10話 オーナーになる
キッチンカーのキッチン部分は右側ドアから乗り降りし、左側のドアは潰して商品の受け渡し用カウンターに。クレープを焼くための電気式鉄板は、跳ね上げ式のバックドアを開いた場所に設置していた。
「生地には、小麦粉、牛乳、卵、砂糖が入っていますが、体質的に食べられないものはありませんか?」
「ご心配には及びませんよ。どれも、この世界で一般的に食べられているものばかりです」
医者だというロドリゲスさんの太鼓判をもらった私は、調理用の手袋をはめて足下の冷蔵庫から生地を取り出した。
粉と水分をよく馴染ませてサラサラにしたり、グルテンを落ち着かせて伸びがよく薄く焼けるようにするため、生地は一晩寝かせている。
材料の配合を含めて、半年間修業をした行列のできるクレープ店で学んだことだ。
レードルで掬った生地を鉄板の真ん中に流し入れ、木製のトンボで大きい丸になるよう手早く伸ばす。
目指すは、直径四十センチの鉄板ギリギリの大きさだ。
そんな中、借り物のブラウスの袖が長すぎて、何度捲ってもずり落ちてくるのには困ってしまった。こんなことなら予備のスタッフTシャツに着替えておけばよかったと後悔していると……
「ココ、腕を貸してみなさい」
「わわっ……あ、ありがとうございます!」
ノヴェルさんの手が鉄板越しに伸びてきて、ブラウスの袖を丁寧に折り返してくれた。
生前の祖母にも散々世話を焼かれていたのに、相手がノヴェルさんだと思うとどうにも照れくさいものだ。
アルヴァさんがニヤニヤしながら彼を肘で突付く。
「あらあらあらあら、お兄さんったら! 随分と面倒見がいいのねぇ?」
「ミランドラにいる間は私がココの保護者だ。面倒を見るのは当然だろう」
そんなミランドラ姉弟のやりとりを、キッチンカーを囲んだ人々が微笑ましそうに見守っていた。
ちなみに、アルヴァさんは私の手元が見えないと言ってロドリゲスさんに抱っこしてもらっている。
二つ返事で望みを叶えた彼の首筋にしがみつき、アルヴァさんはずっと上機嫌だ。
そんな彼女が車椅子に乗っている理由も、いつか聞く機会があるだろうか。
鉄板の温度は約二百度。四方八方から熱い視線を浴びつつじっくりと片面を焼いてから、スパチュラと呼ばれる長いヘラでひっくり返して生地は完成だ。
一番近くで見物していたノヴェルさんとアルヴァさんが、同時に口を開いた。
「うまいものだな、ココ。実に手際がいい」
「上手ねぇ、ココちゃん! そんなに薄い生地なのに、破らないでひっくり返せるなんてすごいわ!」
始めた当初はなかなかうまく生地を焼けず失敗ばかりだったが、こうやって褒めてもらえると頑張って修業してよかったと思えた。
アルヴァさんを抱っこしたロドリゲスさんも、そんな私を好々爺のごとき表情で見守ってくれている。
甘い物がさほど得意でないらしいノヴェルさんは、ベーコンとチーズを載せて黒胡椒を利かせた、おかず系クレープ。
アルヴァさんは対照的に、ホイップクリームとカスタードクリームをふんだんに絞り、イチゴをトッピングした、デザート系クレープ。
そして、ロドリゲスさんはシンプルに、熱い生地にたっぷりとバターを塗って砂糖を振りかけた、シュガーバタークレープ。
ひとまずは三人分、それぞれ円錐形に巻いてから、袋型になったクレープ用の包装紙に差し込んだ。
キッチンカーを囲んだ観衆も、クレープに興味津々の様子である。
けれども、いざ完成したクレープをノヴェルさん達に渡したところで、私ははたとあることに気づいた。
「もしかして……みなさん、立ち食いとかなさらないのでは……?」
なにしろ、ノヴェルさんとアルヴァさんは君主だったり貴族だったりするらしいのだ。
ロドリゲスさんだって、いかにも洗練された紳士といった風情である。
はたしてそんな人達が、テーブルも椅子もない野外、しかも手掴みで食べてくれるだろうか。
何も考えずにクレープを渡してしまったことを早々に後悔したが、しかしそれは杞憂だったとすぐに判明する。
三人とも躊躇なくクレープに齧り付いた上、たちまち目を輝かせたからだ。
「すごく美味しいわぁ、ココちゃん! もちもちした生地にあまーいがいーっぱい詰まってて、とっても幸せ!!」
「生地の外側はパリッと、内側はバターが染み込んでしっとりとしています。鉄板の熱で溶けて混じり合ったバターと砂糖の香りがまた芳ばしい。いやはや、とてもおいしいですね」
アルヴァさんは口の端にクリームを付け、ロドリゲスさんは眼鏡の下で優しく目を細めて私に微笑みかける。
さらに……
「――うん、うまい。生地のほんのりとした甘味と具材の塩気が相俟って、絶妙な味わいになっている。私は、好きだな」
ノヴェルさんが、好きだと言ってくれたのだ。
彼らの言葉が社交辞令でないのは、食べっぷりを見れば分かる。
美味しそうにクレープを口にする三人を前にして、私はついに堪えきれなくなった――涙が、溢れるのを。
「ううっ……」
「ああー!? ごご、ごめん! ごめんね、ココちゃん! 私達ばかり食べちゃった! ココちゃんだってお腹空いてるわよね!?」
「おやおや、よろしければ私のものを……いや、おじさんの齧りかけなんて嫌ですよね?」
唐突に嗚咽を漏らした私に、アルヴァさんとロドリゲスさんが慌てふためく。
