35話 言い包める
古物商のサラマンダー、ヨルムさんが班長を務める北区には、ミランドラ公国ができる前から存在する古い図書館がある。
ここには、人間世界のみならず魔物の国アンドラの歴史書や、魔物が記した書物なども多く所蔵されているらしい。
古いものは何人たりとも持ち出し禁止のため、ミランドラ公爵といえどわざわざ足を運んで閲覧する必要があった。
そんなこんなで、本日は図書館の門前でキッチンカーを営業していた私は、常連客の一人からある興味深い話を聞くことになる。
「蚤の市があるんですか。面白そうですね」
常連客は大通り沿いに古くから店を構える紅茶屋の跡取り息子らしく、なかなかに羽振りがいい。
この北区以外で出店している日も頻繁に顔を出してはクレープを注文してくれるお得意様である。
ただし、話が長いのは玉に瑕だった。
今日も、注文したスモークチキンチーズのクレープを受け取ったというのに、わざわざバックドアの方に回っておしゃべりを続けている。
せっかく出来立てを提供しているのだから熱々のうちに食べてほしいのが本音だが、いつどのタイミングで食べるのかはあくまで客の自由。
私は余計なことは口にせず、ただただ営業スマイルを顔に貼り付けていた。
「古物商のサラマンダーが、年に一回棚卸しのついでに開くんだよ。それでね、毎年余興として、掘り出し物や貴重品を賞品にして競技会が催されることになってるんだけど……」
「掘り出し物や貴重品? えー、何がもらえるんでしょうね?」
蚤の市開催を宣伝するチラシをもらったが、あいにく私はまだこの世界の文字を満足に読めない。
ともあれ、人がたくさん集まるならキッチンカーを出させてもらおうかと考えていると、紅茶屋の跡取り息子がバックドアの方からずずいと身を乗り出して言った。
「今年の賞品の中には、無限シナモンがあるらしいだ。ココさんなら興味あるんじゃない?」
「――無限シナモン!?」
ちょうど、アップルシナモンクレープを作っていた私は、手に持っていたシナモンパウダーの容器を思わずじっと見つめる。
無限シナモンとは、その名の通り無限になくならないシナモンなのだろうか。
もしもそうならば、ぜひとも手に入れたい。
何しろ、シナモンのようなスパイスは比較的仕入れ値が高いのだ。
「その競技会って、何をするんですか?」
「お、食い付いてきたね! よかったら、オレと一緒に……」
私の問いに気を良くしたらしい紅茶屋の跡取り息子が、ますます身を乗り出してくる。と、その時だった。
「――ココ」
開け放していた右側ドアから、オーナーが顔を出した。
背中を向けてカウンターに立っていた私は、出来上がったアップルシナモンクレープを客に手渡してから慌ててそちらを振り返る。
オーナーは私ではなくバックドアの方に顔を向けており、その視線の先ではなぜだか紅茶屋の跡取り息子が顔を引き攣らせていた。
「オーナー、おかえりなさい。もうお屋敷に戻りますか?」
「……いや」
次の客から注文されたのは、実装されたばかりのキャンベル焼き菓子店とのコラボメニュー、〝メルさん監修チーズケーキクレープ〟。
評判は上々で、これまでキャンベル焼き菓子店を知らなかった遠方の住人が、私のクレープをきっかけに本家本元であるメルさんのチーズケーキに興味を持つという相乗効果も生んでいる。
このメニューができるきっかけをくれた領事館のメイドさん達にも、とても気に入ってもらえた。
私がカウンターの前から鉄板のあるバックドアの方へ移動しようとすると、上着を脱いで腕捲りをしたオーナーがキッチンに乗り込んでくる。
紅茶屋の跡取り息子は、いつのまにかいなくなってしまっていた。
「今日は少し時間がある。手伝おう」
「ありがとうございます。では、生地をお願いしますね」
先日領事館で客人にクレープを振る舞って以来、こうして時間が許す時はオーナーがキッチンに入ってくれるようになった。
彼がさくさく生地を焼いてくれるおかげで、私はトッピングや接客に専念できる。
さっそく、二人で作り上げたチーズケーキクレープを紙に包んで差し出すと、それを注文した老婦人がしみじみと言った。
