2 回想 ズッキーニはウリ科だそうで
時はさかのぼること二百年ほど前――なんてことはなく、さかのぼること二週間前。その出会いは突然訪れた。
「ねぇ、そこの君」
「はい! ご注文お決まりでしょうか?」
場所は賑わうイタリアンレストランのフロア。僕は黒エプロンのウェイター、彼女は目を惹く赤いワンピースのお客様だった。
「まだ少し迷っているのだけれど、おすすめはあるかしら?」
「そうですね、女性のお客様ですと、こちらの……」
ちらりと彼女の手元を見遣る。広げられたメニュー表の左半分に、ちょうどメイン料理の項目が並んでいる。僕は添えられた彼女の薬指の先にある、二つの料理名を指し示した。
「レモンとクルミのパスタと、ポルチーニ茸のリゾットは特にご好評いただいております」
「ふーん」
自ら尋ねた割に気のない返事。僕はほんの少しムッとする。
彼女はメニュー表を広げたままテーブルに置くと、背伸びをするように僕の顔をぐいと覗き込んだ。艶めかしい唇がゆっくりと動き始める。
「き、み、の、おすすめが知りたいのだけれど」
「え」
声にしてしまってから慌てて口元を抑える。すぐに姿勢を正して「失礼しました」と小声で謝罪する。
ついうっかり困惑をそのまま形にしてしまった。接客中に「え」はマズイな「え」は。背中を嫌な汗がつうっと流れた。
この手の、ほんのちょっぴり面倒くさいタイプのお客様はまれにいらっしゃる。ごほん、と心の中で咳ばらいを一つ。とにもかくにも笑顔と冷静さが接客の基本だ。
「そ、そうですね。でしたら……」
今度はメニュー表右半分の料理名に視線を移した。“今日の僕”がおすすめするならこれしかない。
「花ズッキーニのリピエノはいかがでしょうか?」
「ズッキーニ?」
「はい、ズッキーニの花を使っております。花の中に、チーズと夏野菜の炒め物を詰めた料理です」
「どうして」
彼女が首を傾げる。長い黒髪がさらりと肩の上を滑った。
「それが君のおすすめなのか、理由を聞いても良いかしら?」
「ええと、この季節にしか召し上がっていただけない料理ですし、その、今朝の収穫は私が担当したもので」
オーナーの所有する畑が、店から十分ほど歩いたところにある。今厨房にあるズッキーニの花は、出勤途中に僕がその畑から摘み取ってきたものだった。いつも収穫に出向く厨房スタッフが急に休みを取ったそうで、なぜかウェイターの僕が本日の調達係に任命されたのだ。
「そう、君が摘んだのね? ウリ科の植物の花を?」
「え、あ、はい。そうです」
随分含みのある言い方だ。ウリ科――言われてみればズッキーニはウリ科だったか。と、彷徨い出そうになった意識を、いやいやと慌てて修正する。そうだ、会話に花を咲かせている場合じゃない。
日曜の昼下がり、店内はもちろん混み合っていた。奥のお客様のテーブルのボトルが空になっている。そのお隣のお客様はそろそろお会計だろう。
僕は会話を断ち切るようにあからさまな営業スマイルを彼女に向け、反応をうかがった。
「いかがでしょう?」
「そうね。じゃあ、君のおすすめをいただくわ。あとは、ピンクアスパラガスとファッロのスープとカチョカヴァロのブルスケッタ、それから食後にエスプレッソとブラッドオレンジのグラニータもお願いしようかしら」
一切メニュー表に視線を落とさず、彼女は流れるようにそう言った。
圧倒されて次の動作を忘れ、彼女の瞳をまじまじと見返してしまった。まるで何かの呪文の様だ。
ウェイターにリサーチするまでもなく、この店のメニューは熟知していると言わんばかりの口振り。真っ直ぐこちらに向けられた眼差し。それに彼女のこの感じは――っと、いけないいけない。
僕はウェイターで、現在店内は混み合っていて、今なすべき仕事はお客様の詮索ではない。慌てて注文用紙にペンを走らせながら、呪文を復唱する。
「では少々お待ちくださいませ」
一度姿勢を正して頭を下げ、次に顔を上げた時、彼女の視線は僕の左胸に移っていた。
オーナーお手製のお洒落なネームプレートに筆記体で「JUN AMANO」と書いてある。
さして珍しくもない僕の名前は、天野淳である。
その日、僕が再び彼女のテーブルへ近づくことはなかった。もちろん避けていたのではなく偶然に。忙しなく動き回るウェイターは僕の他に三人いたし、何より僕はほどなく休憩に入ったからだ。
厨房でまかない用の紙袋を受け取って裏口から外へ出ると、空はどんよりと曇っていた。何を期待していたわけでもなかったけれど、ほんの少し肩透かしを食らったような気分になる。袋の中身はチーズとベーコンを挟んだパニーノと、ふた付き紙カップに入った冷たいエスプレッソだった。
「苦い……」
苦いものは苦手だ、文字通り。厨房スタッフに何度も伝えているのに、一向に覚えてもらえない。次の昼休憩こそは、カプチーノかラテに変えてもらわないと。
僕はため息を吐きながら尻ポケットから煙草を取り出し、百円ライターで火を点けた。煙がシャツや髪にかからないように、風下へ強く吹き出す。
「苦い」
灰色の空と混じり合う煙をぼんやり眺めてから、僕はパニーノに歯を立てた。