芳ばしく香るシュガーバタークレープが差し出されたので遠慮なくかぶり付けば、自分で作っておいてなんだが感動的においしかった。
それでもなお止まらない涙を拭おうにも、調理用手袋をはめているため叶わない。
すると……
「ココ、どうした? 何が悲しいのか言ってごらん」
今度はカウンター越しに伸びてきたノヴェルさんの手が、優しく目元を拭ってくれた。
私はスンスンと鼻を啜りつつ、悲しいのではないのだと首を横に振る。
「私……全財産を注ぎ込んでしまって後がないからとか、浮気した彼氏を見返してやりたいとかで、いつの間にかキッチンカーを成功させることばかりに固執してましたけど……」
嗚咽混じりの私の話に、ノヴェルさんをはじめ、その場に居合わせた人々がじっと耳を傾けている気配がする。
私は自分の気持ちを伝えようと、ただただ懸命に言葉を紡いだ。
「みなさんが私のクレープを食べているのを見て、やっと思い出したんです。本当は私、こうやって誰かに喜んでもらいたい――自分の手でたくさんの笑顔に作って生きていきたいと思って、キッチンカーを始めようと決めたんです」
涙で視界が滲んでしまって、ノヴェルさん達がどんな表情をしているのかはもうまったく分からない。
それでも、私はキッチンカーの中から深々と頭を下げて言った。
「大事なことを思い出させていただき、ありがとうございました」
その場に沈黙が落ちる。
ノヴェルさん達が顔を見合わせている気配を感じたが、気まずい雰囲気ではなかった。
「ココ」
やがて、優しい声で名を呼ばれる。もちろん、ノヴェルさんの声だ。
おずおずと顔を上げた私を見つめて、彼は続けた。
「私から一つ、提案なんだが」
「……はい」
「ひとまずは次の新月までの間、このミランドラでキッチンカーを営業してみてはどうだろうか」
「……え?」
思いも寄らない話に、私は目を丸くする。
おかげで、涙もぴたりと止まった。
「もちろん、ミランドラの規則は遵守してもらうことになるが……ロドリゲス、医師の観点からしてどうだ? 今食べたクレープというもの、民に提供して問題ないだろうか」
「ええ、ノヴェル様。どれも、我々が普段食べているものと大きな違いはないでしょう。ご心配なようでしたら、他の食材に関しても私が検閲いたします」
「価格設定や売り方の相談なら乗るわよ! ミランドラにある材料でも作れるのなら、厨房に掛け合って仕入れも頼んであげるわ!」
ノヴェルさんの提案に、ロドリゲスさんもアルヴァさんも全面的に賛成のようだ。
そんな彼らの顔を見回して、私は震える声で呟く。
「ミランドラで――異世界で、キッチンカーを……?」
道に迷ってイベント会場に到着できなかったどころか、何やら異なる世界にやってきてしまった私のキッチンカー。
開業は断念せざるを得ないと思われたところで、突然与えられたチャンスに私の心は色めき立った。
ゴクリと唾を呑み込んで、カウンター越しにノヴェルさんを見上げれば、彼はその赤い目でじっと私を見返して言う。
「あらゆる責任は私が持とう。どうする、ココ。やるか?」
この時、私は豁然として視界が広がるのを感じた。
気がつけば、調理用手袋をしたままの両手でノヴェルさんの手を掴んで、こう叫んでいたのだ。
「や、やります! やらせてください――オーナー!」
「うん、おーなー、とは?」
私の勢いに面食らった顔をする彼に、すかさず畳み掛ける。
「オーナーとは所有者のことですよ。キッチンカー営業の責任者となってくださるなら、この世界ではノヴェルさんがクレープ・ド・ココのオーナーで、私が店長です!」
「うん、なるほど……ココの所有者か。悪くないな」
「いえ、私じゃなくてキッチンカー……ともかく! 私がこの世界にいる間、オーナーは移動するのにぜひこの車を使ってください!」
「しかし、私がこれを使ってしまってはココが営業できないだろう?」
ノヴェルさん改めオーナーにキッチンカーを使うよう提案したのは、さっきみたいに楽しそうに運転する彼をもっと助手席から見ていたいと思ったからだ。
私達のやりとりを、アルヴァさんをはじめとするキッチンカーを取り囲んだ人々が興味津々に見守っている。
私は、彼らの前で宣誓するように続けた。
「私もくっついていって、オーナーの用事が済むまでその場で営業します! そうしたら、いろんな場所で開店できるでしょう? オーナーは運転を楽しめて、私は出店先を多く回れて、まさしくWin-Winです!」
「なるほど、それはいい考えだな。……ところで、うぃんうぃん、とは?」
「オーナーもハッピー、私もハッピーってやつですよ!」
「はっぴー、とは……いや、これはさすがにココの顔を見れば分かるぞ。嬉しいとか幸せとか、とにかくよい意味の言葉だな?」
そう言ってくすりと笑ったオーナーに、私は満面の笑みで頷く。
こうして、私は思いがけず異世界においてキッチンカーを営業するチャンスと、心強いオーナーを手に入れたのだった。
ところがである。
この後、午後五時を知らせる鐘の音が聞こえるまで、プレオープンも兼ねてミランドラ公爵邸の人々にクレープを振る舞った私は、キッチンカーにとっては死活問題となるある重要なタスクを失念していた。
さらに、茂みの影からキッチンカーに熱い視線を注ぐつぶらな目の存在にも、この時はまだ少しも気づいてはいなかったのである。




