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4 回想 桃栗三年柿八年

 例の出会いの日の翌朝は、打って変わって快晴だった。


 講義が終わった直後の喧騒の中、大学の講堂内で僕は背後から声をかけられた。

「今日のノート、コピーさせてもらえないかしら」

 振り向くとそこに、女性が一人立っていた。襟に黄色い花の刺繍が施された真っ白なブラウスに、スリットの際どい紺のスカートという出で立ち。前日の彼女だった。

「え? あ、えっと」

 ブラウスにうっすらとオレンジ色の下着のシルエットが透けていた。僕はさっと彼女から目を逸らした。

「そんなに字、綺麗じゃないんで、僕のじゃ読みにくいと思いますけど。その……」

「やはり駄目かしら?」

「いえ、別にダメとかそういう訳じゃなくて、あの……」

「そうね。授業へ真面目に出席している君からしたら、ノートのコピーだけ貰おうなんて虫のいい話よね」

「あ、その、そういうつもりじゃなくて」

 また昨日のような嫌な汗をかいている。

「昨日、お会いしましたよね?」と、問いかけてみれば良いだけの話だった。けれどその一言が、魚の小骨のようにのどの奥に引っかかって、僕の口から出ていかない。彼女は彼女で、僕の息継ぎの間を狙ったかのようにさっさと話を進めてしまう。

 そわそわ落ち着かない心持で、彼女の様子を伺った。

 彼女は僕に気付いていないんだろうか。確かにこれといった特徴のある顔ではないけれど、昨日あんなにまじまじと僕を観察していたっていうのに。

「分かったわ。調子の良いことを言ってごめんなさい。自分の力で解決すべき問題よね」

 会釈して立ち去ろうとする彼女の姿は妙にしおらしく、昨日とは別人のようだった。

 もしかして僕の勘違いなんだろうか? 他人の空似? いや、珍しいお客様だったし、こんなに美人な人そうそういないだろうし……見間違えるはずはないと思うんだけど。

「あ、待って!」

 このまま行かせてはいけない気がした。想像以上に大きな声が出て自分でも驚いた。首を傾げる彼女にノートのコピーを渡すことを端的に伝え、僕らは連れ立って講堂を出た。


 たまたま僕が覚えていただけだ。きっと彼女にとっては、何でもない日常の一コマに利用した店の従業員、くらいの認識なんだろう。だから同じ大学で、同じ講義を受けていて、広い講堂内で近くの席に座っていた、その全てが偶然のいたずらで――?

「それで、どこがいいかしら?」

 いつの間にか数歩前を行く彼女が振り向いた。表情は固いものの、声が楽しげに弾んでいるような気がする。

「えっと、一番近いコピー機なら、二階のテラス前ですけど」

「違うわ、食事の場所よ」

「食事?」

「この出会いを祝して、今夜のディナーをごちそうしないとと思って」

「え?」

「ああ、もしかして私の手料理をご所望かしら。それなら自宅へ招待するけれど。君はどちらがいい? ちなみに私、一人暮らしよ」

 挑戦的で真っ直ぐな瞳と、すらすら呪文のように繰り出される言葉たち。僕は確信した。

 ああ、やっぱりそうだ。間違いなく昨日の彼女だ。

「いや、ノートくらい別にどうってことないですし、お礼なんていいですから」

「私、お礼だなんて言っていないわよ」

「え」

「最近の若い男の子は育児がないのね。仕方がないわ、自宅はハードルが高いようだから、ホテルにしましょうか」

「ほ、ホテル?!」

「あら、今、君は一体何を想像したの?」

 本当にもう、何なんだ? もしやこの人は男を手玉に取るのが趣味な悪女なんだろうか。気弱そうな草食系男子にちょっかいをかけては楽しんでいるのかもしれない。

「ホテルもお気に召さないのね。だとしたら仕方がないわ。おすすめのレストランがあるの。そこなら文句ないはずよ」

「……」

「イタリアン好きでしょう? ズッキーニって花も食べられるのよ。知っているかしら?」

 一度も目をそらさず彼女はとんとんと話を続ける。

 この人は誰だ? 何故僕が振り回されなくちゃいけないんだ?

 理解が追い付かなかった。思考回路がぷつんと切れたように感じて、僕は通路の真ん中でへたり込んだ。

 数多の学生たちが迷惑そうな顔をしながら、僕らを避けて流れていく。

「ご、ごめんなさい」

 そこで初めて彼女はほんの少し言葉を詰まらせた。心なしか慌てているようにも見える。

「あまりに反応が良いから。つい、からかうのが面白くなってしまって」

「やっぱりからかってたんだ……」

「立てる?」

 差し出された彼女の左手を渋々掴み、僕はのろのろと立ち上がった。

 通行人の冷たい視線がちくちく刺さる。痛かった。でもそれ以上にこの不可解な人物の言動が苦しかった。胸の奥のさらに奥、記憶の一番深いところに埋まったままの何かがうずくような息苦しさがあった。

「回りくどい言い方はやめにしましょう」

 彼女はそう言って僕の手を引きながら、コピー機の前も、一階のエントランスも、講堂前の広場も突っ切って、とうとう大学の敷地外へ僕を連れ出した。

「ええ、そうよ。私、君とどうしても話がしたくて昨日、あのお店へ行ったの」

 一体どうして僕に興味を持ったのだろう。どこで僕を見つけたんだろう。

「どうしても君を連れ出したくて今日、講義が終わる頃を見計らって声をかけたの」

 いつの間にか僕らは公園へと続く歩道に立っていた。大規模な野外イベントが開かれるような広い公園だ。彼女は歩道のわきに直線に並ぶ生垣の途切れた部分から、木々の奥へと進んでいく。

 僕は抗えなかった。抗う気が起きなかった。

「知らない人に付いていってはいけないよ」と、幼い時分に言い聞かされた台詞が頭の中でこだました。誰から言われた忠告だっただろうか。

 そうして少し開けた場所へ出た時、僕の右手は解放された。そこでやっと、僕らはずっと手をつないだままここまでやってきたのだと思い至った。よくそんな恥ずかしい状況に気付かなかったものだ。

 彼女は僕に向き直ると改めて、今度は右手を差し出した。

「私の名前は瓜生姫子。よろしく、天野淳君」

 どうしてこんなところで? と疑問に思うよりも先に、彼女の背後に目がいった。そこにはかなり大きな、それでいてみすぼらしい木が一本生えていた。幹の感じに覚えがある。ポピュラーな種類の木なのだろう。

 葉の一枚もついていない枝は日よけにはならず、彼女のブラウスは陽光を反射して白く輝いて見えた。講堂の蛍光灯の下でうっすらと透けていたオレンジ色は、今はもう見えない。その色を一瞬思い浮かべて、僕は背の高い木の正体を思い出した。

 柿の木だ。

 生命力あふれる緑の公園の木々の中で、ただ一本、不似合いな柿の老木が黒い枝を広げている。

 僕をこの場へ誘った彼女は引き続き何かを話していたけれど、その言葉は耳に入らなかった。代わりに、田舎道を吹き抜けるような風の青いにおいをかいだ気がした。

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