「まさか、公爵様に焼いていただいたお菓子を口にできる日がくるなんて……長生きはしてみるものねぇ」
ここで私は、はっとする。
「ま、待ってください? この国の一番偉い人をこき使っているなんて……もしかして私、今とんでもなく偉そうなやつじゃないですか?」
「私はこき使われているのか……いや、こちらも好きでやってくることだから、ココが気にする必要はない」
オーナーそう言って、新たに焼き上がった生地を私の前に置いてくれた。
初めてクレープを焼いてから一週間も経っていないというのに、憎らしいほど焼き加減も大きさも厚さも完璧だ。
私がちらりと目をやれば、オーナーはもう次の生地を焼き始めていた。
「オーナー……楽しいですか?」
「うん、楽しいな。こんな風に飲食業に関わる機会があるとは思っていなかったので、新鮮でもある」
ミランドラ公爵家に膨大な魔力を持って生まれたオーナーは、その瞬間から魔物と対峙し続ける人生を義務付けられていたのだ。
職業の選択の余地などあるはずもない。
そんな彼が、たとえほんの短い時間でもこうしてキッチンカーに乗って、楽しそうにクレープを焼く姿を見ると、何だか私まで嬉しく、そして誇らしく思えてくる。
「私も、オーナーと一緒に働けて楽しいです!」
「それは――何よりだ」
振り返ったオーナーの顔には、柔らかな笑みが載っていた。
そんな彼が、それはそうと、と口にしたのは、この一時間ほど後――ミランドラ公爵邸に戻る車中でのことである。
私の膝の上では、ワットちゃんとボルトちゃんが抱き合うようにして寝息を立てていた。
暗くなり始めたため、オーナーがヘッドライトを灯す。
空には、下弦の月が上り始めていた。
「さっき……客の男と、何を話し込んでいたんだ?」
「客の男? おとこ、おとこ……あっ、もしかして、紅茶屋の息子さんのことですか?」
「うん、随分と親しげな様子だったが……彼はよく来るのか?」
「はい、常連さんですね。さっき、話してたのは……そうだ! オーナーに見ていただこうと思ってたんでした!」
私は、ワットちゃんとボルトちゃんを起こさないように気をつけながらズボンのポケットを探り、小さく折り畳んだ蚤の市の宣伝チラシを取り出す。
そうして、ちょうど前を走っていた乗合馬車が客の乗降で止まった隙に、それを開いてオーナーに見せた。
「ああ、蚤の市……毎年開催されているあれか。しかし、ココが骨董品に興味があるのとは知らなかったな」
「じゃなくて、何やら余興で競技会があると聞いたんです。賞品に無限シナモンがあるらしくて」
「競技会……うん、確かに。賞品の欄に書かれているな。これがほしいのか?」
「ほしいです。経費削減になりますもん」
前の乗合馬車が発車したのに続いて、オーナーもブレーキから足を離す。
彼の視界を遮らない位置にチラシを移すと、私は読めないそれを矯めつ眇めつしながら問うた。
「競技会って、何を競うんでしょう? 私でも出られたりしますか?」
「二人一組で参加する必要があるな。競技内容は、一人がもう一人を抱えて行なう障害物競争。競技名は――〝奥様運び競争〟だ」
「お、奥様運び……ってことは、もしかして夫婦じゃないと出られないんですか?」
「……いや、そうでもないらしい」
オーナーが言うには、夫婦だけではなく恋人同士でも可能らしい。
しかしながら、元の世界で彼氏と別れてきたばかりの私には、夫どころか恋人だっていやしないのだ。
自分には参加資格がない。そう知って肩を落とす私の横で、こほんと一つ咳払いをしてからオーナーが口を開いた。
「ココ……私と、出るか? その競技会」
「えっ、いいんですか!? でも、あの、夫婦か恋人同士じゃないとだめだって……」
「今すぐ夫婦は無理でも、恋人なら私達がそう主張すればいいだけだろう?」
「あっ……あ、そうですね! はいっ……!」
突然の申し出に、競技会の参加資格を得るためとは分かっていても思わずどぎまぎしてしまう。
えへへと照れ笑いしながら、膝の上のワットちゃんとボルトちゃんの背中を撫でていると、オーナーは大真面目な顔をして言った。
「では、私達は今から恋人同士だ。いいね?」
「は、はい! よろしくお願いします!」




