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32話 まだ何も知らない



 時計塔の鐘が四つ鳴った。

 オーナーがキッチンに立ったことで余計に注目を集め、キッチンカーは彼が老紳士とともに領事館に戻った後も大盛況だった。

 これまでキッチンカーの存在は知りつつも二の足を踏んでいたような年配の人々も、ミランドラ公爵閣下本人がクレープを焼いている姿を垣間見て警戒を解いたようだ。

 おかげで、用意してきた材料が早々に底を突いてしまったため、オーナーの戻りを待たずに店仕舞いすることになった。

 ドットさんは国境警備隊の巡回任務に、キャンベル焼き菓子店のチーズケーキを教えてくれた領事館のメイドさん達も仕事に戻ってしまっている。

 私はキッチンカーの助手席に座って、タブレットを使って本日の売り上げを計算しつつオーナーの帰りを待っていたのだが……


「――ボルトちゃん、どうしたの? 何か匂う?」


 突然、ダッシュボードに飛び乗ったボルトちゃんが、耳をピンと立てて鼻をヒクヒクさせ始めた。

 長い尻尾が、ビターンビターンとダッシュボードを打ち、何やらそわそわと落ち着かない様子。

 さらにはフロントガラスを前足でカリカリ引っ掻いて、みゃあみゃあとしきりに鳴くのだ。

 ワットちゃんも釣られたみたいに落ち着きを無くし、私の膝の上でぐるぐると回り出した。

 こうなっては、帳簿付けどころではない。営業中は運転席で退屈な思いをさせている負い目のある私は、彼らを外に連れ出すことにした。


「せっかくだから、マーケティングリサーチしにいこうか!」

「みゅー」

「みゃー」


 カルサレス帝国との境に位置することもあり、領事館周辺の街もミランドラ公爵邸周辺に負けず劣らず栄えている。大通り沿いには商店が立ち並び、活気に満ち溢れていた。

 客商売をする上では、人々の傾向や流行を的確に捉えて反映させていかなければいけない。

 同じものを延々にと売り続けていては、そのうち飽きられてしまうかもしれないのだから。

 ボルトちゃんの首輪にリードを付け、ワットちゃんと一緒に運転席から下ろす。

 オーナーが入れ違いでキッチンカーに戻ってくる可能性も考慮して、すっかり顔見知りになった領事館の門番に伝言も頼んだ。

 そうしていざ、街に繰り出そうとして――


「みゃあ!!」

「ちょ、ちょ、ちょっと!? ボルトちゃん!? どこいくのぉおおお!!」


 突然、だっと走り出したボルトちゃんに引っ張られて、私の計画は早速頓挫することとなった。


「いやいやいや! 待って待って……っ!!」


 小さな身体のどこにこれほどのパワーがあるのだろう。

 リードを持つ私をグイグイ引っ張って、ボルトちゃんは猛然と駆けていく。

 店が立ち並ぶ大通りとは逆方向にある、森に向かって――


「この森を抜けたら、カルサレス帝国との国境って聞いた気がするんだけど! ボルトちゃんやワットちゃん――魔物は、絶対近づいちゃダメな所だよね!?」


 そうしておそらく、異世界の人間である私も近づくべきではないだろう。

 以前、メルさんの娘アミさんが言っていたことを思い出す。

 世界大戦より三百年が経ち、カルサレス帝国の人間は魔物の助力で広大な国土を手に入れられたことなどすっかり忘れ去っている。

 彼らは異端を嫌い、魔物の末裔にはミランドラ公国以外に安住の地はなくなっていた。

 私も、異端という意味では、魔物やその末裔と一緒だ。

 私が今こうしてこの世界で自由に過ごせているのも、ミランドラ公国の君主であるオーナーの庇護下にあるおかげ。

 言い換えれば、彼の庇護から離れてしまえば、どうなってしまうかも分からないのだ。


「と、止まって、ボルトちゃん! お願い、止まってぇ!!」


 私が真っ青になってそう叫んだ瞬間だった。


「みゅう!!」


 ここまで隣を並走していたワットちゃんが、突然そのピンク色のプニプニの足でダンッ! と激しく地を蹴ったのだ。

 バレーボール大の身体は流線型になって空気抵抗を減らしつつスピードを上げる。

 そして次の瞬間には、前を走っていたボルトちゃんに覆い被さるようにして着地していた。

 みゃっ……と短い鳴き声を最後に、ボルトちゃんはそのふかふかのお腹の毛に押し潰される。


「はあ……はあ……よかった、止まった……ありがとう、ワットちゃん……」

「みゅ!」


 ようやく止まることができた私は、その場にへなへなと崩れ落ちた。

 肩で息をしつつ、ドヤ顔で見上げてくるワットちゃんの背中を撫でて労う。

 そのお腹の下から飛び出している黒い尻尾がくるくるとご機嫌に振られているところを見ると、ボルトちゃんの方も問題はなさそうだ。

 むしろ、ワットちゃんのふかふかの毛並みに埋もれてご満悦の様子である。

 私はやれやれとため息をつきつつ、改めて周囲を見回した。

 森を割るようにして作られたこの一本道は、領事館の敷地を迂回して大通りと繋がっている。


