33話 両手を広げる
仲間の一匹を呑み込まれたカピバラもどきは、ますますパニックになった。
ワットちゃんはウニみたいになった上にパリパリと電気を帯び始めているし、ボルトちゃんも相変わらず全身の毛を逆立てて威嚇しまくっている。
もちろん、目の前でスライムの捕食を見せつけられた私の頭の中も、恐怖と混乱の極み。
「オ、オーナーに……オーナーに、知らせないと!!」
ともすればへたり込みそうになる足を叱咤して、私はどうにかこうにか立ち上がる。
今ここで、腰なんか抜かしている場合ではなかった。
何しろ、この一本道はミランドラ公国の街にもカルサレス帝国にも続いているのだ。
スライムやカピバラもどき――魔物がどちらに行っても大事である。
特に、ミランドラ公国が魔物の国アンドラに対する盾としての役割を担っている以上、カルサレス帝国には絶対に魔物を行かせてはならない。
「だって、そんなことになったら……オーナーの沽券にも、ミランドラ公国の将来にも拘るかもしれない!」
しかも、本日領事館でオーナーや領事と会談している客人は、この一本道を通ってカルサレス帝国に帰るはずなのだ。
オーナーが〝高貴な御仁〟と言ったその人にも、お付きのあの老紳士にも、もしものことがあっては絶対にいけない。
私は一刻も早く、この危機的状況をオーナーに知らせねばならなかった。
けれども、ブルブルと震える足で走ったところで、オーナーのもとに辿り着く前に追い付かれてしまうかもしれないし、何よりスライムやカピバラもどきが私にくっ付いて街にやってきては大変だ。
オーナーに知らせねばならない――でも、ここから動くわけにもいかない。
ジレンマに陥った私が出した答えは……
「オーナー!! たい! へん! ですっ!!」
ありったけの声を張り上げて、オーナーを呼ぶことだった。
これには、私の腕の中で毛を逆立てていたボルトちゃんもぎょっとして威嚇を止める。
バリバリとスパークしていたワットちゃんまできょとんとした顔になった。
けれども、魔物達の視線に恥じらっている場合ではない。
「オーナー! オーナぁあ!!」
オーナーのいる領事館はこの一本道のずっとずっと向こうだ。
領事館の貴賓室で、まだ大事な話をしている最中かもしれない。
「オーナぁあああああ!!」
ここで私がどれだけ声を嗄らして叫ぼうとも、オーナーには聞こえないかもしれない。
けれども、もしも。
もしも、この声が届いたなら、きっと一瞬で助けにきてくれる。
私はそう確信していたし――
「――ちゃんと私を呼んだな。えらいぞ、ココ」
オーナーは、それを裏切らなかった。
時刻は午後四時を少し回った頃だろうか。
太陽はカルサレス帝国に向かって傾き始めており、そちらを向いて立っていた私の影はミランドラ公国側――つまり、後ろに伸びていたのだが、オーナーはその中から現れた。
背後からぎゅっと私を抱き締めた彼が、もう大丈夫だ、と優しい声で耳元に囁く。
「ひぃん、オーナー……」
今すぐにでも彼にしがみついてギャン泣きしたくなる衝動を堪えた自分を褒めたい。
と、そこに、馬に跨ったドットさんが土煙を上げながらやってきた。
「ドット、スライムだ。ココ達を連れて、私の影が届かない位置まで下がっていろ」
「承知!」
オーナーは、ボルトちゃんを抱えた私をドットさんに預け、ワットちゃんがその後を付いていくのを見届けると、いつの間にか道を塞ぐように広がっていたスライムに向き直る。
仲間を一匹呑み込まれたカピバラもどきは、木陰に隠れてその様子を見つめていた。
オーナーの片手に、いつものあの巨大な武器――ハルバードが現れる。
オーナーはそれで、下から掬い上げるようにしてスライムのドロドロの身体を薙ぎ払ったのだが……
「えっ!? さ、先っぽが溶けちゃいましたよ!?」
「あのスライム、肉を食うんじゃなくて魔力を食うヤツみたいだなー。長のハルバードはさ、ほら、あの人の魔力でできてるから」
つまり、今までの魔物のようにあのハルバードでは対処できないということだ。
「スライムは厄介でよ。さほど強くはねぇが、殴ったり切ったりだのっていう物理攻撃が全然効かねーんだよなぁ。凍らすとか燃やすとかしたら弱らせることはできるんだが、そういうのはエッダのばーちゃんやヨルムの領分だしな」
「えっ? じゃ、じゃあ……オーナーは、どうやって……」
おろおろする私に、ドットさんはにかりと笑って言った。
「心配ねーよ、ココちゃん! 長は、そういう領分だの理屈だのっつー範疇を超越してるからな!」
それがどういうことなのか――私はこの後、自分の目で見届けることになる。
カルサレス帝国の方に傾く太陽が、一本道の上にオーナーの影を作っていた。
背の高い彼の長い影は最初、すっと背後に伸びているだけだったが、やがてその輪郭が崩れてじわじわと周囲に広がり始める。
