14話 危険を察知する
カーンカーンカーンと三つ、鐘の音が響いてくる。
魔女の到着が遅れるとの知らせが届いたため、私はひとまず領事館をお暇をして、正門に止めたキッチンカーに戻ってきていた。
午後のお茶の時間を迎え、クレープ屋『Crepe de Coco』としては稼ぎ時のはずなのだが……
「えーっと……」
今のところ、お客さんはゼロである。
領事館の正門は大通りに面しているため人通りが多く、キッチンカーの周辺でも大勢の人々が行き交っていた。
キッチンカーは相変わらず注目を集めているし、店名やメニューを書いた黒板や、それらを配置した私自身にも多くの視線が突き刺さってくる。
話し言葉は通じるがこの世界の文字を読み書きができない私に代わって、オーナーが黒板を書き直してくれたため問題はない。
にもかかわらず……
「どうしよう、ワットちゃん……私、めちゃくちゃ遠巻きにされてるよぅ……」
「みゅー……」
私は運転席との仕切り窓に張り付いて、その向こうにいるワットちゃんに泣き言を零す。
キッチンカーもクレープも、ついでに私も、得体が知れないと思われているのか、誰も寄ってこようとしないのだ。
完全なるアウェー感に、ワットちゃんのふわふわの腹毛を撫でて癒されたい衝動に駆られる。
「……けど、現実逃避したって始まらないよね。何とか、ミランドラの人達の警戒心を解いて、クレープの認知度をあげないと!」
「みゅー!」
私はパンパンと自分の両頬を叩いて気合いを入れ直すと、客が来るのを待たずにクレープ用鉄板の前に陣取った。
昨日のミランドラ公爵邸でのプレオープンのように、まずは試食を配ることにしたのだ。
衛生上の理由でキッチンに入れないワットちゃんのつぶらな目が、仕切り窓の向こうから見守ってくれている。
この子のためにも頑張ろう! と決意を新たにした私が、レードルで掬った生地を鉄板に落とそうとした、その時だった。
ふいに、目の前が陰る。
「――よお、ねーちゃん」
と同時に、嗄れ声がかかった。
「ね、ねーちゃん……?」
ぱっと顔を上げれば、バックドアの向こうに見知らぬ男性が一人立っていた。
年は、三十も半ばくらいだろうか。
筋肉の付いた腕が剥き出しになった簡素なシャツと、裾をブーツに突っ込んだミリタリー風ズボン、それから草臥れたマントを羽織って、ファンタジー作品に出てくる傭兵っぽい風貌をしている。
背負っているのは、斧だろうか。
そんな傭兵風の男性は、グローブみたいに大きな手をバックドアに突っ張ると、無精髭の生えた顔をずずいと近づけてきた。
「見かけねー顔だなぁ、おい。あんた、オレのシマで商売しようってのかい?」
大きな口からは、今朝見たマノンさんみたいな鋭い牙が覗いている。
私をじろりと眺めた目は、赤。
とたん、私の頭の中には〝魔物〟と〝みかじめ料〟の文字が並んだ。
「うンめー!! なぁんじゃこりゃ!?」
見知らぬ傭兵風の男性に絡まれて大ピンチ――かと思われたが、そんな彼は今、私の前で口いっぱいにクレープを頬張っていた。
私は新たな生地を焼きながら、小さくため息を吐く。
「端からクリームはみ出してますってば……どうして包みから引っこ抜いちゃったんですか、ドットさん」
「んな上品なもんに包んでちまちま食うなんざ、オレの性の合わねーんだよぉ」
「あーもう、ベトベトじゃないですか……ほら、拭きますから、片手こっちに伸ばしてください。クレープ、まだ召し上がります?」
「食う食う。あと二十個は食える」
バナナチョコに始まり、イチゴカスタード、バナナキャラメル、ダブルクリームチョコ――彼が食べたクレープの数々である。
見た目にそぐわず相当の甘党らしい男性は、ドットと名乗った。
日に焼けた肌に灰色の髪をしており、目はやはり赤い。というのも、彼もまた魔物の末裔――狼男の子孫なのだという。
「ここいらはオレの班の巡警担当地域でな。見慣れねー物体が領事館の前にあるもんだから何事かと思ったが……そうかいそうかい。長の許可をもらってんなら、問題ねーな」
五つ目のクレープは、ハチミツバターシナモン。
鉄板の上に載せたままの温かい生地にバターを塗り付け、ハチミツとシナモンパウダーをたっぷりかけてから、スパチュラを使って三角形に折る。
私はそれをしっかり紙に包んでからドットさんに手渡した。
「長って、オーナー……ええっと、ノヴェル・ミランドラさんのことですか?」