「この道の先が国境かな……」


 土の地面には車輪の跡がくっきりと刻まれており、頻繁に馬車が行き来しているであろうことが窺えた。

 とはいえ、国境まではまだ随分と距離があるようで、ここからではそれらしき砦や門は見えない。

 ということは、私達もまだカルサレス帝国側の守衛やら門番やらには見つかっていないだろう。

 今のうちに、さっさと元来た道を引き返すに限る――そう、思ったのだが……


「え、何……?」


 ふいに、どこからか視線を感じた。

 私は立ち上がって、キョロキョロと周囲に首を巡らせる。

 ワットちゃんも、鼻をヒクヒクさせてしきりに匂いを嗅いでいた。

 何だかひどく胸騒ぎがする。

 一刻も早く街の方へ戻らなければ、とワットちゃんとボルトちゃんを抱き上げようとした時だった。


「……っ」


 沿道に立ち並ぶ木々の奥――生い茂った葉が重なり合って太陽の光を遮り、濃い影となっている場所に、小さな赤い光が点々と灯っているのに気付いた。

 それらは二つずつ、等間隔に並んでいる。全部で十対はあるだろうか。

 赤い光は時折、二つセットで点いたり消えたりを繰り返している。

 いやもう分かっているのだ。あれは――


「め、目だ……」


 しかも、どうやら人間のものではなさそうだ。

 赤い目達は時折瞬きをしながらも、じっとこちらを窺っている。

 もしかして、ボルトちゃんが森の中までやってきたのは、彼らの匂いに感づいたからなのだろうか。

 猫っぽい姿のボルトちゃんを捕食者とすると、その餌食として連想されるのは……


「ネコが捕まえるものといえば……ネズミ?」


 私はゴクリと唾を呑み込んだ。ボルトちゃんのリードを持つ手がひどく汗ばむ。

 ドクドクと心臓がうるさいくらいに脈打っていた。

 ジリジリとお互い距離を図るように見つめ合う。

 緊張はどんどんと高まっていった。

 目を逸らしたら終わりのような気がして、私は瞬きの間も惜しんで赤い光を見つめていた。

 だから、気づけなかったのだ。

 いつの間にか、ワットちゃんのお腹の下からボルトちゃんが這い出していたことに。


「シャーッ!!」

「わああっ!?」

「みゅー!!」


 突然、目の前に飛び出してきたボルトちゃんが、全身の毛を逆立てて威嚇の声を上げた。

 それに驚いたのは、もちろん私とワットちゃんだけではなかった。

 ビクーン! と揃って飛び上がった赤い目達が、次の瞬間一斉に影から飛び出してきたのだ。


「きゃあああ!! な、なに!? ネズミ!? 本当にネズミ!!」


 現れたのは、ネズミに似た生き物だった。いや、見た目も身体の大きさも、カピバラと言った方がしっくりくるかもしれない。

 赤い目をしているということは、これも魔物なのだろうか。

 とにかく、そんなのカピバラもどきが十匹あまり、パニックに陥って一斉に向かってきたのだから、当然のことながら私だって大パニックである。

 とっさにその場から離れようとするも、反対に向かっていこうとするボルトちゃんにリードを引っ張られ、それが足に絡んでベシャッとすっ転んだ。

 ワットちゃんはバババッと背中の針を全部立てて、またウニみたいになっている。

 そんな私達の周りを、カピバラもどき達は土埃を上げつつ縦横無尽に走り回った。

 彼らに踏み潰されてしまわないよう、引っ張り寄せて腕の中に抱え込んだものの、ボルトちゃんはなおもフーッフーッと毛を逆立てている。

 しかし、ここでふと、私はあることに気づいた。


「ボ、ボルトちゃん……何を見ている、の……?」


 私は、ボルトちゃんはカピバラもどきを威嚇していると思っていたのだ。

 それなのに今、その赤い目が瞳孔をかっ開いて見据えているのは、周りをドタバタと走り回っているカピバラもどきではなく、彼らが飛び出してきた木々の暗がり。


「――えっ?」


 とたんに、ゾクリと全身に寒気が走る。

 だって、ボルトちゃんが見据える陰の中から、何やら液体のようなものが滲み出してくるのが見えてしまったのだから。

 緑色でドロドロとした物体で、その姿はまさしく――


「ス、スライム……?」


 色、形状ともに、私の元いた世界でおもちゃとして流通していたスライムそのものだったのだ。

 ただし、今目の前に現れたそいつは人工物ではなく動物――いや、魔物。

 ねちゃねちゃと音を立てながら、自力で道の方まで這い出してきた。

 それだけではない。カピバラもどきの一匹が、すぐ側を通り掛かった時だった。

 地面を這っていたスライムが、突然バッと飛び上がって襲いかかったのである。

 呆気なく呑み込まれたカピバラもどきが、緑色のドロドロの中で呆然としているのが透けて見えた。

 光を無くした赤い目を見たとたん――私は、反射的に叫んでいた。



「オ、オーナぁあああああ!!」



 何か問題が起きた時は必ず呼ぶ――そう、昨日約束した人を。




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