26話 満月を背負う
墨で塗りつぶしたような闇の中、赤い光がいくつも揺らめいていた。
密かな息遣いと低い唸り声が静寂の中に響く。
そんな中、ペタ、ペタ、と密かな足音が近づいてくる。
現れたのは、殊更鮮やかな一対の赤い光。
ふいにそれが細まったかと思ったら、カチャリ、と鍵が開くような音がした。
「……二時」
ヘッドボードに置いていたスマートフォンで時刻を確認した私は、ブルーライトが眩しくて眉を顰める。
ミランドラ公爵邸は、いつになく静まり返っていた。
まるで、屋敷自体が息を潜めて神経を研ぎ澄ましているかのような、なんとも言えない緊張感を帯びているように思う。
そのせいだろうか。寝付きのよさには定評があって、一度眠ったら朝まで起きない私も目が覚めてしまった。
すぐに頭を枕に戻したものの、どうにもこうにも眠れない。
ふと、深夜にしては何だか明るいような気がして部屋の中を見回せば、カーテンが少し開いて光が差し込んでいるのに気づいた。
私はベッドから下り、布製のルームシューズを履いてペタペタと窓辺に寄る。
ルームシューズも真っ白なネグリジェも、そしてこの半月寝起きしている部屋も、私がミランドラ公国に来て卒倒した際に与えられたものと同じだ。
「大きい満月だなぁ……」
カーテンを閉めようとして、その隙間から見えた満月に、私は思わず感嘆のため息を吐く。
魔力が微塵もないらしい私には分からない感覚だが、この世界の人々は満月を見ると少なからず気分が高揚するらしい。
余計なトラブルを避けるため、ミランドラ公爵邸に住まう人々も早目に就寝してしまった。
私もオーナーから、今宵は迂闊に出歩かないようきつく言いつけられている。
とはいえ、チーズケーキの試作も一回こっきりしかできなかったのには参った。
朝はいつもより早目に起きて、コック達が仕事を始める前に厨房を借りられるだろうか。
そのためにはさっさと眠らなければ、とカーテンを閉めようとした――その時である。
「――えっ!?」
私は、気づいてしまった。
満月に照らされた庭園で、二匹の魔物が対峙していることに。
「ワ、ワットちゃん!?」
一方は、キッチンカーに電力を供給するとともに、その愛くるしい姿で『Crepe de Coco』のマスコットとして周知され始めているシビレモグラのワットちゃん。
今宵もすぐ側の木の虚で眠りに就いたはずのワットちゃんが、背中の針をこれでもかと立てて、パリパリと帯電して相手を威嚇していた。
それに対するは、見たこともないほど大きな蝶である。
蝶であると私に認識させた四枚の翅がまた巨大で、月の光を浴びてギラギラと輝いていた。
そもそも、丸い頭だけでもワットちゃんの身体と同じくらい――つまり、バレーボールくらいの大きさがあり、先端が棍棒状の触覚とむっちりとした胴体、細長い四本の足が見える。
「もしかして、あれ……前にエッダさんが言っていた……」
数日前のことである。ミランドラ公国を査察の名目で訪れたウェスリー侯爵家の坊ちゃんを、オーナーとともにエッダさんの農園に案内した際、十匹のイモムシ型魔物が現れた。
その時、彼らの親である蝶を先に捕まえてミランドラ公爵邸の地下牢に放り込んだ、とエッダさんが言っていたのを思い出す。
「あああっ……ワットちゃんが!!」
電気を帯びたワットちゃんに近づけず周りを飛んでいるばかりだった蝶の魔物が、突然お尻の先から糸のようなものを吹き付けた。
ワットちゃんはたちまちぐるぐる巻きにされて身動きが取れなくなる。
糸のようなものは電気を通さないのだろうか。
蝶の魔物が降りてきたかと思ったら、四本の足でワットちゃんを持ち上げようとし始めた。
大人になれば花の蜜を啜るだけだが、幼体の時代は雑食だと聞いている。
先日オーナーとエッダさんの部下達が捕まえた十匹の幼体も、このミランドラ公爵邸で保護されているはずだ。
もしかしてあの蝶の魔物は、我が子達に餌を運ぼうとしているのではあるまいか。
その餌とはつまり、糸のようなものでぐるぐる巻きにされた、ワットちゃん。
「だ、だだ、だめぇええ!!」
居ても立ってもいられず、私は掃き出し窓を押し開いて外へと飛び出した。
そのままテラスを囲むフェンスを飛び越え、ちょうど足下に落ちていた木の枝を拾って一直線に二匹の魔物のもとまで駆ける。
途中でルームシューズが脱げてしまったが、かまってなっていられなかった。
「えいっ、このっ! ワットちゃんから離れてっ!!」
近くで見た相手は、ぞっとするほど大きかった。
それでも私はがむしゃらに木の枝を振り回して、とにかくそいつを遠ざけようとする。
蝶の魔物は最初、いきなり現れた私に戸惑っているようだったが……
「ぎゃっ!?」
私を大した敵ではないと判断したのだろう。
ワットちゃんをぐるぐる巻きにした時みたいに、お尻の先からビュッと糸のようなものを出して、私が振り回していた木の枝を奪い取ってしまった。
丸腰になった私は、ワットちゃんを抱えて裸足のまま走り出す。
けれども、蝶の魔物はどこまでもどこまでも追ってきた。
頭上から降り注ぐ満月の強い光のせいで、今宵の影は特に濃い。