「ココちゃんは知らねーんだな。あの人、ミランドラ公爵であると同時に、俺達国境警備隊の長なんだぜ」
「国境警備隊……それってもしかして、侵入した魔物を捕まえるお仕事だったりします?」
「おうよ。まあ、新月に境界を越えてくるような輩はだいたい長が一人で片付けちまうからなぁ。俺達隊員の仕事は、せいぜい境界以外の場所から迷い込んできやがった魔物の保護や、公国内の見回りが中心ってところだな」
クレープの価格は、アルヴァさんと相談して一律銅貨一枚に設定した。
銅貨一枚は、こちらの世界ではパン一個分の値段に相当し、日本の通貨に換算すればおおよそ百円くらい。
日本のクレープの相場が三百円から五百円くらいなのを思えば、銅貨一枚という価格は安すぎるかもしれない。
しかし、子供がおやつに買って食べようと思えばそれ以上だと手が出ないだろう、というのがアルヴァさんの見解だった。
「そういえば、私が一昨日初めて会った時もお一人でしたね……」
「あの人はさ、もう段違いに強ぇから。その上、魔物から吸い取った魔力だって自分のものにできちまうんだから、長が一緒なら俺達の出る幕はねーよ」
オーナーを含む歴代のミランドラ公爵は、魔力を吸い取ることで魔物を一時的に弱体化、あるいは無力化することできる。
中でもオーナーは、魔力を蓄える器が特別大きいことから、一度に抱えられる魔力の量も断然多いのだ。
とはいえ、幸か不幸かまだ実際にオーナーが戦っているところは見たことがない私は、ドットさんの話にへーとしか返せなかった。
そんな中、ハチミツバターシナモンクレープをたった三口で食べ終わってしまったドットさんが、ハチミツでベタベタになった指先を舐めながら、ところで、と口を開く。
「話し相手になってもらっておいてなんだけどよ――ココちゃん、商売しなくていーのかい?」
「え? ――わわっ! い、いらっしゃいませ!!」
ドットさんの無精髭を生やした顎が指す方を見て、私は跳び上がった。
いつの間にか、カウンターの向こうに行列ができていたのだ。
どうやら、ドットさんがもりもりクレープを食べている姿が、遠巻きに見ていた人々の警戒心を解いてくれたようだ。
おかげで、『Crepe de Coco』はたちまちの大繁盛。
次々に入る注文に、生地を焼く、トッピング、会計、とキッチンカーの中で忙しく動き回る私に、ドットさんがニカリと牙を見せて笑った。
「わははっ、くるくるとよく働くなあ! どれ、おっちゃんが手伝ってやろう!」
彼はそう言ってカウンターの前に立つと、注文の受付と会計を始めてしまう。
おかげで私はクレープ作りに集中できて効率も上がった。
「うわーん! ありがとうございます、ドットさん! めちゃくちゃ助かります! クレープでよかったら、後でまたご馳走しますね!」
「おう! 次は、ダブルクリームチョコバナナな!!」
そんなこんなで大忙しの一時間。
時計塔の鐘が午後四時を知らせる頃には、用意してきたバッター液も残り少なくなっていた。
初日なので少なめに仕込んだのだが、次はもう少し量を増やしてもいいかもしれない。
客足が落ち着いたところで、約束通りドットさんにはダブルクリームチョコバナナクレープを進呈した。
彼はそれを頬張りながら、クレープ生地を焼くところを見たいと強請ったどこかの子供を片腕に抱っこして、バックドアの向こうに立っている。
「へー、そんじゃあ、ココちゃん。この後、エッダのばーちゃんと会うのかい」
「ドットさんもお知り合いなんですね。エッダさんは魔女だってお聞きしたんですけれど、どんな方なんですか?」
「どんなって……まあ、魔女は魔女だな。なんでも、アンドラ女王と幼馴染だって話だぜ」
「アンドラって確か、魔物の国……女王様が治めてらっしゃるんですね?」
そう言って首を傾げる私に、ドットさんも、彼に抱っこされた子供まで呆れたような顔をした。
「ココちゃん、ホント何も知らねーのな」
魔物の国アンドラについてはもとより、このミランドラ公国のことも、私はまだ知らないことだらけだ。
とはいえ、次の新月の夜に元の世界に帰れるのなら、それほど詳しく知る必要はあるだろうか。
そう思ってしまうと、アンドラという国に対しても、魔物という存在に対しても、それ以上興味が湧かなかった。
だが――この後、私は思わぬ事態に巻き込まれることになる。
――魔物だ!
