24話 手を繋ぐ
メルさんは、元国境警備隊員だった。
オーナーとアルヴァさんの父親である先代のミランドラ公爵が長を務めている時代に、領事館のある西区の班長をしていたらしい。
現在の班長ドットさんは、かつての部下だという。
しかし、メルさんは十年前に国境警備隊を引退し、長年の夢であった焼き菓子屋をオープンした。
切込隊長として数々の魔物に対峙してきた、強く頼もしい父親の背中に憧れて国境警備隊を志した娘さんは、それが不満らしい。
「魔物の血を引く――しかも、戦いに特化したベルセルクの末裔のくせに、ただ安穏と過ごしているなんて信じられない。どうして、公の恩義に報いようとしないのよ!」
世界大戦より三百年が経ち、カルサレス帝国の人間は魔物の助力で広大な国土を手に入れられたことなどすっかり忘れ去っている。
彼らは異端を嫌い、魔物の末裔にはミランドラ公国以外に安住の地はなくなっていた。
そんな中で、ミランドラ公国がカルサレス帝国に呑み込まれず自治を保っていられるのは、魔物の国アンドラに対する盾という役割を担っているからであり、ミランドラ公爵家が全ての魔物の末裔を代表してあらゆる場面で矢面に立ってくれているからだ、とキャンベル夫婦の娘アミさんは言う。
彼女は、国境警備隊員として働くことでその恩義に報いるべきだと考えているようだ。
「思い上がるのも大概にしろ。お前に流れるベルセルクの血などもはや微々たるものだ。普通の人間より多少頑丈なだけで、さほど魔力が大きいわけでもない。公にとっては、お前のような半端な部下の面倒を見るほうが、魔物を相手にするよりよほど手間だろうよ」
一方のメルさんは、魔物の末裔としては特出したところがないアミさんが国境警備隊員を続けることに反対らしい。
娘に危険な仕事をさせたくないと思うのは、父親なら当然だろう。
私は鬼教官よろしく、厨房の床に並んで正座したメルさんとアミさんの後ろで腕を組んで仁王立ちしていた。
対して、彼らの正面に立つトニさんが、顔を合わせるといつもこうして喧嘩になるの、とため息を吐く。
父娘はその間もバチバチと睨み合い、まさに一触即発。
クソ親父、クソガキが、と売り言葉に買い言葉でまたしても胸ぐらを掴み合おうと互いに手を伸ばす。
「ケンカしないっ!!」
私はすかさず、チョンチョン、とつま先で突いた。
正座をして痺れまくっている、メルさんとアミさんの足の裏を。
とたん、あひんっ、と情けない悲鳴を上げて、父娘は仲良くゴメン寝をする。
「人の人生に口出しする権利なんて、誰にもないんじゃないでしょうか。親も、子も……所詮は別々の人間なんですから」
メルさんもアミさんも、床に突っ伏したまま口を閉ざしている。
私は、そんな二人のそっくりなつむじを見下ろして続けた。
「それに、人の人生に干渉するのに、オーナーを……ミランドラ公爵を理由にするのは、私はよくないと思います。あの人が、何かを強制しているわけではないでしょう?」
トニさんが、うんうんと大きく頷いてくれる。
やがて、メルさんとアミさんが無言のままのろのろと顔を上げ、気まずそうにお互いを横目で見た。
双方何か言いたそうではあったが、結局メルさんは顔を背け、アミさんは痺れた足でヨロヨロと立ち上がって、そのまま店を出て行ってしまう。
私はトニさんと顔を見合わせ、それから散らかり放題になった厨房を見回してため息を吐いた。
「……とりあえず、片付けましょうか」
盛大な親子喧嘩の後始末はなかなかに大変だった。
ようやく元通りになった頃には、厨房の壁にかかった時計は午後九時を指そうとしていた。
続いて明日の仕込みに着手しようとしたところ、店の表の方に出ていたメルさんが、カーテンを開いて手招きする。
私が何事かと寄っていくと、彼はばつが悪そうな顔をして言った。
