31話 目を輝かせる
老紳士は、本日の会談相手である高貴な御仁のお付きだった。
彼は、オーナー自身がクレープを作るところを見届けるためにキッチンカーまで同行したらしい。
驚くことに、会談相手がクレープに興味を持ったのは、あのウェスリー侯爵の孫から話を聞いたためだという。
坊ちゃんはお土産に持たせたTシャツも気に入って、親しい相手に見せびらかしているのだとか。
宣伝効果は抜群である。
「ココ、クレープの作り方を教えてもらえるだろうか」
「そ、それはもちろん、大丈夫ですけど……」
現在キッチンカーの前には、ドットさんも含めてまだ十人ほどの客が並んでいたが、事情を聞いて快く順番を譲ってくれた。
彼らに丁寧に謝意を伝えたオーナーが、早速靴を脱いでキッチンに上がってくる。
運転席との仕切り窓からは、ワットちゃんとボルトちゃんもなんだなんだとばかりにこちらを窺っていた。
順番を譲った客達も、今をときめくミランドラ公爵閣下がクレープを焼くと言うので興味津々である。
「長、オレの注文したので練習してくれてもいいぜ。バナナチョコとイチゴカスタードとバナナキャラメルとダブルクリームチョコな!」
「いや、いくつ食べる気だ。また腹が重くて魔物に対処できないなんてことになると困るんだが」
方々から突き刺さる期待の眼差しに苦笑いをしつつ、オーナーは上着を脱いでシャツの袖を捲る。
いつもかっちりとした服装をしているため、こんなラフな格好の彼を見るのは新鮮で、私は思わずドキリとした。
しかも、キッチンは余計なスペースがないため、二人で入るとはっきり言って狭い。
クレープ用鉄板の前に二人横並びになるのは無理だと判断したのか、オーナーは私を前に立たせ、後ろから覆い被さるようにして鉄板に向かった。
「オーナー、あの……この体勢はさすがに、いかがなものかと……」
「うん、問題ない。ココの頭越しにちゃんと手元は見えている」
そうじゃなくて! と言い募ろうとしたが、バックドアの向こうでニヤニヤしているドットさんに気づいて口を噤む。
「何だい何だい、お二人さん。仲直りどころか、親密度増し増しになってんじゃねーか。オレは当て馬かよ」
ドットさんがここぞとばかりに茶化してくるが、オーナーは私の頭上でふふと笑っただけでその言葉を否定しなかった。
思いも寄らない体勢にどぎまぎする私を挟んで、オーナーがドットさんと並んで笑みを浮かべている老紳士に話しかける。
「生地には、小麦粉、牛乳、卵、砂糖が入っていますが、問題ありませんか?」
「ええ、どれもこれも、主人が日頃からで召し上がっているものばかりでございます」
そのやりとりは、私がミランドラ公国に来た初日にオーナー達にクレープを振る舞う際、医師でもあるロドリゲスさんとしたものと同じだった。
あの時、生まれて初めてクレープを口にしたオーナーが、今は作る側に回ろうとしているのだと思うと、何だか感慨深いものがある。
私は背中越しに伝わる体温にドキドキとうるさい心臓をひとまず落ち着かせると、そんなオーナーの先生役を立派に勤め上げるべく姿勢を正したのであった。
「レードルで鉄板の真ん中に生地を落としたら、トンボで素早く伸ばします。その際、トンボはできるだけ寝かせて力を入れないようにしましょうね。生地が寄ったり厚みにムラができたりしてしまいますので」
「うん。トンボを水に浸しているのはなぜだろうか?」
「トンボが乾燥していると伸ばすのに必要な重みが足りないことと、生地の水分を吸って張り付いてしまうためですよ」
「なるほど……」
生地を均一の厚みで丸く伸ばせれば第一関門突破。
続いての難関は、それを裏返すことだ。真ん中が浮き始めれば頃合いで、スパチェラを生地の下に入れ込み、ゆっくりと落ち着いて、破れないように気をつけながらひっくり返す。
私も修業を始めた当初はなかなか思うようにいかず、何度も何度も失敗を重ねたものだ。
だからこそ、オーナーが失敗しても上手にフォローできる自信があった。
途方に暮れた顔をして肩を落とす彼を、先輩面して優しく慰める脳内シミュレーションだって完璧だったのだ。
それなのに……
「……どういうことですか、これは」
オーナーは、私の期待を見事に裏切った。
初回こそひっくり返した際に少々の皺ができてしまったが、それでコツを掴んだのか、二回目からはほぼ完璧な生地を焼いてしまったのだ。
つまり、客観的に見ればいい意味での裏切りである。
その優秀さと比べれば、半年あまりを修業に費やし、その間に彼氏に浮気されてしまっていた私の不甲斐なさが際立つ。
劣等感に打ち拉がれズーンと落ち込んだ私は、オーナーの脇の下を潜って先生役を惨めに退任した。
「こら、ココ? どこへいく。まだドットの注文も焼き終わっていないんだが」
「……オーナーに教えることはもう何もないです。免許皆伝です」
「いや、驚くほど恨めしそうな顔だな。ココが言うようにやって上手くできたというのに、褒めてくれないのか?」
「オーナー……私に褒めてもらいたいんですか?」
私の問いに、うん、とオーナーはいやに無邪気な様子で頷いた。
さらに、赤い目を輝かせて言うのである。
「これで、私もいつでもココと肩を並べて働けるだろう?」
「えっ……」
おやおや、とドットさんが目を丸くする。
まあまあ、と老紳士が笑みを深めた。
私がキッチンカーを始めると決めた時、思い描いていたのは、元彼氏とこうして二人で働く姿だった。
今から考えれば、それは私の完全な独り善がりであり、彼が同じビジョンを描いていないことに気づけないまま突っ走ってしまったのがいけなかったのだろう。
けれども、オーナーは違う。
多忙な身の上である彼がキッチンカーに立てる機会はそう多くはないだろうが、少なくともこうして私と並んでクレープを焼くビジョンを持ってくれている。
私はそれが、嬉しくて嬉しくてたまらなくなった。
「私も! オーナーと一緒に、ガッポガッポ稼ぎたいです!!」
「いや、言い方……まあ、もう少しすれば状況が落ち着くはずだから、そういう機会も持てるだろう」
「本当ですか!? じゃあ、その時は絶対Tシャツ着てくださいね! この、私とお揃いのやつ!!」
「ん? うん……その、胸にデカデカとイチゴが描かれたやつをか……?」
私達のやりとりを見守っていたドットさんや順番待ちの客達がドッと笑う。
老紳士もくすくすと上品に笑いながら言った。
「これは、帝都にいる友人夫婦にいい報告ができそうですな」
老紳士が、オーナーとアルヴァさんのご両親の友人であるということは、この日の帰りの車中で聞いた。




