17話 不足を補い合う
「エッダさんって、箒に乗って飛んだりしないんですね」
「うん……なぜ、箒?」
私の唐突な呟きに、ハンドルを握ったオーナーがきょとんとした顔をした。
助手席の下では、ワットちゃんが子猫型魔物ボルトちゃんとじゃれ合っている。
私とボルトちゃんは、ついさっきうっかり領事館の庭の木にぶら下がってしまい、ともにオーナーに助けてもらったところだ。
その後、彼にこってり絞られる私をにこにこして眺めていた魔女は、黒い衣装ととんがり帽子の鷲鼻のおばあさんではなく、赤いワンピースとキャメル色のブーツの幼女だった。
箒に跨って空を飛ぶことはないらしいが、現在この国でオーナーに次ぐ大きな魔力の持ち主であるという。
「それにしても、快く果物を提供してもらえることになってよかったです」
「卸値も破格で請け負ってもらえたしな。随分とココを気に入って、むしろ無償でもいいくらいだと言っていたが……」
「だめだめ! だめですよ、オーナー! エッダさんに裏心はないかもしれませんが、タダほど高いものはないといいます!」
「うん、無償で施しを受けると、頼み事を断れなくなったり返礼に費用が嵩んだりしてかえって高くつく、という格言だな」
時計塔の鐘が午後五時を知らせたのを機に領事館を後にしたキッチンカーは、一路ミランドラ公爵邸に向かって大通りを走っていた。
薄暗くなり始めたため、ヘッドライトを点灯。
法的にはハイビームが原則だが、眩しすぎるため高確率で周囲の反感を買うことから、私はロービームを提案する。
自分でハンドルを握っていた時は運転だけで手一杯だったが、助手席に陣取った今は景色を楽しむ余裕があった。
夕餉の買い物だろうか。大通り沿いに並ぶ商店はどこも賑わっている。
見慣れた日本の街並みとは様相は違うものの、夕暮れ時の情景というものは不思議と郷愁を誘うものだ。
私はぼんやりと窓の外を眺めながら、ほうとため息を吐いた。
その音が、思ったよりも大きく車内に響く。
運転席でくすりと笑う気配がした。
「随分と眠そうな顔をしているな、ココ」
「……実は今、ちょっとだけうとうとしてました」
「いろいろあって疲れたんだろう。もう屋敷に戻るだけだから、眠っていてもいいぞ?」
「いえ、そんな……いけません。オーナーに運転させて隣で眠りこけるなんて、私とんでもなく偉そうなやつじゃないですか」
とは言いつつ必死に欠伸を噛み殺そうとする私に、オーナーが優しく目を細める。
ところが、私が睡魔と戦いつつ続けた言葉で、その雰囲気は一変することになった。
「今までも、運転してもらっている横で眠ったことないですし……」
くしくも、果物屋の店先でリンゴの籠がひっくり返り、コロコロと大通りにまで転がってくる。
危なげなくブレーキを踏んだオーナーだったが、その口から出た声は……
「――誰かの運転と比べているのか」
なぜか地を這うようだった。
「ひえっ……なな、なんですか? 今の発言のどこに地雷があったんですか!?」
「ココ、質問に答えなさい。私の運転を誰のものと比べた?」
「え? ええと、ええっと……べ、別に比べているとかじゃないですよ? ただ、彼氏……元彼が、運転は上手だけれどハンドルを握ると人が変わるタイプで……」
「……ほう?」
フロントガラスの向こうでは、果物屋の店員達が慌てて大通りに飛び出してきてリンゴを拾っている。
こんな時、元彼だったらすぐにイライラして、クラクションを鳴らしていただろうと思いながら、私は続けた。
「助手席に座ってるといつもハラハラし通しで、眠くなる余裕なんて全然なかったんです。でも……」
対してオーナーは、進路を邪魔されていることに関しては微塵も苛ついている様子はない。
「オーナーの運転だと安心していられるっていうか……オーナーの隣は、すごくほっとします」
「……そうか」
私の答えは満足のいくものだったのか、オーナーの声はすでに穏やかさを取り戻している。
大通りに転がっていたリンゴもようやく拾い集められ、通行が可能となった。
ところが、ちょうどそこに対向から乗合馬車がやってきたかと思ったら、今度はそれを引いていた馬がリンゴの籠に鼻先を突っ込んでしまい、あえなく振り出しに戻る。
