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失われた音の話

作者: マサナス/那須司朗

『近代音楽II』の単位は必須とは言え、こんな新年度早々から始まるのは勘弁願いたいところだ。昨日までそれをすっかり忘れていてアルバイトを深夜帯のシフト入れてしまっていたのも失敗だった。自業自得ではあるが、由比子がメールをくれなかったら完全にすっぽかしてしまうところであった。


「――以上が米国における大まかな流れとなります」


 壇上の教授は説明の後に腕時計をちらりと見やる。おれはとりあえずホワイトボードにぎっしり書かれた年表をノートに写し続ける。講義時間はまだ十五分ほどある。ボードを消して新しくなにか書かれたら徹夜明けの状態では正直厳しい。


「――ところで皆さん、米国のエドワード=ファインマンという作曲家はご存知でしょうか?」


 残り時間が中途半端だと判断したのか、教授がやや軽い口調となって話を始める。ノートを書きながら記憶の隅をさらってみたものの、残念ながら浮上するものはなかった。これでも受験勉強の時には古今東西ある程度の音楽関係者の名前を詰め込んだ筈なのだが。隣の席にいる由比子のほうを見ると向こうも同じことを考えていたのだろうか、目があった。肩をすくめて首を振るのを見て、こちらも同じように肩をすくめてみせる。


「彼は特殊な聴覚障害を煩いながらも、名曲を生み出した天才です。一部では”近代のベートーヴェン”などとさえ呼ばれています」


 それなりに有名な人物らしいぞ、と思いノートの余白に名前をメモしておく。


「何万人に一人、という確率なのだそうですが、先天的に特定の周波数の音と、その倍音に限定された難聴の子どもが生まれます。現在では鼓膜の厚みや耳骨の形状などの偶然の組み合わせが原因だと解明されていますので、外科手術で治療することも可能なのですが、彼の生まれた十九世紀初頭ではそれもままなりませんでした」


 再び由比子のほうを見ると、眉根を寄せ、何かを考え込んでいるようだった。その横顔をつい見つめてしまっているのに自分で気づき、慌てて視線を前に戻す。しかし、そんな障害があるなんて知らなかった。音楽を聴いている時に、特定の音だけふっと消えてしまうのだろうか。


「日常生活にはそれほど支障がないのですが、彼は音楽家を志します。先天的に『ファ』の音程が全く聞こえないというハンデを背負いながら勉強したのですからその苦労は並大抵のものではなかったはずです。しかし彼は独自に専用の補聴器を開発したりといった才も発揮しつつ、五十九歳で亡くなるまでに童謡を中心に百曲以上の曲を書いたのです」


 もし、おれがそのような障害を持っていて、治療できなかったとしたらどうだったろうか、と考えた。親の影響もあって子どもの頃からピアノを習い始めたが、すぐにそこで壁にぶつかり、音楽とはできるだけ関わらないで生きるようにしたかも知れない。当然、今音大に通っていることもないだろう。そんなハンデを抱えながら、それでも子どもたちが文字通り”音を楽しむ”ための曲を作り続けるという生き様に、おれは彼の人生に俄然興味を持ち始めていたのだった。


「子ども向けの歌曲が中心ですので音楽界ではそれほど有名ではないものの、米国では彼の曲を聞いたことのない者はいない、というほど親しまれています。そして彼が晩年書き上げたのが、『ファ』を一切使用せずに作った『人生』という楽曲です。興味を持たれた方は、調べて一度聴いてみると良いでしょう」


 それでは時間ですのでこれで、と言いながら教授は壇上を後にする。ちょうど終業のチャイムが流れてきた。このチャイムの音は、


”ファ ラ ソ ド ファ ソ ラ ファ”


 使い古された野暮な音だと思っていたが、その中にも『ファ』が三回も使われていたのだ。ノートをカバンにしまって立ち上がりながら、由比子に声をかける。


「なあ、この後暇か?」


「なあに? メールで授業あること教えてあげたお礼に奢ってくれるとか?」


「うん、それもいいけどさ、ちょっと資料室で今の作曲家のこと調べたいんだ」


 ところが、彼女の反応は、予想外のものだった。


「あー、あんた、あの教授の授業、初めてだっけ?」


「え、確かに初めてだけど、何の関係があるんだよ」


「まあまあ、お礼は学食のカフェで手を打ってあげるから、行こうじゃないか」


「ちょっと待てって、おれが珍しく勉強する気になってるってのに」


「あの教授もタチ悪いねえ、完全に真に受けてるよ……」


「どういうことだよ?」


「『人生』から『ファ』の音を抜いてみなって」


「人生、人生……Life……あ」


「そういうこと。あの教授、最初の授業いつもコレやるらしいよ」


 全く、感動して損したと悔しがったものだ。しかしこの教授が、結局はおれの指導教官になり、その後卒業してからも数十年の付き合いになるとはこの時には思いもよらなかったのだった。


(おわり)

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