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素直な体温


 戻ってきた日常は、驚くほど滑らかに進んでいく。彼女はもう、僕の前に現れなかった。謝る言葉を何通り考えても、僕の世界から姿を消した彼女に、伝える術もなく。僕は、『ルート』に戻ってきた。誰の為でもなく、誰の意志でもなく、ただ弱い僕が、ここにしかいられないから。

 泣いた顔を、あまり覚えていない。あの時僕は、必死に目を逸らした。僕が、過去の僕を否定し続けていた僕が、もう体に馴染み過ぎていたから。そこから汚れた皮を引っぺがして、新たな僕へ変わることはまだ、難しくて。


 いつか、僕は今の僕を否定しなければいけない時が来る。あの時と同じように、その時はきっと酷く惨めで辛くて、もしかしたら比喩なしに死んでいるかもしれない。僕は、弱いから。すぐに逃げ出して、塞ぎ込んで、勝手に埋もれていく。

 駅のホーム、僕は毎朝彼女を探した。色褪せた茶色のショートカット、どれだけ人混みに埋まっていても、一目で見つけられる自信もあった。傲慢だとか、自分勝手だとか、そんな自戒は腐るほど繰り返した。だけど、根本に続いている感情は誤魔化せない。

 どれだけ言葉で飾ろうと、どれだけ行動で示さなくても、僕の奥底にある理論のない衝動に、嘘はつけない。自分が何より、それを知っている。


 会って、ただ一言伝えたかった。それで終わりたい。もう、彼女の近くにはいられないことは分かったから。彼女の為なんかじゃなく、僕の為に。最高に最低な、自己満足の為に。そう、そんなこと、認めてしまえばいいじゃないか。もうあの日から、正義の味方になれないことなんて分かり切っていたんだから。

 『誰かの為に』なんて存在しない。誰もが、自分の為に。自分の何かを満たす為に。もしかしたら、『本物』は誰かの為に戦えるかもしれない。だけど、僕は『本物』なんかじゃないから。負けて、惨めで、弱すぎるちっぽけな凡人。だから、誰を傷つけても自分の為に生きる。

 あの日の敗北は、僕の軽薄で有りがちな夢を粉々に打ち砕いた。だから、現実を見るフリをして平凡に逃げた、その先なんて──クソッタレじゃないか。今、今だけ、考えればいい。だから僕は今、彼女に会いたい。傷つけようとも。これは愛なんかじゃない。もっと汚れてエゴイスティックな、名前の付けにくい何か。

 分かっている。分かっていない。僕は、僕の為に、なんてこれも、嘘だろうか?


 未来なんて別に欲しくない。過去なんて早く棄てて終いたい。だけど、今だけはせめて僕のモノにさせてくれ。この先バラバラにされようと、脳髄の奥底まで引きずり出されたとしても、または心なんて邪魔くさい物を失って僕が僕でなくなってしまっても構わないから。今だけ、この瞬間だけ僕のモノに。


 夏の時間は、長くて速い。彼女は早生まれの蝉の様に現れて、消えていった。



 青葉が散り、蝉が墜ちる。風が冷たくなり始めてからは早かった。僕の『日常』は、何も変わっていない。ただ近づく受験を意識して、形だけの単語帳を開くようになったくらい。頭に入るものでもなかった。意味なんて見失っていたけど、もうレールから外れられないことも理解していたから。

 僕は毎日、頭半個分下の誰かを探した。かける声ももう忘れてしまっていたけど。夏服から重苦しい冬服にかわり、冷える口元をマフラーで覆いながら。体の奥底まで冷えていくのを実感していた。


 電車の時間をずらそうと、帰りの一時間をそこで過ごしてみても、何も変わらない。ホットの缶コーヒーの味に慣れてしまったくらいで。昔は大嫌いだった缶の臭味も、もうすっかり舌に馴染んでしまった。

 一時的に暖まる手も、すぐに凍り付いていく。自分の冷たさを十分に自覚していた。誰かを傷つけることくらい、本当は少しも厭わないのだと。僕が、僕さえ、良ければ、それで。繰り返すたびに虚しくなっていく本心のはずの何か。このエゴすらもう、僕を表すには物足りないのだろうか。でも、もう惨めな僕を笑ってくれる誰かもいない。


 自分を見失いそうになりながらも、僕はまだ『日常』に住んでいる。腐り切ったまま、「死にたい」なんて平凡な言葉を時々並べたりして。あの日、僕は彼女に手を引かれなかったらここにはいなかったんじゃないか、なんて思うとまた悲しくなって。変わったつもりで何も進歩していない自分が少し嫌いになる。

 自分が嫌い、なのがいつからだったのかは分からない。でも、ようやくスムーズにそれを言葉にできるようになったから。逃げがちで、自己中心的で、いつも誰かの所為にしたがる自分が本当は大嫌いだと、やっと自分に伝えることが出来た。


 安っぽい言葉、かもしれない。でもそれでいい。僕に高級な言葉なんて似合わないし。


 安っぽくネガティヴになって、安っぽく惰性で生きていて、それでいい。一つ、僕以外の誰にも理解できないであろう希望を抱えていられる。誰にとって無価値でも、汚れきった願望でも、僕にとってそれは必要だから。


 退屈に過ぎる時間。未来を見ることのできないまま、僕はただ目の前のタスクだけをこなしていく。終わらせていく。誰かに文句を言われるのがただ面倒くさいから。自分にとってとてつもなくどうでもいい様々を、ただ無意味に育てられた手で切り捨てていく。