影は、まるで半紙の上に墨が滲むように、オーナーを中心に据えて円を描いていった。
それに怯えたみたいにズリズリと後退ったスライムに、何を思ったのかオーナーがハルバードを差し向ける。
さっき食われたはずのハルバードの切先は、いつの間にか元通りになっていた。
「長の魔力は、魔力喰らいには抗い難かろうよ。特に、スライムなんて本能で生きてる低級な魔物にとってはな」
ドットさんがニヤリと笑って言う通り、地面に広がる影に怯えたはずのスライムは、オーナーの魔力でできたハルバードを食らおうとまたにじり寄ってきた。
そうして、そのドロドロの身体の一部がオーナーの影に触れたとたんだった。
まるで底なし沼みたいに、影がズブズブとスライムを呑み込んでしまったのだ。
それは、あっという間の出来事だった。
「どうだ、見たかい? ちゃんと見たかい、ココちゃん」
「み、見ました! 見ましたけど……スライム、どこ行っちゃったんですか!?」
「ミランドラ邸の地下牢だ。長が影を繋げたのさ。いーかい、ココちゃん。長があれやってる時は、絶っっ対あの人の影に入っちゃなんねーぞ? 影を通って無事でいられるのは魔物だけだ。俺のような半端もんやココちゃんみたいな人間は、どうなっちまうか分かんねーからな?」
「は、はいいいっ……!」
オーナー自身の影と繋げることによって、ダストシュートみたいに対象を地下牢の闇へ直行させてしまう荒技らしい。
周囲に他の人や魔物がいる場合は巻き込みを恐れて使いにくいが、スライムのような物理攻撃が効かない相手には最も有効かつ合理的な手段だという。
スライムを呑み込むと、オーナーの足下の影は急激に収束し、やがてまた普通の影となって彼の背後に伸びた。
「――ココ」
オーナーがこちらを振り返って両手を広げる。
これは、もしかしてもしかしなくても、しがみついてギャン泣きしてオッケーのサインではなかろうか。いや、そうに違いない。
「オーナぁあああ!!」
ドットさんの横からオーナーのもとへとすっ飛んでいった私は、心置きなくその胸に飛び込んだのだった。
「ぶははっ! あれ見た直後で長の懐に突っ込んでいけるココちゃん、すンげーな!」
そんな風に笑いながら、馬の手綱を引いたドットさんも近づいてくる。
背中の針を寝かせたワットちゃんとすっかり落ち着いたボルトちゃんも、ちょこちょこと彼にくっ付いて寄ってきた。
一方、オーナーは突進してきた私を難なく受け止め、ぎゅっと抱き締めてくれる。
「オーナー、私の声が聞こえたんですか……?」
「うん、聞こえた。ちょうど客人の見送りで領事館の建物から出ていたんだ。まったく……頼むから、私の見ていないところで危ない目に遭わないでくれ。心配で、目が離せないな」
と、その時である。ガラガラと車輪が回る音を響かせて、ミランドラ公国の方から一台の馬車がやってきた。
それに気づいたドットさんは慌てて馬を脇に寄せ、オーナーも私を抱えたまま道の端まで下がる。
ワットちゃんとボルトちゃんはオーナーの足下に隠れ、カピバラもどき達は木々の陰で息を潜めた。
やってきたのは、二頭引きの黒塗りの馬車だった。
先日見たウェスリー侯爵家の馬車のような華美なものではないが、不思議とそれ以上に高貴な雰囲気に見えるのは、御者を務めるのがあの老紳士だからだろうか。
お付きの老紳士が御者台にいるということは、馬車に乗っているのはその主人である〝高貴な御仁〟に違いない。
馬車は、私とオーナーの前で止まった。
車窓には黒いカーテンが引かれたままだったが、その奥から声が掛かる。
「――ミランドラ公、その方がココさんですね?」
「はい」
若々しくも落ち着いた男性の声だった。
オーナーが〝高貴な御仁〟と言う通り、声も言葉遣いも気品に満ちている。
やんごとない雰囲気の見知らぬ相手に名を呼ばれて緊張する私に、男性は訳あって今はまだ姿は見せられないことを詫び、それから小さく笑って続けた。
「ミランドラ公とは古い付き合いなのですが……あなたの呼び声を耳にしたとたん、血相を変えて飛び出していったのには驚きましたよ。彼の、あれほど余裕のない表情は初めて見ました」
それを聞いた私は、ちらりとオーナーを見上げる。
オーナーの赤い目も、私をじっと見下ろしていた。
そうしてしばし見つめ合う私達が、カーテンの隙間から見えていたのだろう。
馬車の中の男性がくすくすと笑って続ける。
「ミランドラ公の目を見られるというのは本当なのですね。次にお会いする時はぜひとも、あのクレープというお菓子を焼くところを見せてください」
御者台の老紳士が私達に会釈をして馬車を発進させた。
沈みゆく太陽に向かって、ガラガラとまた車輪が回り出す。
カルサレス帝国の国境まで護衛するために、馬に跨ったドットさんがその後に続いた。