そんな声が上がったのは突然のことだった。
きゃあ、と甲高い悲鳴が続く。
「な、何事……?」
私がキッチンカーから顔を出して辺りを見回すのと、ドットさんが抱っこしていた子供を下ろして駆け出すのは同時だった。
「ココちゃんは領事館に避難してろよっ!!」
「えっ? ドットさん、待っ……」
背中に担いでいた斧を掴んで走っていく彼の背中を目で追う。
次の瞬間、私はひゅっと息を呑んだ。
ドットさんが向かう先に、とんでもなく大きな黒い塊を見つけてしまったからだ。
「な、何あれ……あれが、魔物……?」
姿形は、トラやヒョウのようなネコ科の大型動物に似ているが、それにしても大きさが尋常ではない。大人のゾウくらいあるだろうか。
それを一言で表すとしたら――
「ちょ、ちょ……超巨大黒猫、だ」
猛然と斧を振り回すドットさんに対し、巨大で強烈なネコパンチが繰り出される。
「ドットさんが狼男の末裔だということは……つまりこれは、イヌ科対ネコ科の戦い!?」
などと、現実逃避をしている場合ではない。気がつけば、キッチンカーの周囲には誰もいなくなっていた。
どうやら、領事館の門番が路上にいた人々を敷地内に避難させているようだ。
「わ、わわ、私も早く逃げなくちゃ……」
私は慌てて靴を履き、運転席の方にいたワットちゃんを外へ連れ出す。
と、その時だった。
路上に一人、子供が取り残されているのに気づいてしまったのだ。
黒いおかっぱ頭で、真っ赤なワンピースとキャラメル色のブーツを履いた、幼稚園児くらいの女の子だった。恐怖で固まってしまったのか、ドットさんと魔物の方を凝視して立ち尽くしている。
周囲には保護者らしき人影も見えないし、さらには領事館に避難した人々も門番も、誰も彼女を助けようとしないのだ。
私はゴクリと唾を呑み込むと……
「しっかり、掴まっててっ!!」
ワットちゃんを頭の上に載せて、全速力で女の子のもとへ走る。
即座に小さな身体を抱え上げれば、彼女はぎょっとしたみたいに目を――赤い目をまんまるにした。
「おお……びっくりした……」
「驚かせてごめんね! 大丈夫? ケガはない?」
「う、うむ……」
「よかった! すぐに逃げ……」
戸惑う女の子を抱っこし、後頭部にワットちゃんをしがみつかせて、いざ領事館へ避難しようとしたところで、私は固まった。
ドットさんと対峙していたはずの超巨大黒猫的魔物が、急にこちらに鼻先を向けたからだ。
魔物と――目が、合った。
赤い目の中心で、黒い瞳孔がきゅううっと広がりまん丸になる。
私の心臓は、今にも胸を突き破って飛び出さんばかりにバクバクと激しく脈打った。
ゴクリ、と喉を鳴らして唾を呑み込む。
やべっ! というドットさんの焦った声で我に返った私は、女の子を抱えたまま弾かれたように駆け出した。
しかし同時に、魔物の足が地を蹴る。
「ひええっ……」
バッと宙に飛び上がった巨体の影が、私達の上に落ちた。
前足の先から飛び出した爪が、太陽の光を反射してギラリと禍々しく輝く。
――逃げきれない!
そう悟った私は後頭部からワットちゃんを引き剥がすと、女の子と一纏めにして自分の身体の下に抱え込み、その場に蹲った。
ザザッと石畳に膝が擦れる。
あとはただ、あの鋭い爪に背中を抉られる恐怖に怯えることしかできない。
そんな時、私が無意識に助けを求めたのは、血相を変えて駆け寄ってこようとするドットさんではなく――
「……っ、オーナー……オーナー!!」
段違いに強い、と彼が誇らしげに語った人だった。




