のアルヴァさんに言わしめたオーナーの満面の笑みが、この日のハイライトとなった。