 楽しさはどこかへ置き忘れてきた。喜びは、半年前に見捨ててきた。残ったのは寂しさと、それに付随する邪魔くさい何か。いつ捨てられるか分かったものじゃないから、しばらくは付き合っておかないといけない。多分、全部投げ捨てられる日が来たら、あの日をやり直すように僕はホームに立つだろう。


 そして、そこに一抹の希望を抱いている自分がいるのを僕は知っている。



 休日の気だるげな朝に、僕は偶然それを見た。何でもないニュースの切れ端。それを見た一億人の99%は多分すぐに忘れるような、そんな一幕。平凡な、高校生の自殺。それはつい数時間前の出来事らしく、不自然に作られた悼む声も、友人たちの思い出話も、まだ浮き出てこない。

 ただの、事実。いつも通り、人が一人死んだだけ。なんなら毎秒起きている日常の一コマ、で終わるはずだった。この後の僕はいつも通り何もしないで終わり、次の日が来るころにはもう忘れている。本当ならそれでよかった。


 その現場が、僕の毎朝利用する駅でなければ。


 ついたその場所には、『日常』が戻っていた。誰かの手が汚れた事実と、誰かの命がはじけ飛んだ事実は、もうすっかり掻き消されて。最初からなかったように、ただブレることのない『日常』が聳え立つ。だけど、だけど確かにこの場所では『誰かが死んだ』

 それも『日常』? だとしても、僕にとってそれは違う。違う。どこかの誰かが死んだところで、気づきもしなければ泣きもしない。僕自身が死んだところで、もう悲しむ機能さえ残っていない。だけど、それが自分にとって意味のある『誰か』なら──。


 答えは得られない。日常に飲み込まれた空間からは、何も聞こえてこなくて。彼女が、泣きながら告白してきたあの少女が、かつて、僕の敗北をたった一人笑わなかったあの少女が、この世から消えてしまったとしたなら。

 心臓を握りしめられたかのように、息ができなくなる。喉を絞め上げる、誰かの声。どこかで聞いたような、弱すぎる僕を嘲笑う声。


 違う、僕は、違う。彼女の死なんて認めたくない、それだけのはずなのに。今まで築いてきた僕の理論が、その単純な感情を否定して傷つけた。都合がいいとか、そんなことは思いたくないのに。僕は、もう身近な誰かの死すら悼むことが出来ないほどに腐り切ってしまったのか?

 でも、僕が望んできたのはそういうことだ。エゴイスティックに生きて、それを自分に正直だなんて奇麗そうな言葉で無理やりオブラートに包んだ。それは、偽物じゃない。僕だ。あの日から結局一度も、一度たりとも立ち上がったことのない、僕だ。

 だとしたら、僕は、ようやく見つけたのかもしれない。


 僕が、自分の意志で僕を否定する瞬間を。


 もう、遅いけれど。


 零れかける涙を必死でこらえて、その汚れた液体を乱暴に擦り上げた。膝から力が抜け、ふらふらと古めかしいベンチに座り込んだ。ああ、そうだ。彼女はここに座っていたんだ。こういう景色を見て、あの日僕を待っていたんだ。

虚勢を張って、あんなに言い出すのに怯えるような隠し事を握りしめたまま、僕と向かい合うことを決めたんだ。自分の中の悪夢のような思い出が蘇ることも厭わずに。彼女の強さが、今なら分かる。もう、僕がどれだけこのベンチに座っていても、届かない強さを。


ホームの端まで数メートル。何度となく見た景色の、色が違った。


足に力を込める。立ち上がった。手を握りしめてみる。手のひらに喰い込んだ爪が痛い。小刻みに震える手を、必死に抑え込んだ。踏み出してみる。一歩分、距離が縮まった。あの朝、僕が立っていた場所まで、あと少し。あと少しで。

冬の風、冷たかった。すっきりした青色の空が、無垢に僕を待っている。一歩、踏み出す。あと、一歩。タイミングさえ見計らえば、それで。


『終わらせられる』


「落ちるつもり?」


 最後の一歩を踏み出す、前だった。その声には、聞き覚えがあった。


 ぎくしゃくと、凍り付いた体を振り向かせる。視線が交差するより早く、細い指が絡まる。そこから伝わる温もりは、紛れもない本物だった。


「勝手に絶望して、勝手に死のうとしないでくれる? あたしの前で」


 真っ黒なセミロングに見覚えはないけれど。


 その悪戯っぽく笑う顔。繋いだ手。人を馬鹿にしたような話し方は。


 間違えるはずがなかった。


「でも、まぁ──」


 続く言葉を、全身で塞いだ。縋りつく様に、必死で堪えた涙が零れ落ちるのにも構わずに。


「心配してくれて、ありがとう。私のことを」


 体温を、感じていた。本物を。僕を唯一、心の底の奥底の、汚さも美しさも超越したどこかから、悲しませることのできる人の。僕が唯一、純粋に涙を流せる人の。


 かつて何通りも考えた誤りの言葉も。普段なら何気なく言えるだろう嫌味も。夏に語った幾通りかの貧弱な会話も。一つだって浮かんでこなかった。ただ、そこにいてくれることを噛み締めていたかった。誰かの目も、ここで死んだ誰かの遺した想いも、全部踏み躙ってしまえるくらいには、僕は。


 僕は、弱かったから。



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