「今日は……その、悪かったな。仕事を増やしてしまったし……みっともないところを見せた」
「……いいえ、私も差し出がましいことを言ってすみませんでした」
「仕込みは俺一人でやる。お前はもう帰れ――迎えが来てる」
「えっ……迎え、ですか?」
メルさんが厨房の出入り口から大きな身体をずらすと、ちょうど正面に店の扉が見えた。
開け放した扉の向こうで、トニさんと立ち話をしていたのは――
「オーナー!?」
私に気づいて、オーナーが小さく片手を上げる。
彼の足下には、なんとワットちゃんとボルトちゃんの姿まであった。
慌てて厨房から飛び出して行こうとした私に、何やら小さく折り畳んだ紙を握らせつつメルさんが言う。
「明日から五日は手伝いに来なくていい。そのかわり、宿題を出す」
「しゅ、宿題……?」
「うちの看板チーズケーキ――お前、一回自分で手で作ってみろ」
「えええっ? 私が、ですか!?」
紙には、件のチーズケーキのレシピが書かれているようだ。
あいにく、私はまだこの世界の文字を習得できておらず、分量らしき数字しか読めないのだが。
それにしても、看板商品のレシピなんて、一子相伝門外不出の超重要機密ではないのだろうか。
紙を握りしめてあわあわする私に、メルさんは小さくため息を吐いて続けた。
「朝夕の働きと、トニさんが見てきてくれた昼間の本業の様子で、お前が生半可な気持ちで商売をしているんじゃないというのは分かった。委託販売とやら、受け入れてもいいかもしれん」
「本当ですか!?」
「ただし、最初に言った通り、作る量を増やそうにも手が足りない。だから――お前が売る分はお前が作れ」
「で、でも……私、ケーキは作ったことが……」
思いも寄らない展開におろおろするばかりの私の頭を、グローブのような巨大な手でぐしゃぐしゃにすると、メルさんはニヤリと笑って言った。
「いいから、やってみろ。俺が満足するものを作れたら、うちの名前を出してそれを売ることを許す」
キャンベル焼き菓子店からミランドラ公爵邸までは、歩いてほんの五分ほど。
すでに午後九時を回った大通りには人の往来もまばらで、沿道に連なる店々も全て営業を終えてしまっていた。
しかし空には上弦から少し膨らんだ月が上がっており、夜道は存外に明るい。
じゃれ合いながら進むワットちゃんとボルトちゃんに先導されつつ、石畳が敷かれた沿道を私はオーナーと並んで歩いていた。
「メル親子を床に座らせて説教をしたんだって? やるじゃないか」
「いえ、その……勢いで、つい……」
「二人の喧嘩を止めてもらえて助かった、とトニは喜んでいたが」
「あはは……それは、よかったです、けど……」
私の戻りが遅いことに気づいたオーナーは、そわそわと落ち着かない様子だったワットちゃんとボルトちゃんの散歩がてら様子を見に来てくれたらしい。
ワットちゃんは魔物ではあるが、ミランドラ公国ができる前よりこの地に住み着いている種族のため、基本的にはその行動を制限する決まりはない。
その住処は、私が寝起きする部屋のテラスからほど近い木の虚で、毎朝決まった時間に窓をカリカリして起こしてくれる。
一方ボルトちゃんは、姿形は愛くるしい子猫にしか見えないが、幼体とはいえ実際は象くらいある魔物で、何よりアンドラへの送還対象である。
夜は、マノンさんも滞在する魔物専用の離れで寝起きし、外を連れ歩く際は散歩する犬みたいにリードを着用しなければならなかった。
足下をちょこちょこ歩く彼らに視線を落としつつ、何やら歯切れの悪い私の様子に、どうした? とオーナーが問う。
その優しい声が私に胸のうちを吐露させることになった。
「何だか偉そうなことを言っちゃいましたけど……本当は、アミさんが羨ましかったんです。私は……父と、あんな風に喧嘩したこともないので」
