追憶の棘
「ね、どこへ行こうか」
これが何度目だろうか。無責任なコトを、にやにや笑いながら唐突に言い放つ。悪戯っぽい目の光だけど、それが『何か』を、僕の知らない何かを、隠しているものだと最近は分かるようになった。それを探れる距離に、僕はまだいない。数度の邂逅を経ても、まだ僕らは他人のままだった。
梅雨が終わり、瞼が痛くなるような日射が僕らを灼いていた。相変わらず始業時間ギリギリの電車に乗り続ける僕に、時々彼女は会いに来る。伸びていたポニーテールは最近切り落とされ、さっぱりとしたショートヘアに変わっていた。心なしか、染色の茶色も落ちて地の黒が濃くなったような気がした。
「僕が同行することは確定ですか」
別に授業がないワケじゃない。一々当日の朝になってから欠席の連絡をするのも面倒なのだ。幸い、レールに乗っていた時代のお陰で今のところは体調不良の言い訳も通用しているけれど。
いつバレたっておかしくない。その時、僕はどうなるのだろうか。
「ん、ついてきたくないならいいんだよ?」
だけど、先にあるのがゴミクズみたいに死んでいく未来だとしても。
「行きますよ、行きますけど」
僕はきっと、もうしばらくこうするしか出来ないから。気紛れに動き、気紛れに話す彼女についていきたいと思ってしまうから。ずっと昔に忘れていた、自分の本心の欠片を見つけてしまったから。
「君は変わってるね、本当に」
少し呆れて、彼女は言う。正直なところ、彼女だけには言われたくない。
お互いの名前すら知らない僕たちは、関係性を尋ねられたら間違いなく言い淀む。ただ、この何にも定義されない関係が、僕には楽だった。彼女がどう考えているかは分からないのだけど。どうなりたい、のビジョンもなく、どうなる、の確信もなく、とりあえず一日、浅はかに過ごすことが何よりも楽しい。
「じゃ、ついてきて欲しいとこがあるんだけど」
揺れる前髪に隠されて、横から瞳は覗けなかった。少し低いトーンで、俯きながら吐かれた声に従う以外の道はなかった。分かりました、とだけ答えて、もう慣れた指の動きで担任に連絡を送る。
そのまま二人で改札を抜けだした。無人駅でよかったと毎度思う。歩いていく、ならば近いのだろうか、と尋ねようとしたけど、彼女の背中は強張っていた。時々、彼女は何かに怯えるように堅くなる。その理由は、まだ聞けていない。
「君は、どうしてこうしてるの?」
灼熱の中を歩きながら、彼女は尋ねる。声はいつもより堅い。これから話す、『何か』を僕に予見させた。
「理由は自分でもよく分からないですね。暇じゃないはずなんだけど」
そう、僕は本来暇じゃない。正解のルートを下りるのなら、代案を作らなければいけない、はずなんだけど。
「他に、やりたいこともないし」
今は、何もしたくないのだ。何かしなくてはいけない、という呪縛から逃れたい。未来も何もいらないから、とりあえず今だけ楽に過ごしたい。それは、やっぱりダメなんだろうか?
「なるほど。つまり君は楽しくて仕方がないことが見つかったらあたしのことは忘れるんだ」
にやり、と振り返り彼女は言う。そういう、コトだろうか。でも、そうしないとは言い切れなかった。僕は、僕の未来なんて知ったこっちゃないのだから。
「言い返さない……か、傷つくなぁ」
ワザとらしく、乾いた笑いを漏らした彼女。今日はやはりいつもと違った。両手の指で数えられるほどしか会っていないのに、そう確信するのは少し傲慢だろうか?
「まぁでも、そういうコトだよね。人間同士なんだし」
諦めたように、少し悲し気に、でも笑顔は崩さないままに。そんなもん、と軽やかに落っこちた言葉に得も言われぬ寂しさが詰まる。
「楽しくて仕方がないこと、なんてあるんですかね」
少なくとも僕は、まだ見つけていない。彼女にはあるだろうか。
「……振り返ると最高だったな、ていう瞬間はあるからさ。多分その時なんじゃないかな、気づかないだけで」
最高の瞬間、彼女はそれを持っているらしい。僕は?
「そんな瞬間、ありますか?」
「あたしは、ある。多分他の人から見たら何でもないコトだけどね」
それからは、黙って歩いた。太陽は陰らず、僕らは汗ばむ。喧しい蝉だけが、耳を潤わせる。自販機で買った飲み物は、すぐにぬるくなった。
「ついたよ」
引っ張り込まれたのは、人の姿も見えないちっぽけな公園。錆びたブランコにシーソー、それにちょっとした砂場とベンチがあるだけの。
そう、他人からしたらただの空間の無駄遣い。だけど僕には、僕にとっては違う。ここは、『あの日』の場所だった。僕が手を上げ叫んだ、あの場所。自然と強張る体と、込み上げる吐き気を必死に飲み下した。何故、何故彼女は、『ココ』を知っている?
「ここでさ、あたしは君に言わないといけないことがあるんだ」
ベンチの汚れを払って、彼女は座った。息を落ち着けるように。その顔から、いつもの余裕を完全に失っていることが分かる。ポーカーフェイスのにやついた笑顔の面影もなく、その瞳の奥の暗闇を表に出したかのように。
「覚えているよね、君が酷い目にあわされた日のことを」
背筋を走る寒気は、強くなった。知りたい、だけど知りたくない。
「あの日、私はアレを見ていた。遠くから、私を助けてくれた君が傷つくのを」
──嘘だ。
僕は、誰一人助けてなんていない。だけど、彼女の『私』には間違いなく、聞き覚えがあって。
「そして、私は逃げたんだ」
淡々と、しかしその目から一筋の涙を零しながら少女は続けた。
「君が、みんなに立ち向かってくれたコト、私は知ってた。嬉しかった。だからあの時、あんなに辛かったけど、初めて生きていてよかったって思った」
違う。僕は、僕は──。
気紛れに、ただ気紛れに。自分を見せてみたくなっただけ。エゴイスティックな僕の正義を振りかざして、無様に打ち砕かれただけで。そこに、『誰かの為に』なんていう綺麗な感情はなかったって、やっと最近分かってきたっていうのに。分からせてきたのに。
どうして、今更僕の前に現れて、そんな感謝を伝えるんだ。息が詰まる。捨てたはずの、汚くて弱くて見苦しいあの日の自分が、吐き気に変わって喉元までせり上がった。
「私は弱くて、逃げて、どうするべきかなんて分かっていたハズなのに、何もできないままに──」
「やめろ」
思った、それだけだったはずなのに。吐き捨てられたのは、自分でも驚くほど汚い声。
びくりと縮み上がるのは、少し前まで見えていた『彼女』じゃない。小さく、弱く、涙を零す『少女』は、僕にとって。僕にとって、なんだって言うんだ? こいつが傷ついても、泣いても、僕には何も──。
違う、違う。こんなことが言いたい訳じゃない。中途半端に蘇ったあの日の、弱くて愚かな、でも確かに、『生きて』いた僕が、僕を揺り動かす。お前は、そこまで腐り切ってはいないだろう。そんな妄言を吐き散らかして、もうとっくに腐り切った僕を殴りつける。
伝える言葉を見失った少女から目線を切って、僕はその場所から離れた。行く宛ても、帰る場所もどこにもないけれど。だけど、ここには居られなかった。彼女ともう、一緒に居られなかった。怯えて、泣いて、できることならこのまま消えてしまえれば。
この日、僕は死んだように眠った。何もかもを忘れる為に。逃げきれないことは分かり切っていたのに。




