船猫嵐
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ほっほー、毎日動物を捕まえてくれる三毛猫、ねえ。
いや、うちのフォロワーのひとりが三毛猫を飼っているんだけど、ここんところ虫なんかを生きたまんま、フォロワーのもとへ持ってくるようになったんだと。
理由もいろいろ考えられて、ドヤ顔したいときもあれば、飼い主が狩りに対してヘボだから、手本を見せてやっているときもあるのだとか。手元にペットを置いておくと、思わぬギフトを受けてしまうこともある、一例だろう。
猫は犬と並んで、古くより人のそばへはべることの多い生き物だ。時期によっては、人がこぞって買い付けて、目が飛び出るほどの高値がつくこともあったとか。
そして高価な品物となれば、それをめぐる事件やいわくは、掘れば掘るほど出てくるものだ。
そのうちのひとつ、俺が聞いた奇妙な話、耳に入れておかないか?
古今東西、船乗り猫が重宝されたのは、お前も知っての通りだろう。
猫には天候をあやつる力があると、信じられていた。日本では猫が落ち着いていると海も穏やかに。落ち着きがなくなれば、海が時化るという言い伝えがあった。
まんざら迷信ばかりともいえない。猫の内耳は人間のそれより敏感にできていて、気圧の変化で受ける影響も大きいんだ。低気圧なぞ受けたら、落ち着いていられる方が珍しい。
ゆえに航海の守り神として、是が非でも我が船にと、金に糸目をつけない船乗りがしばしば見受けられたという。
とある年若い漁師もまた、猫を欲していたひとりだった。
数年前、彼は海の事故で親を失っている。急な悪天候に見舞われ、海へ投げ出されてしまい、それっきりだった。
猫さえいればと、生き残った息子は何度も歯噛みをしたらしい。他にも原因があったかもしれないが、常日頃から父親が心配していたのは、自分たちのそばへはべる、猫の不在だった。それが偏った考えとなって、息子の頭をガチガチに固くしていた。
しかし猫を売ってくれる商いは、当然ながら漁師たちの足元を見てくる奴らばかり。競ってもすぐに手の届かない金額まで、釣りあがってしまう。
そのいらだちを、彼は絵にぶつけていた。猫の姿を描きだした「猫絵」だ。
特に三毛猫の姿と色合いを、好んで描いていたらしい。オスの三毛猫は最高の船乗り猫という評価は揺るがず、売りに出されるのはごくごくまれなことだった。
――いつか自分も、立派な猫を乗せてやる。
そう信じる彼は、最低限の必要な費用のみねん出し、残りのもうけをこつこつ貯めていったのだという。
彼の所有する船は、当時の合戦で使われていた小早船を見本に、安宅船を思わせる小屋が、船のやや前方に取り付けられた体裁をとっている。
もし陸を見失うほど漂流する羽目になった際、風雨をしのいで、非常用の蓄えを載せておく場所として、彼の父親が設計したものだ。
この小屋の中には神棚も祀られており、そこへ猫絵を捧げるところから、彼の一日が始まるのだが、その日は違った。
つないである船が、いつもより大きく揺れる中、彼がひょいと小屋の入り口をくぐって見たものは、神棚の真下。たるのひとつの上に丸まってうずくまる、猫の姿だったんだ。
白、茶色、こげ茶色の三色の毛を持つ、キジ三毛。顔をこちらへ向けながら、文字通り目を細める表情に、青年は最初、理解が追い付かずにぽかんとしていたらしい。
その存在のせいばかりじゃない。猫は体中をぐっしょり濡らしていたんだ。
普通、猫といえば水のしぶきが飛ぶだけで両手を振り回し、落ち着かなくなるもの。
それがこの猫は体中の毛としっぽも大いに濡らし、タルの上に自らの水たまりをこさえながらも、実に安らかそうな顔のまま、動かずにいるんだ。
