情緒的共感の先の「時間」
今、小説を書いているのですが、そのせいでストレスが溜まっているので、関係のないエッセイを書いて発散させる事にしたい。適当に書こうと思います。
さて、ネットでも現実でも、人の言っている事、人の望んでいるものというものを考えてみると、「情緒的共感」とでもいうものであると思う。人は理性を働かせる前に、感情を働かせる。感情は刹那的で、その時々での自己を正当化するが、長い目で見た時、何も残らない。理性による反省は、過去・現在・未来へと少しずつ繋がっていく。僕は、理性的な存在が、感情の集団化を越えていくと信じている。ある意味で、自分は未来に生きていると思っている。
理性よりも感情が先立つとはどういう状態だろう? 例えば、「純烈」という男性アイドルグループの一人が、裏で色々ひどい事を行っていたのだと暴露された。これは事実としてはそういうものなのだろう。
この場合、自分自身が、純烈の女のファンだと無理に仮定して、メンバーの大ファンだったと考えてみる。僕(女になっているのだが)は、メンバーが裏でそんな事をしていたと知ってショックを受ける。素敵なイケメンだと思っていたのに……。ここで理性を働かせて考えてみれば、答えは「そういう事はありうる」というものになる。人間は、そういう事はあるのであって、かっこいいイケメンに見える性格の良い人だと思っていた人がそうではなく、裏で女に暴力奮って金を使い込んでいたというのはありうる、それが答えとなる。
重要な事はそういうものはある、人間はそんな裏表がある、とはっきり認識する所にある。純烈ファンの「僕」は次から、何かのファンになるのに慎重になるだろう。なにせ、人間にはそういう事はあるのだから、次に好きになる人にも、同じように裏切られる可能性がある。さて、問題は更新された。人間には裏表があるという事で、この裏表を果たしてどう捉えるのか? どう考えるのか? というのが次の問題となる。
自分の知り合いなんかを見ていても、例えば、最初会った時は「いい人!」だったのが、別れる時にはその相手は「最低な奴!」になる。これはよくある事だろうが、この場合は大抵、その人は「どうして私は最低の人をいい人だと誤認してしまったのか?」と考えない。僕が見る限り、この手の人はそんな風には考えない。感情で自分を発散させ、理性を働かせない為に、精神は前進しない。「いい人!」→「最低な奴!」→「いい人!」……の繰り返しになる。
こういう場合、自己を正当化して、自己を直視しない、つまり「自分は騙された」=「相手が間違っている」という『正しい理屈』にとらわれている為にいつまでもその人は成長しない。同じ所を精神がグルグルと回っている。考えるべきは、正しいか間違っているかではない。何故、自分は最初相手をいい人と思ったのか、何故最後には相手を最低と考えたのか、果たして相手の存在は自分にとって何だったのか。こういう点に成長できる要素がいくらでもあると思う。ところが、人はここで、自分を理性的に眺めず、感情的に他人を見つめ自分を見つめて終わってしまう。
ネットやテレビの盛り上がりなどを見ても、人が多く望んでいるのは情緒的共感だろう。情緒的共感は、確かに心地よいし、僕もそれは望みはするが、そうは言っても、大勢の感情的同意がそのまま「正しさ」につながっているわけではない以上、理性的な吟味が必要になってくる。しかし、理性的な吟味とやらについて言っても、多くの人は興味を持たない。人は気分と情緒と雰囲気の中に生きている。その為に、このように言う事も気分的なものによって裁断されるだろう。
しかし、こんな反論があるかもしれない。情緒的にみんなで活動して何が悪い? 理性なんてそんな大したものか? お前は偉ぶっているだけだろう? 情緒だろうとなんだろうと、多数者の共感を得るのは基本的に「善」だ!と。
おそらく、こんなふうな情緒の集団化が、今の日本の、言ってみれば宴会芸しかないような社会を作り出しているのだろう。最近テレビを見て、つくづくその「内輪の宴会芸」スタイルというものを感じたが、なろう小説からユーチューバー、AKBまで、全ては内輪の、集団の、情緒的宴会芸、夏祭りの盆踊り的なものに還元され、全てがダラッと下方に集まり、スライムの集合体のように溶けて固まっている。プロフェッショナルは消え、そう呼ばれていたものは素人に媚びを売る存在となり、全てが情緒的共感に溶けていく。それが今の世の中であって、この温かな雰囲気の中で、この国はゆっくりと水没していっているのだと思う。
こう書くと悲観論と思われるだろうが、自分は「滅び」が好きなところがあるので、その状態にマゾヒズム的快感を感じている…という点もある(このド変態が!)。まあ、そんな風に思っています。
話を戻すと、情緒的共感が何故いけないのか、問題なのか、と言えば、もちろん、問題ではないでしょう。この世に正しいものなんて存在しないという観点からすれば正しいわけですし、問題はない。ただ、情緒的な塊が必ずしも正しい方向に進んでこなかったのは歴史を振り返ればハッキリすると思います。こう言うと、理性だって必ずしも正しい方向に進んでこなかったという反論があるでしょうが、そういう反論ができる人はレベルの高い人なんじゃないかと思います。
自分のイメージしているのは、理性によって経験を吟味し、そこから何かを得ようとしなければ、その人はただ経験の中に沈み込んで感情を発散させるだけの人となるという事です。経験から何かを得ようとする人だけが何かを得るのであって、自分を正当化し、相手を間違いとみなすのであれば、その正しさの中に永遠に沈み込む事になる。今は集団でこの泥沼にはまっている状態で、この泥沼を正当化すれば受けるし、それによって「成長した」とも感じるでしょうが、僕はそれを成長とは思いません。
では、そのお前の言う成長とやらは一体どのようなものか?と問われればそれは「時間」の中で、我々の認識範囲の外側にある時間軸によって始めてはっきり視認されるものであると思います。そういう意味で僕は「時間」を信じています。
時間は数ではなく、過去ー現在ー未来と続く延長線でもなく、「他者」、自らが自らを経て違う者になっていくような、そういう経験性としての「時間」であると思っています。僕はそういう「時間」というものを信じています。そうして僕自身も、その時間の中では少しは意味のある存在なのではないかと考えています。もっとも、これが単なるうぬぼれだと糾弾する権利を、人は持ち続けます。