マリアナ沖の陸鷲
お題3となります。
最初はお題1を書いていたのですが、自分で作った規約に違反しているというマヌケな事実が判明したために、急遽こしらえました。
なので生暖かい目で読んでいただけると幸いです。
昭和19年6月19日、マリアナ救援のために出撃した大日本帝国海軍連合艦隊は、米機動部隊と対峙したものの、戦果をほとんど挙げえぬまま、翌20日までに搭載航空機のほとんどを喪い大敗した。
しかも潜水艦による攻撃により空母「大鳳」「翔鶴」を、翌日の航空攻撃によって「飛鷹」を喪うという、艦艇の損害でも一方的な大損害を被っていた。
対する米側の損害は戦闘や航法の失敗による事故損失を含めた航空機100機前後と、軽微な損傷を被った艦艇数隻のみであった。
帝国海軍によるマリアナ救援は実質的に失敗し、もはや米機動部隊は誰にも邪魔されることなく、マリアナ諸島周辺の制空権と制海権を掌握し、マリアナ諸島の陥落は時間の問題となった。
誰もがそう思った。だが、番狂わせの役者は唐突に戦場に出現した。
それは米機動部隊が、日本艦隊攻撃を終えて帰投してきた攻撃隊を収容しようとした時である。
「うん?何だこれは?」
艦隊に五月雨式に戻って来る攻撃機。その中に、明らかにおかしな動きをする機影が、艦隊のレーダーに捉えられた。これから母艦に着艦するとは思えない、高速でしかも緊密な編隊を保ったままだった。
まるで、攻撃を仕掛けるような動きであった。
しかし、最初この機影を捉えた兵士たちはレーダーの故障か、自分たちが機体の動きを読み損なったのではと疑った。
日本の攻撃隊の攻撃は完全に退けられるとともに、彼らの機動部隊はボロボロとなり敗走しているという情報が耳に入っていたがゆえに、まさか敵が攻撃を仕掛けてきたとは思わなかったのである。
「警報!!複数の敵機が高速で接近!」
日本機を認めた見張りの水兵が叫んだ時、約50機の編隊は輪陣形の外縁に達しようとしていた。
「オープン・ファイア!」
一部の艦が対空砲火を開くが、既に敵機の来襲はないという思い込みがあったために、その反応は鈍かった。しかも、味方機の収容中であったために、無闇に対空砲火を放つわけにもいかなかった。
その隙をついて、50機の機影のほとんどが陣形内部に侵入した。
「好きにはさせんぞジャップ!昨日同様七面鳥狩りだ!」
日本機の編隊を肉眼で確認した直掩、あるいは攻撃隊の護衛戦闘機のF6F「ヘルキャット」が翼を翻し、襲撃運動に入る。
対して、日本機の編隊からも10機ばかりの機体が増槽を落として立ち向かってきた。
この時日本機迎撃のために突進できた「ヘルキャット」の数もほぼ同数だった。だが彼らは負けるとは微塵にも思わなかった。この2日間の海戦において、米海軍戦闘機隊は日本海軍戦闘機隊の零戦を質の面でも圧倒しており、同数相手なら互角以上に戦えると考えたわけだ。
だが、そんな楽観はすぐに吹っ飛ぶ。
「うん!?」
接近してきたその機体のシルエットに、米パイロットたちはすぐに自分たちが犯した大きな間違いに気づいた。
「ゼロじゃない!」
明らかに胴体や主翼のシルエットが零戦のそれではなかった。それに、心なしか速度も幾分速く感じられた。
「ジャップの新型だ!」
そしてその新型機は、胴体と主翼から2基ずつの12,7mm機関砲と20mm機関砲を発射する。
この一撃は「ヘルキャット」を撃墜するには至らなかったが、見慣れぬ新型機を目撃して焦った米パイロットたちを、さらに混乱させるのには充分であった。
そしてその隙をついて、攻撃機の編隊は「ヘルキャット」を振り切って、目標へと迫った。
その目標である米空母群は、搭載機の収容のために直進しており、回避運動など出来るはずもなかった。
まさに米空母にとっては最悪の、日本機にとっては最高のタイミングでの攻撃となった。
各機は米空母に向けて突進すると、次々と胴体下に抱えてきた物体を投下した。見ていた米艦艇の乗員たちは最初雷撃と思ったが、沈まずに飛び跳ねたそれを見てすぐに叫んだ。
「反跳爆撃だ!」
米陸軍航空隊が多用する反跳爆撃であった。
これは石を水面に投げて飛び跳ねさせる遊びと同じ原理で、爆弾を海面に飛び跳ねさせて、敵艦の舷側に命中させるという戦法だ。
この戦法を米陸軍航空隊は多用しており、日本の艦船に大打撃を与えていた。それが今回攻守を完全に逆にする形で、米艦隊。それも空母へと向けられたのであった。