ワットちゃんを抱えて走る私の影が、やがて巨大な翅の影に呑み込まれる。
全力疾走と恐怖のせいで、ありえないくらい心臓がバクバクしていた。
ふいに、石か何かに躓いてすっ転んでしまう。好機とばかりに、蝶の魔物の足が伸びてくるのを感じた。
だめだ、捕まる――そう覚悟した瞬間である。
「――えっ?」
突然、近くの茂みから何者かの影が勢いよく飛び出してきたのだ。
影は、私と蝶の魔物の間に割り入ったかと思ったら……
ドンッ……
後者の巨体が吹っ飛んで、その先にあった木の幹に叩きつけられていた。
蝶の魔物はそのままズルズルと地面に崩れ落ち、ピクリともしなくなる。
「た、助かった……」
私はワットちゃんを抱えたまま、へなへなとその場に崩れ落ちた。
ほうっと大きく安堵の息を吐き出してから、助けてもらったお礼を言おうと背後に立つ影を振り返る。
満月の光に照らし出された相手は、腕を剥き出しにした簡素なシャツと、裾をブーツに突っ込んだミリタリー風のズボン、草臥れたマントを羽織っていた。
とたん、私はひゅっと息を呑む。
そんな傭兵風の格好には見覚えはあったが、息を呑んだ理由はそれではない。
相手の後頭部から太い首筋にかけて、さらにはシャツから飛び出した逞しい両腕も、グローブみたいにおおきな手の先まで、ふさふさの灰色の毛並みに覆われていたからだ。
「……ドット、さん?」
おそるおそる声をかけた私を振り返ったのは、無精髭を生やした男の顔――ではなく、狼の顔。
マントの下からは、ふさふさの尻尾が覗いていた。
「ひぇえええええ……」
蝶の魔物から逃れられたとほっとした矢先だった。
一難去ってまた一難。私は、いきなり狼男の肩に担がれて、どういうわけかミランドラ公爵邸の屋根に上っていた。
腕の中にいたワットちゃんは、担ぎ上げられた拍子に取り落として、そのままコロコロと茂みの方に転がっていってしまった。
無事、あの糸のようなもののぐるぐる巻きから逃れられているといいのだが……
頭上では、大きな満月が煌々と輝いている。
屋根に上ったのは、少しでもそれに近づくためだったのか。
狼男は赤い瞳を爛々とさせて、熱心に満月を見上げている。
四階立ての屋敷の屋根からは、満月に照らされたミランドラ公国の町が一望できた。
何度もキッチンカーで往来した大通りがまっすぐに伸びており、そのずっと先にはすっと突っ立つ時計塔の影まで見える。
こんな状況でなければ、その圧巻の光景を楽しむこともできたのだろうが……
「ド、ドットさん……あの、危ないので、降りませんか……?」
私は、ドットさんと思わしき狼男の肩にしがみついて、ブルブルと震えるばかりであった。
しかしながら、ドットさんは満月の影響を受けるのを考慮して、今日は完全に太陽が沈み切る前にミランドラ公爵邸の地下に引き篭もったはずなのだ。
ちょうど閉店直前にキッチンカーの側を通りかかったため、朝までお腹が空いては気の毒だからといくつかクレープを作って渡したら、それはもう大喜びしてくれたのも記憶に新しい。
しかし、あの時ニカリと笑った彼の口は、今は耳まで裂けてぞろりとした鋭い歯が覗く。
耳も、人間のものから三角形の狼の耳になり、周囲の音を気にするみたいにしきりに動いていた。
そんなドットさんは、私を肩に担いだままのしのしと屋根の上を歩き回っていたが、やがて突き出た尖塔に行く手を阻まれて足を止めた。
そうして、その場にどかりと座り込んだかと思ったら、ようやく肩から下ろした私を膝に座らせ、矯めつ眇めつ眺め出したのだ。
私もおそるおそる見返すも、しかし、見れば見るほど狼である。
「ド、ドットさん……私です、瑚子ですよ? わかりますか?」
「グルル……」
「ひい、甘噛みしないで! わ、私なんて齧ってもおいしくないですよ? ドットさんは、甘いものがお好きでしょう!?」
「グウ……」
部屋に戻される直前までチーズケーキを作っていたため甘い匂いがするのだろうか。
ドットさんは私の手を掴んで、フンフンと鼻を鳴らしてしきりに匂いを嗅いでいる。
ふさふさの尻尾が、ご機嫌な犬のそれみたいにパタパタと揺れた。
「どうして地下から出てきてしまったのか分かりませんが、さっきは助けていただきありがとうございました。あの、とりあえず……屋根から下りましょう?」
相手を刺激しないように、できるだけ落ち着いた声でそう提案する。
しかし、今のドットさんは私の言葉を理解できないのか、右へ左へと首を傾げた。
その仕草がなんとも可愛らしくて、私は自分の置かれた状況も忘れて、思わず彼の頭を撫でる。
と、その時だった。
「――!!」
突然、ドットさんの三角形の耳がピンッと立ち上がる。
パタパタと上機嫌に振られていた尻尾は、ぶわわっと毛が逆立って膨らんだ。
牙を剥き出しにした大きな口からは、低い唸り声が漏れる。
何かを強く警戒している、あるいはひどく怯えているような彼の様子に、私もたちまち不安になって辺りを見回した。
そして、ふと気づく。
私達の行く手を阻んだ尖塔の上に、無言で佇むその人の姿に――
「ひょえ……オ、オーナー……」
巨大な満月を背負っての、これぞラスボス的な登場に、私は腰を抜かしそうになった。