「そうか……確か、父親とは疎遠だと言っていたが……」
どういう理由か聞いてもいいか――そう問われて、答えを拒む理由もない。
「私が十歳になった頃、父が海外……えっと、遠く離れた別の大陸にある国に赴任しました。それから……一度も帰ってきていません」
「そうか……」
私は足を止めて俯く。
オーナーも、前を歩いていたワットちゃんとボルトちゃんも立ち止まった。
「お金の面だけは、ちゃんとしてくれたんですよ。だから私は行きたい学校に行かせてもらえたし、毎日の生活に困ったこともありません」
逆に言えば、父が私にしてくれたことは、私名義の銀行口座に養育費を振り込むことだけだった。
お金なんてたくさんくれなくていいから、父に会いたい――父と一緒に暮らしたい。
そう思ったことは数えきれない。
しかし、家ではそんな思いを口にできなかった。
育ててくれた祖母に申し訳なかったし、祖父にも一人娘であった母にも先立たれて孫の養育を押し付けられた彼女が、父からの送金を頼りにしていることを知っていたからだ。
「友達に打ち明けたこともあったんです。父と会えないのが寂しいって。ただ、ちょうど反抗期の頃合いだったこともあって、共感は得られなくて……」
親なんて口うるさくて鬱陶しいだけなんだから、黙ってお金だけ出してくれてるなんて逆に羨ましい。
さらには、子供のためにまったくお金を使わない親だっているというのに、何不自由ない生活をさせてもらっている私の悩みなんて贅沢だ――そう言われてしまっては、口を噤むしかなかった。
「それ以来、父に関する悩みは口にしないようにしてきました。私の気持ちを、もう誰にも否定されたくなかったから。でも……」
私はぐっと唇を噛み締める。
その時、ふいに右手が温かくなった。オーナーが手を繋いでくれたのだ。
「ココ……寂しかったな」
「……っ」
労るように、慈しむように。
異世界の公爵様で、魔物の末裔で――そんな、本来なら絶対に出会うはずのなかった人の静かな声が、そっと私の心に寄り添ってくれた。
たちまち鼻の奥がツンとして、私は眉間に皺を寄せる。
「……オーナー」
「ん?」
「……泣いちゃいそう」
「うん……いや、もう泣いているな」
オーナーの手が、そっと目元を拭ってくれた。
いつの間にか足下に来ていたワットちゃんとボルトちゃんのつぶらな目が、心配そうに見上げてくる。
私は大きく一つ深呼吸をしてから、ぱっと顔を上げた。
「オーナー、ありがとうございます」
「ん?」
「迎えにきてもらえて……嬉しかったです。とっても!」
「うん。私は、ココのオーナーだからな」
私のではなく、私の店のなんですけど、という突っ込みはこの時は控えた。
ミランドラ公国に来て、今日で十三日目――もう間もなく半月になる。
私がキッチンカーごとこの世界に来てしまった理由は分からず、次にアンドラと繋がる新月の夜までは、元の世界に戻れる可能性があるのかどうかも判断がつかない。
(でも、もしも戻れるとなったら……オーナーとこうしていられるのも、あと半月なのかな……)
そう思うと、何だか父と疎遠なことよりももっとずっと寂しいような気がして、私はオーナーと繋いだ手をぎゅっと握り締めた。
どうしたのかと問うようにオーナーが私を見下ろす。
その赤い目を、私はまっすぐに見つめ返した。
自分以外誰もこの目を見られないのだと思うと、とたんに誇らしく、そして離れがたい気分になる。
じわりと滲んだ涙を、オーナーがまた拭ってくれた。
その指先は、ついでに私の前髪を優しく梳いていく。
「帰ろう、ココ」
明るい月によって生まれた濃い影を引き連れて、私はまた歩き出す。
ミランドラ公爵邸に着くまで、オーナーがずっと手を繋いでいてくれた。