攻撃機は駆逐艦、巡洋艦、戦艦にも目をくれず、ひたすら空母だけを狙った。
その結果空母「エセックス」と軽空母「カウペンス」にそれぞれ2発「ラングレー」に1発の爆弾が命中した。
この内「エセックス」はさすがに2万7000トンの巨大空母としての防御力を見せつけ、格納庫に飛び込んだ爆弾によって、20機ほどの機体が全損し、小規模な火災が発生したものの、翌日朝には航空機の離発着が可能なところまで復旧している。
一方巡洋艦改造の軽空母2隻は同じようにはいかなかった。特に2発を被弾した「カウペンス」は格納庫内の機体が炎上したのに続いて弾薬庫と燃料庫に延焼したため手がつけられなくなり、結局夜半に駆逐艦の魚雷で処分となった。
「ラングレー」も沈没こそ免れたが、飛行甲板が大きく波打ってしまい、後方での修理が必要となったため、戦線を離脱した。
最終的に、この日本機の攻撃によって受けた米機動部隊の損害は損失は軽空母1隻のみにとどまり、損傷した2隻の損害を含めたとしても、マリアナ諸島攻略に何ら影響を与えるものではなかった。
しかし、完勝かと思われた戦いの最後の最後に土がついたのも事実であった。
その後米機動部隊は、この攻撃を行った敵艦隊の捜索を行ったが、夜の間に遁走してしまったらしく、結局のところ見つけ出すことはできなかった。
「31機目、着船しました」
「未帰還8機か。2割近い損害は痛いな」
「ですが司令、海軍は殆ど戦果を上げれなかったそうじゃないですか。対して我々の飛行戦隊は40機で敵空母3隻撃破です。充分過ぎる戦果です」
「そうだな」
参謀の言葉に、大日本帝国陸軍独立母船戦隊司令官大友大佐は苦笑した。
「しかし、陸軍の我々がまさか海戦をすることになるとは。人生何が起きるかわからんもんだ」
「全くです。もはや我々の存在は意味無ないものとばかり考えていたのですが」
大友が座乗するのは、陸軍特甲型舟艇母船「橿原丸」である。名前だけ見ると商船然としているが、海軍の軍人が見ればおそらく航空母艦「飛龍」或いは完成間近の「雲龍」に似ていると言うだろう。
事実「橿原丸」は「飛龍」にも「雲龍」にも通じる、言わば姉妹とは言わないまでも従姉妹の関係にある船だった。
前大戦において、陸軍はヨーロッパにおける戦訓を研究し、英軍のガリポリ上陸作戦の失敗から、上陸用舟艇の研究に邁進した。そしてもう一つ、彼らが大きな教訓としたのが、南洋諸島占領の武勲を海軍と陸戦隊にかっさらわれたことである。
当時のドイツが太平洋上に持っていた植民地。その制圧をしたのは、海軍の陸戦隊であり、陸軍はほとんど関与できなかった。
対して陸軍は中国大陸の青島要塞の攻略を行い占領したが、その後中国大陸のドイツ利権に関しては戦後処理において手放したものも多かった。対して南洋諸島はその後委任統治領という形で、ほぼ丸々日本領となり、大日本帝国は太平洋の版図を大きく広げた。
島を巡る戦いとなれば、海上を機動できる戦力が必要となるが、陸軍はこれを海軍もしくは徴庸した民間船に頼るしかない。しかし、これでは独自の動きを取ることは当然できない。
また舟艇の研究にからみ、その舟艇を独自に輸送する手段も当然求められることであった。
こうしたことから、陸軍は敵前上陸用の舟艇に加えて、その舟艇を輸送しつつ島嶼戦を見据えた独自の輸送船の開発にも乗り出した。
この1番船として建造されたのが「神州丸」であった。
「神州丸」は船内に上陸用舟艇を搭載するとともに、航空機格納庫と発艦用カタパルトを装備し、後の時代の強襲揚陸艦の母体とも言える画期的な船であった。
そして「神州丸」は中国本土沿岸部での作戦に幾度か充当され、また陸軍の一部で注目されていた太平洋上の島嶼戦における機動戦を想定した演習も行った。
その結果判明したのが「神州丸」自体の輸送艦としての能力は高いが、戦闘力自体は殆ど付与されておらず、上陸時に予想される敵水際陣地への攻撃力が不十分である点。またカタパルトは装備したものの、機材の収容能力がないため上陸支援用に搭載した航空機の運用能力が低い点。
またアドバイスを求めた造船会社や海軍の関係者からは、船体内の舟艇格納庫が被弾や浸水に弱く、逆に戦闘艦艇として脆弱性を増長していると指摘された。
とは言え、中国大陸沿岸部などの制空権・制海権を得た地域での運用ならこれで充分なため、陸軍は「神州丸」の発展型を建造しつつ、強行輸送可能な輸送艦に関する研究を並行して行った。