やがて我に返った青年は、そっと猫へ近づいてみる。ぎっしぎっしと小屋の板がきしみをあげるが、猫は青年の接近とともに、くいっとあごを持ち上げた以外は動きを見せない。
ためしに指を口元へ近づけてみると、ゆったり首を伸ばして「すんすん」とかいでくる仕草も見せる。少なくとも、その生き物から猫である気配はした。
青年としては、嬉しさよりも怪しさの方が勝る。
これまで何年も貯金し、なお及ばない宝が唐突に現れるなぞで、簡単に喜べるほど幼くはなかった。濡れたままじっとしている件も、気にかかる。
かといって、自分を陥れたところで得をするのは、そのコツコツ貯めた蓄え程度。狙われる意味が分からなかった。
ひとまず、青年は猫をそのままにし、今日の漁の準備に取り掛かる。その間、猫は眠たげな顔のまま、引き続きタルの上でうずくまり続けていたらしい。
――猫が眠るのであれば、海は穏やかになる。
人づてにそう聞いていた彼は、これが吉兆であると読み取った。
実際、昼間の沖合での漁は波も穏やかなまま推移し、彼自身が定めている目標漁獲量まで、すんなりと到達できたとか。
ただ陽が最も高く昇るころ、これまでじっとしていた猫が、不意にピンと耳を立てて起きたかと思うと、たたっと甲板へ駆け出てきた。すでにその毛並みは、すっかり乾いている。
「ふー、ふー」と息を荒くし、雲ひとつない晴天を見上げてうなっている。
全身の毛が逆立たせる、その冗談のような姿を、青年は初めてその目にとらえた。
すぐ陸へ舵を切るも、その直後からにわかに、空へは黒い雲がわき出してきた。
西の空に浮かんだ一点から、ぐんぐん版図を広げる雲は、たちまち船の上にまでかぶさるや風は強まり、波は高まり、船がぐらぐら揺れるうえ、いまにも雨がちらつきそうな具合。
ちょうど父を?み込んだ、嵐の直前のような様相を呈してきた。
櫂を漕ぐ手に力を込めるも、すでに陸の向こうの山まで届いた雲とは、比べ物にならない遅さ。いつ雨が落ちてくるかと、何度も海と空を行き来する青年の目が、やがて視界の端で動いたものへ注がれる。
あの三毛猫だ。
これまでうなるばかりだったのが、だしぬけに船のヘリへ飛び乗ると、そのまま海へと体を投げ出したんだ。
青年は驚き、櫂を放り出して、猫が落ちていったヘリへ飛びついた。
――船乗り猫が海へ落ちると、船を沈めるほどの嵐を呼ぶ。たとえ生き残っても、向こう9年間は猫のうらみに、呪われる。
そう聞いている以上、たとえ買った猫でなくとも、助けなくてはと思ったんだ。
ところが、船のヘリから下をのぞきこんだ青年は、すぐに顔を引っ込めざるを得なかった。
だらんと、手足を垂らしながら首をかしげた格好の猫が、海面から勢いよくこちらへ上ってきたんだから。
そのかっこうは、親猫に首裏をくわえられた猫のよう。それを真上から見ているような角度で、耳付きの頭が突っ込んできていたんだ。
さっと青年が顔を引っ込めると、そのすぐ先で猫は船を越え、ぐんぐんと中空へと引き上げられていく。
見上げる青年の目は、猫が小さくなっていく先。頭上の空で、わずかに黒雲がのき、細い青空の穴からは、船のヘリによく似た形をした、白い雲の姿がのぞいていたらしい。
そして心配された雨はというと、気を取り直した青年の船が、陸へたどり着くのをはかったかのように、振り落ちてきたのだとか。
かのひと晩ならぬ、ひと昼を共にした猫のことを青年が話したのは、家族ができて自らも腰を落ち着けた、数十年後のことだったという。
あの日から確かに、自分が漁に出るときは天気の崩れることが多かったように思う。それでも話に聞いていたような、船が沈むほどの嵐には、出会わずにい続けたのだとか。
あの三毛猫は、空の向こうに見た、雲の船から墜ちたものかもしれない。
空を雲が覆うときは、きっとあの船にとっては、最高の航海日和なのだろうと、彼は語ったそうなのさ。