コロコロと再び転がるリンゴと、わーわーとそれを追いかける人々。
もう少しかかりそうだな、とオーナーが苦笑いを浮かべた。
その鷹揚で慈愛に満ちた横顔を眺め、私はしみじみと呟く。
「どうやったら、オーナーみたいにいつも冷静でいられるんでしょう……私なんて思い通りにいかないことばかりで、すぐあわあわしちゃうのに……」
すると、わずかな沈黙の後、オーナーがぽつりと言った。
「私とて、いつも冷静でいられるわけではないさ。ココと同じように、思い通りにいかないこともある」
その時、リンゴの籠をひっくり返した馬が、御者に引っ張られてキッチンカーの横を通り過ぎていく。
私の目が思わずその馬を追いかけたのに対し、オーナーは前を見据えたまま続けた。
「私はな――馬に、乗れない」
「えっ、馬……? あっ、一緒ですね! 私も乗れません!」
この返しが正解だったのかどうは分からない。
ただ、オーナーは肩の力が抜けたみたいに小さく笑って、私の頭をなでなでしてから続けた。
「子供の頃に落馬事故に遭ってね。私は無事だったが、私を庇ってアルヴァが大怪我を負ってしまった。それ以降、どうあっても馬に乗れないんだ」
「そうですか、アルヴァさんが……それは、ショックでしたね……」
車をぶつけた相手が大事に至らなかった私でも、運転できなくなってしまったのだ。
目の前で双子の姉が大怪我を負う光景が、子供だったオーナーにどれほどの衝撃を与えたのかは推して知るべしだろう。
彼は痛みを堪えるみたいに目を閉じて、静かに続けた。
「アルヴァが歩けなくなったのは……私のせいだ」
「オーナー、それは違うんじゃ……」
「私を庇ったのが原因なのだから、怪我も私のせいだろう。ただ、そう言うといつもアルヴァに叱られるんだがな。庇ったのはアルヴァ自身の意思であって、私のせいではない。どうしても誰かのせいにするとしたら、それは馬を暴れさせた者のせいだ、と」
「うんうん、アルヴァさんらしいですね」
事故を起こしたショックで私がキッチンカーを運転できなくなったように、落馬事故によりアルヴァさんの足が不自由になったことで、オーナーは馬に乗れなくなってしまった。
馬車の場合、後ろの箱に乗るのは問題ないらしいが、御者台で馬を操ることは難しいという。
しかし、馬が主な移動手段であるこの世界においては、それに乗れないことがコンプレックスとなって彼を苦しめてきたのかもしれない。
影を渡って一瞬で移動できる稀有な能力を持っていても、慰めにはならなかったのだろうか。
昨日初めてキッチンカーを運転した際、こんな風に自分の手で乗り物を操るのが新鮮だと言った、あの時の彼の言葉が今更ながら胸に迫った。
「私にも、ココにも、思い通りにいかないことがある。だが……」
ようやくリンゴを掻き集めた果物屋の店員達が、こちらに向かってペコリと頭を下げる。
オーナーはそれに頷いて返してから、私を見て続けた。
「馬に乗れない私がキッチンカーを運転して、キッチンカーを運転できなくなったココがその隣に乗って……こうしてお互いの不足を補え合えるというのは、悪くないな?」
「はい。オーナーもハッピー、私もハッピーってやつですね」
「うぃんうぃん、といったか?」
「めちゃくちゃWin-Winです!」
トラウマやコンプレックスを払拭することは簡単ではないかもしれない。
けれど、キッチンカーを運転することで、少しでもオーナーの自己肯定感が高められるとしたら、私がこうしてはるばる異なる世界にやってきたことにも、そしてキッチンカーの営業を決断したことにも、意味があるような気がした。
ゆっくりとキッチンカーが発進する。
再び始まった滑らかな走行が、私の下にさっきよりもさらに強力な睡魔を呼び寄せてしまった。
いつの間にか膝の上ではワットちゃんとボルトちゃんが仲良くくっ付いて、ぷうぷうと寝息を立てている。
彼らの体温で足が温まって、ますます眠気に抗い難くなってきた。
「ココ、眠っておいで」
そんなオーナーの優しい声がとどめとなる。
ついに観念した私が目を閉じる直前、フロントガラスの向こうに見えたのは、茜色の空を塗り替えようとする群青色。
その上には、細い三日月が浮かんでいた。