しかしながら、船舶部隊への予算は決して潤沢ではなかった。そこで陸軍は、安上がりな方法を思いついた。それは海軍の適当な艦艇の設計を流用することだった。
このアイディアは当初「龍驤」型航空母艦を念頭に置いて考えられていた。しかし同艦が軍縮条約による無理な設計が祟っていることが判明すると、より実用的な艦を求めるようになり、必然的に要求性能は大型化した。
最終的に行きついたのは空母「飛龍」であった。陸軍の計画では、航空機用格納庫の一部を舟艇格納庫と兵員や輸送物資の格納庫に転用するとともに、艦尾の短艇甲板にスロープを設けて、舟艇の発進と格納をするというものであった。
とは言え、海軍の新型正規空母である。海軍側が建造に協力するかと陸軍としてはあまり期待していなかったが、意外なことに海軍は設計の流用を快諾したのみならず、なんと設計や建造、その後の運用にまで大々的に協力した。
これは別にに長年の犬猿の仲を解消したというような心温まるものではなく、海軍としても陸戦隊の強行上陸用艦艇のデータが欲しかったことに加えて、陸軍側に恩を売れるという打算もあったからだ。
ちなみに、建造費用に加えて乗員の育成などの費用は商船を母体とした舟艇母船より当然高くついた。
しかしながら、ちょうど日中戦争(支那事変)の勃発による軍事予算の増額と、計画されていた舟艇母船の建造を取りやめるなどして捻出された。
こうして昭和13年10月に建造が始まり、昭和18年12月に竣工したのが「橿原丸」であった。名前の由来はもちろん橿原神宮からだが、それ以外に同名の客船がされたために、建造途中で建造中止となり、海軍の空母へ転用されたことによる、防諜上の理由もあった。
なお建造から竣工まで5年も要したのは、建造途中で幾度か海軍艦艇の整備を優先して資材や人員が滞ったことや、設計変更があったこと、そして乗員の手当に苦戦したためであった。
それでも、船舶兵や召集された商船乗組員、はては比較的機械に強い戦車兵や鉄道兵などを総ざらいして、何とか乗員は搔き集められた。
「橿原丸」は海軍の空母「飛龍」をタイプシップとしてはいるが、艦橋は右側配置となるなど、外見は海軍が後に建造した「雲龍」に似ていた。
また太平洋での戦いが制空権によって決まるという教訓から、最終的に舟艇と兵員の輸送能力は縮小され、最終的に必要に応じて対応設備を載せ、基本は航空機運用にするという、ほとんど空母と同じ艦となっていた。
そんな当初の建造目的はどこへ行った状態の「橿原丸」であったが、竣工すると海軍から譲渡された旧式駆逐艦流用の護衛艇と戦隊を組み、本土から南方への航空機や搭乗員輸送に従事させられた。
「橿原丸」は約60機程度の単発機(機種により多少変動。なおエレベーターは陸軍機に対応)の搭載が可能であったが、固有の搭載機は竣工前から海軍の航空隊に派遣されて訓練を積んだパイロットたちによる独立飛行戦隊が用意されていた。
その内訳は20機ずつの艦上機仕様のキ84「疾風」とキ66「天山」であった。
キ66「天山」は海軍の艦攻の譲渡機で、乗員を2人にして前向きの機銃を搭載するなど、武装と装甲を強化した機体である。
「疾風」は上空援護で「天山」が対潜警戒ならびに上陸援護用の機体であったが、海軍で教育を受けて洋上での作戦能力を有する貴重な部隊であった。
そしてその「橿原丸」とその搭載機は、大本営陸軍部の命令により、マリアナ救援の任に就いたのであった。
とは言え、海軍との共同ではなかったために戦場到着は遅れ、連合艦隊の敗北が決定的となった段階で、撤退命令が出された。
しかしその時には「橿原丸」は攻撃隊を放っていた。その攻撃がまさかの成功であるのだから、大友ら母船戦隊の面々や、全員玉砕の覚悟で出撃した独立飛行戦隊のパイロットたちの方がビックリである。
「陸軍の空母が海軍でさえ成し遂げられなかった敵空母撃沈を成功させた。後の歴史家は何というかね?」
大友がそんなことを呟くと、参謀の一人が答えた。
「歴史家が何というかわかりませんが、海軍は絶対に悔しがりますよ。もしかしたら、土下座して戦果の1隻を寄越せとか頼んでくるかもしれませんよ」
「まさか、そんなことあるまい」
と大友は笑ったが、土下座こそなかったものの海軍が陸軍に戦果を譲るよう本気で頼んだと彼が知るのは、この1カ月後母港宇品に帰港した時であった。
御意見・御感想お待ちしています。